三国志

常播は傷を負いながらも自分を貫く

2022年11月19日

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宮下悠史

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名前常播(じょうは) 字:文平
生没年不明
主君劉禅
時代三国志、三国時代

常播は正史三国志の注釈・益部耆旧雑記に登場する人物です。

常播は正史三国志の陳寿が書いた本文には登場はしません。

常播の場合は、特に大きな功績は挙げていませんが、上官の朱游の為に自分が傷つきながらも耐え抜いた人物です。

常播が何によって拷問から耐えたのかは分かっていません。

しかし、そこには常播なりの美学があり、自分を貫き、その話に感銘を受けた人が多くいた事で、世に名前が残ったという事でしょう。

常播の話は正史三国志の楊戯伝の注釈・季漢輔臣賛の後にあり、王嗣衛継と共に蜀書の最期を飾る人物でもあります。

上官を庇う

益部耆旧雑記によると、常播の字は文平であり蜀郡江原県の人だとあります。

常播は県に仕官し主簿功曹に任命されました。

この時に広漢出身の朱游が県長をやっており、常播の上官だったわけです。

建安15年(237年)に朱游は、役所の穀物を横領したと上官により誣告されてしまいました。

普通であれば朱游は重罪であり大きな刑を受けねばなりません。

諸葛亮の時代に蜀の法律は厳しかった話もあり、厳罰に処される状態だったのでしょう。

しかし、日頃から朱游は部下の面倒見がよかったのか、部下の常播が朱游の無実を証明する為に、獄にまで現れ弁護しました。

拷問に耐え抜く

常播は朱游を弁護しますが、拷問を受ける事になります。

常播は杖で数千回も殴られ痛めつけれ皮膚はボロボロとなり、見るに堪えない姿になってしまいました。

その間にも三度の裁判を行い、2年余り幽閉される事になります。

獄吏は何度も常播を傷つけ、獄吏は取り調べをしますが、常播は次の様に述べただけだった話があります。

常播「さっさと罰を加えよ。うだうだと訪ねる必要は全くない」

普通で考えれば、頭がおかしくなってしまったのか?と思うかも知れませんが、常播なりの美学があり、己を貫いていたのでしょう。

常播は最後まで自分の意見を曲げず、最終的に上官の朱游の刑死は取りやめる事になりました。

常播が耐え抜いている間に、同じく同僚の楊玩が動き、常播と同じ証言をした事で、朱游が無実だという事が分かったとあります。

この話が始まったのは237年であり、蜀では諸葛亮は亡くなっていましたが、蔣琬が政務の中心となっていた時代です。

蔣琬の性格などを考えると、安易に死刑にするとも思えず、保留としておいたのでしょう。

常播が称賛される

常播の自分の身を挺しての行動に、人々は賞賛の声を送る事になります。

益部耆旧雑記によれば「主君の為に一身を投げ打ち節義を貫いた壮烈な態度を称賛したのであった」と記録されています。

常播の態度が立派だと感じたのか、孝廉に推挙され郪長に任命されました。

しかし、常播は政治や軍事に関しては、どの様な功績があったのかは不明であり、50余歳で死去したとあるだけです。

常播の身を挺しての行為は人々の心に刻まれ、潁川の趙敦は常播の肖像画を描き、賛を書き讃えたとあります。

常播は気概により世に名を馳せた人物だと言えるでしょう。

政治や軍事の功績を挙げていなくても、主君の忠義を貫き名を残した事を考えると、史記の刺客列伝にある曹沫、専諸、豫譲、聶政、荊軻に通じるものがある様に思いました。

さらに言えば、張敖の為に身を挺した貫高にも似ていると感じています。

歴史というのは軍人や政治家だけではなく、生き様で人々の心を動かし、歴史に名を残す人もいるのだという事なのでしょう。

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