名前 | 広開土王碑(こうかいどおうひ) |
別名 | 好太王碑(こうたいおうひ) |
建立者 | 長寿王 |
コメント | 当時の情勢が分かる貴重な石碑 |
広開土王碑は好太王碑とも呼ばれている石碑です。
広開土王は高句麗の英雄的な君主であり前燕や百済の攻勢により、衰退していた高句麗を立て直した人物でもあります。
長寿王は父親である広開土王の輝かしい業績を讃える為に造りました。
広開土王碑は414年に建てられており、年表に関しては、かなり信頼できるものではないか?とも考えられています。
広開土王碑の内容に関しては、賛否両論ありますが、資料的な価値はかなり高く倭国も含めた朝鮮半島の情勢が分かる内容となっています。
日本書紀に神功皇后の三韓征伐の話がありますが、広開土王碑の内容が三韓征伐だったのではないか?と考える専門家もいる状態です。
今回は広開土王碑の倭国との戦いの部分をピックアップして解説します。
尚、広開土王碑は李進熙による日本陸軍による改竄説も出ていますが、現在では否定されています。
広開土王碑の内容
倭国が百済・新羅を臣民とする
広開土王碑によると、最初に高句麗と新羅との関係から記述が始まります。
※広開土王碑より
元々百済と新羅は高句麗の属民であり朝貢を行っていた。
しかし、倭が辛卯の年(西暦391年)に海を渡り百済・■■・新羅を破り臣民にしてしまった。
上記の記述から西暦391年に倭国が海を渡り、新羅と百済を降伏させてしまった事が分かります。
広開土王碑に「海を渡った」とする記述がある事から、朝鮮半島の南部の倭人が新羅や百済を臣民にしたのではなく、日本列島の倭国軍が朝鮮半島にやってきたとした方がしっくりと来る事でしょう。
神功皇后の三韓征伐では新羅に続き百済、高句麗も降伏させた事になっており、この記述から神功皇后の三韓征伐は391年ではないか?と考える人もいます。
上記の広開土王碑の■■の部分は現在では文字が読めなくなってしまいましたが「加羅」ではないかとも言われています。
倭人が高句麗を除く朝鮮半島の南部を制圧したとみる事が出来るはずです。
ただし、百済と新羅が高句麗の属民であり朝貢を行っていたのかは不明であり「高句麗側が述べている」位に考えた方がよいのかも知れません
百済討伐
広開土王碑によると、391年に倭国が朝鮮半島南部を抑えたのですが、396年になると高句麗側も動き出す事になります。
※広開土王碑より
そこで396年に王(広開土王)は自ら水軍を率いて百済国の軍■討伐した。
■■南に攻め取ること8城であった。
百済は義に服さず、あえて出でて百戦した。
王は威嚇し怒りて阿利水を渡った。
百済王は困窮し男女生口一千人、細布千匹を献上した。
王は帰順し、これからは長く奴客になると誓った。
大王は恩赦を与え、後は高句麗に従う事になった。
広開土王碑の内容からは、広開土王が百済討伐を実行し、百済王が降伏した事が分かります。
広開土王碑の内容を素直に読めば、日本に降伏した百済は再び高句麗の配下に戻ったと言う事なのでしょう。
新羅の訴え
399年に再び高句麗に服従した百済ですが再び反旗を翻す事になります。
※広開土王碑より
百済は誓いを破棄し倭と和通した。
これにより大王は平壌に巡下した。
そこへ新羅の使者がやって来て、大王に訴えて言うのは「倭人が国境に満ちており、城池を破壊し奴客(高句麗にとって)である自分を倭の従属民としております。
私は大王に帰属し、その命令に従いたいと思っています」
王は忠節を受け入れ、使者を本国へ帰還させた。
399年に倭の大軍が朝鮮半島に渡ると、再び百済は倭国との連携を優先し、新羅は「倭国に屈してはいるが本心ではない」と高句麗に救援を求めたのでしょう。
ただし、これもあくまでも高句麗側の言い分であり、新羅が本当にその様に述べていたのかは不明です。
倭軍を猛追
広開土王は新羅側の救援要請により、高句麗は兵を南下させる事になります。
※広開土王碑より
400年に王は騎兵、歩兵五万を派遣し往きて新羅を救援させた。
男居城より新羅城に至った。
倭軍は城中に満ち溢れていたが、高句麗の来襲を知ると、倭軍は自ら城を撤退した。
その後に倭軍を背後から官軍は猛追し任那、加羅の徒抜城に至った。
城はたちまちにして陥落した。
広開土王碑の内容だと新羅の城を占拠していた倭人が、高句麗軍が近づくと撤退しますが、高句麗軍に背後を襲われたという事が分かります。
広開土王碑の内容だと任那や加羅など朝鮮半島南部の倭人の居住区にまで、兵を進めた事が分かるはずです。
尚、任那という言葉は日本書紀の創作だという専門家もいますが、広開土王碑に書かれている事を考えれば、任那はかなり高確率で存在したと言えます。
