白眉とは、どういう意味か分かるでしょうか?
白眉の意味は、優れた人物です。
なぜ白眉が優れた人物を指すのかのお話です。
主人公は蜀の武将である馬良となります。
ちなみに、上の画像はKOEIから出版されていた爆笑三国志の見掛け倒しランキングで1位を取った時の画像です。
順位は1位馬良、2位孔融、3位袁術、4位張虎、5位于禁となっていました。
自分の中では、ちょっと納得が出来ない所もあるランキングですね・・・。
馬氏の五常白眉最も良し
【馬氏の五常白眉最も良し】いきなりですが、何を言っているのか分かりますでしょうか?
自分は、最初は全く【馬氏の五常白眉最も良し】意味が分かりませんでした。
昔、KOEIから出されている三国志のゲームで、軍師を呼ぶと「馬氏の五常白眉最も良し」と言ったりしたわけですが、自分は何が言いたいのか、子供ながらに分からなかった記憶があります。
「馬氏の五常白眉最も良し」の意味ですが、馬氏には優れた兄弟が5人いました。
全員が字(あざな)に、「常」が付いたので、「五常」と呼ばれていたそうです。
字と言うのは、劉備だったら「玄徳」の部分に当たりますし、諸葛亮であれば「孔明」の部分の事になります。
5人優れた兄弟の中でも、眉毛に白い毛が混じっている馬良が一番優れていたという言葉になっています。
それで、優れた人物の事を「白眉」と呼ぶようになったわけです。
ちなみに、馬良の字は季常です。
馬氏の五常の他の兄弟は何をしていたのか?
馬良以外の優れていたとされている兄弟は、弟に馬謖がいます。
諸葛亮の命令を背き、王平の意見を聞かずに街亭の戦いで破れた馬謖の事です。
「泣いて馬謖を斬る」の故事でも有名な人です。
馬謖は、馬良の弟とされています。
残りの3人も優秀だとされている兄弟ですが、記述がないので何をしていたのか分かりません。
馬良や馬謖が蜀に仕えていたように、蜀に仕えた可能性もあるでしょう。
ただし、馬良の出身地は襄陽郡宜城県です。ここは、荊州北部となり三国時代では、魏の勢力圏です。
そのため、魏に仕えた可能性もありますし、荊州の中南部は呉の勢力圏なので、呉に仕えても不思議ではありません。
諸葛亮と諸葛瑾も兄弟で蜀と呉に仕えている様に、蜀以外の国に仕えていても不思議はないでしょう。
馬氏の五常は、馬良と馬謖以外の記録がないので、何とも言えません。
馬良と諸葛亮は義兄弟となる
正史三国志の裴松之の注になるのですが、諸葛亮と馬良は義兄弟の契りを結んだか、親類だったのではないかと予想しています。
諸葛亮の方が馬良よりも年上だという記載もあります。
劉備が蜀を取った時に、馬良は荊州でお留守番をしていたわけです。
馬良は諸葛亮に手紙を送っていて、雒城が落ちた確認や才能のある人材を求める事、時代にあった事をする事などが書いてあります。
その中で、馬良は諸葛亮の事を「尊兄」という呼び方をしているわけです。
そこから諸葛亮と馬良が親しい仲だった事が分かります。
尚、その内容を劉備や諸葛亮などが大いに気に入ったようで、馬良は荊州から蜀に配属が変わったようです。
そのまま荊州にいたら、孫権に攻められて関羽同様に斬られていた可能性もあるでしょう。
案外、関羽に尊大な態度に嫌気がさして、呉に寝返ってしまったかも知れませんが・・・。
それでも、馬良は忠臣と言う事で、そういう事はなかったと信じたいと思います。
しかし、荊州から蜀に移ったのは、命拾いしたとも言えます。
孫権の使者になった事がある
馬良は、正史三国志によると孫権の使者に立候補したようです。
孫権と言えば、伊籍が使者に行った時は「無道な主君に仕えると苦労するか?」とか、言い出すような人です。
さらに、鄧芝の時は、釜茹で刑で煮殺す準備をして待ち受けていました。
この人物に馬良は使者になると言ったそうです。
普通で考えれば絶対に嫌な役目でしょう。
さらに、孫権は劉備が蜀を自分の領地にしてしまった事で、内心よく思っていなかったはずです。
その使者に、馬良は自薦しました。
最初に孫権に手紙を出す事になったわけですが、諸葛亮が馬良に自ら書くように命令を出しています。
馬良の書いた文章が、古代の夏王朝の人物である昆吾氏などの諸侯を例に出すなど、大変見事なものでした。
そのため、孫権も意地悪をせずに、馬良に対して敬意の念をもって接したそうです。
外交などは見事な物と言えるでしょう。
尚、馬良の自分で書いた手紙の中に、自分の事を「荊州出身の善士」とか「最後まで持続する美しさがある」と自分の事を言っているわけです。
