名前 | 倭隋(わずい) |
所属 | 倭国 |
時代 | 古墳時代 |
年表 | 438年 平西将軍に就任 |
コメント | 大和王権の実力者だった可能性が高い |
倭隋は倭王珍の配下の人物であり、宋から将軍号を認められた人物でもあります。
倭隋は倭が姓で隋が名前だと考えられています。
倭隋に関する記述は乏しく、倭王珍の求めに応じて宋が将軍号を授けた位の記述しかありません。
しかし、倭王珍と倭隋の関係を見ていると、当時の倭王が臣下をどの様にして制御していたのか分かる部分もあります。
倭の五王たちは倭を姓とし中国側と外交を行っている事もあり、倭隋は大和王権の王族だったのではないかとも考えられています。
因みに、倭隋は平西将軍に就任したと考えられ、倭王珍に匹敵するだけの実力を持っていた可能性もあります。
今回は宋書倭国伝に登場する謎多き人物である倭隋を解説します。
尚、倭の五王の三人目の人物である倭王済が倭隋の子だったのではないかとする説もあります。
倭隋の史書の記録
倭隋は中国の史書に名前が登場し、次の記述が存在します。
※宋書倭国伝より
珍また倭隋ら13人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍の号を除正せられん事を求めた。
詔して並びに赦した。
除正というのは官爵に就かせる事を指し、上記の記述から倭王珍は倭隋ら13人に将軍号を与える様に願い、宋の皇帝である文帝が許したとみる事が出来るはずです。
徐正された13人の中で倭隋だけが名前が残っており、将軍号の中で先頭に名前がある平西将軍になったとみる事が出来ます。
倭王珍は倭国王・安東将軍となっており、平西将軍に倭隋が任命されたと言えます。
倭隋に関する記述は、これだけであり将軍として、どの様な活躍があったのかは一切分かっていません。
しかし、倭隋を見る事で倭の五王がどの様にして臣下を制御したのか見る事が出来ます。
倭隋と将軍号から見えて来るもの
倭の五王の最初の一人である倭王讃は宋へ朝貢する事で安東将軍の位を得ました。
倭王讃は安東将軍となり名目として、宋の為に活動する将軍府を開設しており、司馬曹達に見える様に部下に将軍府の役職を与えています。
倭王讃の流れは倭王珍にも引き継がれたわけです。
倭隋が中国の官爵を望んだ場合に、最初に倭王珍に仮授される必要があります。
その後に、倭王珍が中国に使者を派遣し、部下の倭隋に官爵を与えたいと宋の皇帝に申請します
ここで宋の皇帝が倭隋の官爵を認めれば、晴れて倭隋は正式に宋の官爵を得られた事になります。
倭の群臣らは倭王珍を介さねば宋から爵位を得ることが出来ず、倭王の権威の向上に繋がる考える事も出来ます。
倭隋は強力な権力を持っていた
倭隋は先にも述べた様に、倭姓である事から大和王権の王族だとも考えられています。
倭隋は平西将軍に任じられたとされていますが、倭王珍にも匹敵する程の権力者だったとも考えられています。
倭王珍は宋から安東将軍に任命されましたが、倭隋が任命された平西将軍も三品将軍であり、安東将軍と平西将軍では殆ど差がないと言えるでしょう。
倭王珍と倭隋の関係を考えるヒントが五世紀の古市古墳群と百舌鳥古墳群にあるとする説が存在します。
古市古墳群と百舌鳥古墳群が並行して存在していたと考え、古墳を造営出来る勢力が同時期に二つあったのではないかとも考えられるわけです。
こうした事情から当時の大和王権の天皇の権力は、そこまで強力というわけではなく、国内には別の有力者が存在したともされています。
倭王讃や倭王珍の勢力の他に倭国内では倭隋をトップとする王族が存在したとする説です。
本来なら倭王珍の安東将軍と臣下の将軍号は離れていればいるほど、倭王珍の権威が高まりますが、倭王珍は倭隋に対しては、自分と同等の配慮を倭隋にしなければならなかったとも考えられます。
さらに言えば、倭王珍は安東将軍であり、倭隋が平西将軍であれば、倭王珍が倭国の東を支配し、倭隋が西を支配する統治機構があったとみる事も出来ます。
室町幕府の様に近畿の幕府と東国を支配する鎌倉公方の様な関係が、倭の五王の時代にあった可能性も出て来るはずです。
安東将軍の倭王珍と平西将軍の倭隋により日本を支配する機構になっていた可能性すらあります。
当時の大和王権は影響力を九州や朝鮮半島にまで及ぼしていましたが、全国の隅々まで支配したてはいなかったのでしょう。