名前 | 二里頭文化 |
読み方 | にりとうぶんか |
時代 | 紀元前1800年~紀元前1500年頃 |
場所 | 中国河南省の一帯 |
コメント | 夏王朝だとする説がある |
二里頭文化は河南省を中心に発展し黄河文明に属します。
二里頭文化は青銅器が使われた事が分かっています。
二里頭文化の前にあった仰韶文化や竜山文化では青銅の普及は殆ど出来てはおらず、それらを考慮すると二里頭文化は青銅により大勢力になったとも言えます。
二里頭遺跡には王都があった事も分かっており、先祖を祀る祭祀も盛んに行われました。
二里頭遺跡が夏王朝や殷王朝に繋がるとする説もありますが、文献と二里頭遺跡の間でズレも出ており、断定はできない状態です。
しかし、現時点では二里頭遺跡に中国最古の王朝があった事は間違いないでしょう。
今回は黄河文明にも属する二里頭文化を解説します。
黄河流域で栄える
紀元前1800年頃から紀元前1500年頃になると黄河中流域で二里頭文化が栄える事になりました。
ただし、二里頭文化はある日、突然の様に栄え出したわけではなく、母体は紀元前2000年位には存在したと考えられています。
黄河文明は世界四大文明の一つとして名が通っています。
しかし、黄河文明に属する仰韶文化や竜山文化には都市も青銅もなくメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明を比べると見劣りする存在でした。
黄河文明も二里頭文化の時代になると王都もあり青銅の技術も持つ様になり、漸く文明らしくなってきたと言えるでしょう。
二里頭文化が栄えた理由ですが、仰韶文化と同様に天下の中心とも言える地にあり、天下の物や情報が集まりやすい事が大きな要因だと考えられています。
黄河や渭水や淮河の支流を辿って行けば、二里頭文化圏に入る事で商業によっても栄える事になります。
各地の文化や技術を吸収し二里頭文化は栄えました。
二里頭文化も中華思想を大きく持っていたとされています。
青銅器の生産
二里頭文化では紀元前1800年頃になると、青銅器の大量生産が可能となります。
世界史を見ると分かる様に青銅が生産される様になると生産性が高まり、都市国家が出来るのが普通です。
二里頭文化では王都も誕生し、広域を支配し世襲王朝まで誕生しました。
二里頭王朝では巨大な宮殿を造営したり、権威を示す為の青銅器を大量に生産した事が分かっています。
銅の産出地は限られているので、そこを支配するか交易ルートを確保するだけの軍事力が必ず必要になります。
青銅を製造するには素焼きや単純な窯では難しく、専用の工房や技術者を雇う必要があり、それだけの経済力も二里頭分化にはあったと言えるでしょう。
青銅が普及すると都市国家が出来るといっても、実際には軍事力や経済力の元で成り立っていたと考えられます。
二里頭王朝は青銅の力もあり300年ほど繁栄しました。
尚、二里頭文化が滅亡しても青銅は重宝され、戦国時代に鉄が使われる様になるまでの1000年以上も代表的な金属として重宝されました。
二里頭王朝
二里頭王朝には文字がない事から正確な部分は不明ですが、世襲王朝があった事が確実視されています。
世襲王朝の成立に必要なものは、血統の神聖化であり、その為の物品や儀礼が生まれるわけです。
祖先を祀ったりすれば血統を神聖化させる事ができ、宗教的な権威も確立する事が出来ます。
二里頭王朝の始まりは明晰な頭脳を持った天才がいたのではないか?とする説もあります。
尚、二里頭王朝で九鼎が出来上がり、夏王朝が滅びると、殷王朝、周王朝と渡り、秦によって周が滅びると九鼎が渭水に沈んでしまった話があります。
始皇帝は渭水の中を探索させますが、結局は見つかりませんでした。
この説だと二里頭王朝と夏王朝が関係しているかに思えますが、実際には関係性を確認する事が出来ません。
二里頭王朝と夏王朝に関しては後述してあります。
金色の青銅
(鼎・・ウィキより)
古代の青銅器といえば青っぽい様なイメージがある人が多いのではないでしょうか。