自分が書いていたら、自分を絶賛しすぎて、恥ずかしくなってしまう気がしますが・・・。
孫権に提出するので、仕方がない部分もあるかとは思います。
夷陵の戦いと最後
馬良は関羽の敵討ちでもある夷陵の戦いに参戦した記録があります。
それによると、武陵まで行き五渓の異民族を帰順させた功績があります。
さらに、五渓の異民族は蜀の印綬を受け取った記録があり、三国志正史には「全て目的どうりになった」と記載があります。
夷陵の戦いでは、劉備を敗れ去ると「殺害された」と記録の残っているだけです。
陸遜率いる呉軍に敗北を喫したのか、蜀の劉備が大敗する所を見た五渓の人々が裏切り、馬良を殺したのかは分かりません。
ただし、死んだ事は間違いないでしょう。
三国志演義の馬良
ここで三国志演義での馬良を見てみたいと思います。
夷陵の戦いでは、孔明の嘆きにつながる名シーンを演出しています。
劉備の陣形を見た馬良は疑問を抱くわけです。
諸葛孔明に相談するために、蜀の成都に行ったわけですが、陣形図を見た諸葛亮は「漢王朝の命運はここまでか」と思わず叫んでしまいました。
その後、諸葛亮が予言した通り、陸遜の火刑に合ってしまい夷陵の戦いで劉備は大敗北を喫し、白帝城に逃げ込む事になります。
ただし、諸葛亮に相談に行っている間に、劉備は負けてしまい命拾いしています。
しかし、劉備が亡くなり劉禅が位につくと、諸葛亮は孟獲を討伐するために、南征の軍を起こしています。
その頃に、馬良は死亡した事になっているのが、三国志演義の馬良の最後です。
白眉は見掛け倒しなのか?
馬良の白眉ですが、見掛け倒しだと言う人がいます。
【馬氏の五常白眉最も良し】のインパクトが強すぎて大活躍を期待してしまう為ではないでしょうか?
さらに、夷陵の戦いで従軍したにも、関わらず劉備が大敗しているのも、評価を下げる一因なのではないかと思います。
劉備の長蛇のようになってしまった陣形を、変更にするように進言した記録もありません。
他にも、三国志演義では陣形に対して不思議に思ったまではよいのですが、自分で判断が出来ずに諸葛亮に相談に行っています。
劉備の陣の話し聞いた、魏の文帝曹丕や司馬懿も劉備軍の敗退を予想しています。
曹丕でも気が付いたのに、馬良が疑問を持っただけになっています。
ここも白眉の評価が下がる一因になっているはずです。
しかし、自分が思うに正史三国志などを見る限りでは、夷陵の戦いで劉備は他人の意見に聞く耳を持っていないように感じるわけです。
実際に、夷陵の戦いに参戦している劉備軍の武将の中で、戦略眼が一番あったと思われるのは黄権でしょう。
その黄権でさえも、劉備は自分の傍に置かずに、北方に配置しているのです。
つまり、軍師がいても聞く耳を持ちませんし、意見はいらないと言わんばかりの態度に見えます。
それを考えると、馬良がどんなに献策しても、劉備は聞かなかったのではないかと思われます。
法正がいれば聞いたかも知れないと諸葛亮は言いますが、それも怪しい所があるような気がしてなりません。
しかし、夷陵の戦いでは、五渓の異民族を懐柔していますし、功績はあります。
それを考えれば有能な人だったのではないかと個人的には思います。
白眉が余りにもインパクトがあり過ぎて、過度に期待してしまうのが問題かも知れませんね
諸葛亮、司馬懿、陸遜、周瑜ほどの活躍はなくても、魏の満寵、呉の陸抗くらいの活躍は欲しいような気がしますけどね・・。
白眉の想いで
昔、学生だった頃に三国志オタクのような人がいました。
実際に私もそうかも知れませんが・・。
その人の卒業文集の一言を書く欄に「誰か自分の事を白眉と呼んでくれ~」という言葉を書いていましたw
ほとんどの人が意味不明だったのではないかと思います。
これが学生時代の白眉の想い出です汗
ちなみに、現在のファッションで考えると、眉毛を白くしたりするのは、やめておいた方がいいでしょう。
多くの場合で、女性ウケなどもよくないと思いました。
むしろ、男性で婚活などをしていて、眉毛に白い毛が混ざっていたら、黒く染めてしまった方がいいと思う位です。
おじさんっぽくなってしまって、女性ウケが悪くなるような気がするからです。
他にも、髪の毛が黒くて、眉毛だけが白かったら、ちょっと不気味な感じがするかも知れません。
いくら白眉が優秀だという意味でも、実践するのはやめておきましょう。
もちろん、女性であっても眉毛だけを白くしてしまったら不気味だと思われます。
しかし、実権してみたわけではないので、勇気があるチャレンジャーは実践してみてください。