ルガルザゲシとウルク第三王朝の解説をします。
ルガルザゲシはシュメール人の都市王の一つであり宿敵であったラガシュを滅ぼしシュメール地方の覇者になった人物です。
ルガルザゲシはウルク第三王朝を建国しますが、アッカドのサルゴンに敗れウルク第三王朝も滅亡しました。
英雄的な君主であったはずのルガルザゲシの実績を中心に解説します。
尚、ウルク第三王朝はルガルザゲシの一代で滅亡しています。
メソポタミア文明における最初の大きな勢力の激突として、シュメールとアッカドの覇権争いがあったわけです。
ラガシュとの100年戦争に勝利する
シュメール人が住んでいたメソポタミア地方は、チグリス川とユーフラテス川の間の土地を指します。
バビロニア南部(シュメール地方)にいたシュメール人達は都市国家を建設しますが互いに争っていました。
特にウンマとラガシュの争いは長く続き100年に渡り激闘を繰り広げた話があります。
シュメール人の考え方として戦争と不妊は、神が増えすぎた人間を抑制する為の手段だとする解釈もあったようで、ウンマとラガシュの戦争は長く続いたのかも知れません。
ウンマのライバルであるラガシュでは、ウルイニムギナがラガシュ第一王朝の王として即位するや改革を始めます。
しかし、ウルイニムギナの改革は成功せず、3年で頓挫した話も伝わっています。
ウルイニムギナの治世7年目になるとウンマ王であるルガルザゲシは、国境の運河を超えラガシュに攻撃を仕掛けます。
ウンマ王ルガルザゲシの軍は強くラガシュの神殿を放火し破壊行為や略奪などを行いラガシュを滅ぼす事になります。
ルガルザゲシにウルイニムギナが敗れた事で、ラガシュ第一王朝は滅亡を迎える事になったわけです。
尚、ウンマ王ルガルザゲシがラガシュ第一王朝を滅ぼした事で、ウンマとラガシュの100年戦争は終焉を迎える事になります。
ウルク第三王朝の建国
ルガルザゲシはラガシュを滅ぼすと、シュメール人の都市の中で一番の勢力になったのかウルクに本拠地を移す事になります。
ウンマから本拠地をウルクに移したのは、伝統あるシュメール人の都市であるウルクを本拠地にする事で地盤固めを行ったのではないかと考えられています。
ルガルザゲシはウルクに本拠地を移すと、ウルク第三王朝を建国する事になり「国土の王」を称する事になったわけです。
ウルク第三王朝を建国し、国土の王を名乗った時がルガルザゲシの全盛期と言えるでしょう。
サルゴンとの覇権争い
後にアッカド帝国を築くサルゴンとルガルザゲシはバビロニアの覇権争いをする事になります。
サルゴンとルガルザゲシ
真実は不明ですが、サルゴンとルガルザゲシなる文学作品が存在します。
アッカド人のサルゴンは、母親が女神官であり神明裁判によりユーフラテス川に流される事になります。
捨て子となったサルゴンはキシュで成長し、キシュ王であるウルザババはサルゴンに封筒に入った手紙を持たせてルガルザゲシの所に向かわせます。
ウルザババはサルゴンの危険性を認知しており、ウルク第三王朝のルガルザゲシに殺害させようとしたわけです。
しかし、サルゴンは危機を乗り越えてアッカド王となり、後にルガルザゲシと天下分け目の戦いを行う事になります。
ウルク第三王朝の滅亡
バビロニア北部を領有するアッカド王国のサルゴンとバビロニア南部を領有するシュメール人のルガルザゲシの間で天下分け目の戦いが勃発する事になります。
サルゴンがルガルザゲシを急襲し勝利したとも言われていますが、一説としてルガルザゲシが滅ぼしたラガシュ第一王朝の最後の王であるウルイニムギナがサルゴンに味方した話も伝わっています。
ルガルザゲシとサルゴンの戦いの詳細は分かってはいませんが、サルゴンが勝利しウルクを占領し城壁を破壊した事は間違いなさそうです。
尚、戦いに敗れたルガルザゲシは捕虜となり軛を掛けられエンリルの神殿まで連行された話が残っています。
ルガルザゲシとサルゴンの勝敗を分けたものは、サルゴンが独自の親衛隊である5400人の常備軍を設置していた事やシュメール人の軍隊が槍中心なのに対し、アッカド人の軍は短弓を装備していた事などが挙げられます。
ルガルザゲシの軍はサルゴンが率いる戦闘のプロフェッショナル集団や短弓などの武器に上手く対応する事が出来ずに敗れた様に感じました。
ルガルザゲシが捕虜になりウルクの城壁が破壊された事で、ウルク第三王朝は滅亡する事になったわけです。
ルガルザゲシが建国したウルク第三王朝は一代で滅亡した事になります。
それに対し、アッカド王国のサルゴン一世はシュメール人達を傘下に組み込み人類初の帝国を築く事になります。
尚、シュメール人達はアッカド帝国がグティ人により壊滅的な打撃を食らうと、ウルの軍事司令官であったウル・ナンムが独立しウル第三王朝を建国する事になります。
ウル第三王朝の後は、ハンムラビ法典で有名なバビロン第一王朝などバビロニアのバビロンを本拠地とする王朝が新バビロニア(バビロン第11王朝)まで続く事になったわけです。
下の海から上の海まで
アッカドのサルゴンの勢力を示す言葉で「下の海から上の海まで制圧した」とする記述があります。
下の海はペルシア湾を指し、上の海は地中海を指すのが普通です。
記録によっては、ウルク第三王朝のルガルザゲシも「下の海から上の海まで制圧した」とする話が残っています。
この記録が正しいのであれば、圧倒的な戦力を誇るルガルザゲシにサルゴンが反乱を起こし勝利した事になります。
「上の海から下の海」の記述は、広大な領土を支配下にした時に言葉でもあり、ルガルザゲシもサルゴンもバビロニア地方を統一しただけであり、メソポタミア地方北部のアッシリアや後にミタンニ王国が建国されるシリアなどは支配下に組み込まれていなかった説もあります。
ただし、アッカド帝国の第四代国王であるナラム・シンの時代であればペルシア湾から地中海までの広範囲を一時的とはいえ支配した可能性もあるでしょう。