倭の逆襲
400年の戦いで高句麗に敗れたはずの倭軍ですが、高句麗に対し反撃を行っています。
※広開土王碑より
404年に倭は無法にも帯方界に侵入した。
百済と和通し石城に至り船を連ねて■■したので、好太王(広開土王)自ら■■を率いて平壌から■■敵の先陣と遭遇戦となった。
王の親衛隊は力戦し敵を倒し切断し縦横無尽に斬りまくった。
これにより残された倭軍は壊滅し、斬首された者が多数いた。
上記の記述から404年に倭国の軍が平壌まで北上した事が分かるはずです。
高句麗が平壌に遷都したのは427年ですが、倭軍が百済や新羅を通り越し、高句麗領内まで攻め上っている事が分かります。
三国史記や新羅本紀では倭軍は連戦連敗という事になっていますが、広開土王碑だと高句麗の領内の重要拠点まで攻め込んでいるわけです。
再び倭軍と戦う
帯方郡で敗れた倭軍ですが、407年に再び高句麗の軍と戦った記録が残っています。
※広開土王碑より
407年に歩兵、騎兵を5万を派遣し■■させた。
高句麗軍は敵と戦い殺害し全滅させた。
獲得した鎧が1万余もあり、軍用物資や武器は数えきれない程であった。
407年にも倭国と高句麗は戦闘を行い、高句麗軍が完勝し多くの物資を得た事になっています。
これが広開土王碑の最後の倭軍との戦いの文言であり、高句麗の勝利で幕が閉じられています。
広開土王碑から見えてくるもの
倭の女王台与が西晋に使者を派遣した266年から倭王讃が東晋に使者を派遣する413年までを空白の150年と呼ばれていたりします。
空白の150年の間に、卑弥呼の邪馬台国が消滅し、大和王権が日本列島の主となっていたわけです。
空白の150年の前期は大和王権の拡大があり勢力が九州まで到達し、後半は広開土王碑にある様に朝鮮半島を戦場に戦い続けたのが現実なのでしょう。
広開土王碑は高句麗側の碑文である為に、倭国の軍は決まって大敗しますが、朝鮮半島を戦場にして戦い続けたのが実情だと感じました。
広開土王碑が建てられたのは414年であり、年表に関してはかなり正確だと言えるはずです。
流石に10年前の事であれば、年表の誤差は少ないと感じました。
広開土王碑の内容を見る限りだと391年に倭国と高句麗の戦いが始まり、少なくとも407年までは戦い続けた事だけは間違いなさそうです。
さらに言えば、413年から倭の五王が中国の南朝の東晋、宋、斉、梁に朝貢し下記の位を望んでいます。
使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王
これを見ると、倭国は百済、新羅、任那、秦韓・慕韓などの朝鮮半島南部の領有権を認めて欲しかったと中国の南朝に要求した事になります。
広開土王碑を見ると分かる様に、大和王権は中々進まない朝鮮半島の服属の為に、中国の王朝から権威付けが欲しかったのでしょう。
広開土王碑は当時の情報が分かる貴重な資料だという事が分かるはずです。
尚、倭国と高句麗が戦った場合を考えると、倭国はまともな騎馬軍団が皆無であり、重装騎兵を持つ高句麗に適うわけがないとする見解もあります。
日本も高句麗との戦いを行った事で、騎馬が導入される事になります。
因みに、騎馬民族征服王朝説なども一世を風靡しましたが、現在では否定されている状態です。
広開土王碑の改竄説
和光大学名誉教授であった李進熙は、1972年に次の様な事を言い出しました。
広開土王碑の碑文は旧日本陸軍により改竄されたものだ。
1972年は中国では文化大革命を行っており、広開土王碑がある吉林省には入る事が出来なかったわけです。
つまり、日本の歴史学者が現地に行き広開土王碑が本当に改竄されたのか確認する事が出来ませんでした。
李進熙は旧日本軍参謀本部・酒匂景信が入手した広開土王碑の拓本を、旧日本陸軍の朝鮮半島進出目的の正当化の為に都合がよい様に改変したと語っています。
ただし、改変した割には広開土王碑の内容が倭国が高句麗軍に連戦連敗であり、当時から本当に広開土王碑が改竄されたのか?と李進熙に対する不信感はあった様です。
しかし、現物の広開土王碑の確認が出来なかった事で、日本の歴史学者は反論する事が出来ませんでした。
2006年になると状況は変わり、中国の徐建新教授が酒匂景信のものよりも古い1881年作成の拓本を北京のオークションで発見する事になります。
酒匂景信の拓本と共にパソコンに取り込み確認が行われ、意図的な改変がない事が確認されています。
これにより李進熙の広開土王碑改竄説は妄想に過ぎなかったという事が証明されたわけです。