しかし、青銅器が製造された時は金色をしており輝かしいものだった事が分かっています。
(ウィキより)
青銅器は王の権威を示す道具にもなったわけです。
二里頭文化では王の威厳を見せつける為には、壮麗な宮殿や金色の青銅器は必須だったと言えるでしょう。
二里頭王朝の王は宮殿で儀礼をおこなう事で自分の権威を示し、威信を高めました。
今で考えれば神を祀るとか、神頼みが通用しない事が分かっていれば非合理的に思うかも知れませんが、古代で考えれば合理的な考えでもあったわけです。
二里頭王朝では社会の階層化が進み、血統を重視する世襲王朝が誕生したとみられる事も一つのポイントでしょう。
二里頭王朝では軍事力で政治的な権威を構築し祭祀によって宗教的な権威を得たと考えられています。
二里頭文化の時代まで下がれば黄河文明も間違いなく文明だと言えるはずです。
奴隷がいた
二里頭文化では農民の下に奴隷がおり、奴隷は戦争捕虜や罪人でなしていました。
二里頭文化では奴隷は神への生贄となる場合も多かった様です。
殷王朝なども周辺民族を捕虜にすると、宦官や奴隷にしてしまったり生贄にしています。
尚、殷の紂王などは暴君の代名詞ですが、甲骨文によれば生贄をやめる様にした記録が残っています。
二里頭文化圏に奴隷がいたと言っても、労務を奴隷にさせた奴隷社会だったわけではありません。
農耕はちゃんと農民がやっていて、身分の高い人物の家来として奴隷がいました。
尚、ユーラシアの歴史を見ると、身内よりも配下の奴隷出身者の方が信頼される場合も多々あります。
一族だと血縁関係の繋がりがある事で、自分の存在をおびやかしたりすると考え疑われる場合もあり、奴隷出身者だと、そもそも王位の正統性もないから信頼されたりもするわけです。
二里頭遺跡は夏王朝なのか
二里頭遺跡に関しては、殷王朝との関係も言われている所ですが、夏王朝を指すのではないか?とする説もあります。
実際に二里頭遺跡こそが夏王朝だと期待する人も多い事でしょう。
夏王朝の始祖は禹は治水工事を成功させた事で、舜から帝位を譲られた人物であり、二里頭遺跡が黄河周辺にある事から夏王朝だとも考えられるわけです。
夏王朝の始まりは紀元前2000年頃とされていますが、二里頭文化の母体となる集団が同じ頃にいたともされています。
しかし、夏王朝は現在は文献的な資料しかない状態であり、逆に二里頭遺跡は考古学的な発見でしか確認を取る事が出来ません。
その為、問題点も生じるわけです。
文献によると夏王朝は九州を支配したとあり、中国の全土を支配した様な書き方をしています。
禹が長江文明がある会稽で諸侯を封じたなどの話もあります。
しかし、実際の二里頭文化では河南省を少しはみ出る位の勢力範囲でしかありません。
西周王朝であっても中国全土は平定してはおらず、さらに技術も発展していない二里頭文化で中国全土を支配する事が出来るのか?とする問題もあるわけです。
文献では夏王朝の首都は山西省となっていますが、二里頭文化は江南省であり拠点のズレもあり現時点では二里頭遺跡が夏王朝だと断定する事は出来ません。
二里頭文化の滅亡
二里頭王朝では儀礼に音楽を使うなどもしたと考えられており、繁栄しましたが、滅亡の時が訪れる事になります。
紀元前1500年頃に二里頭王朝は滅亡したと考えられています。
二里頭文化は最終的に、東の下七垣文化の勢力により支配され滅亡しました。
下七垣文化の勢力が殷王朝となったとするのが通説となります。
二里頭文化の滅亡に関しては、文献による記録がなく、どの様にして滅んだのかは不明です。
二里頭遺跡の勢力がどの様にして王都が陥落したのか?なども分かってはいません。
二里頭文化の勢力は滅びましたが、文化は殷王朝に受け継がれる事になります。
殷王朝は新たなる首都として亳を定め二里頭王朝のあった場所を監視する為の副都も造営しています。
殷の勢力が二里頭王朝を滅ぼしたのであれば、二里頭王朝の勢力が夏の様に思うかも知れません。
しかし、前述したように二里頭王朝の勢力が夏王朝だと断定するのは難しい状態です。