阿房宮は秦王政(嬴政)が統一後に始皇帝を名乗り、建設を始めた宮殿です。
始皇帝は天下統一すると、小篆を採用した文字の統一、度量衡の統一、焚書坑儒における思想の統一も行っています。
始皇帝は土木工事も盛んに行っており、蒙恬が匈奴を破った後に万里の長城、オルドス地方に南北に縦断する直道、南越に攻める為の運河などを作っています。
始皇帝は首都である咸陽にも大規模は宮殿を建設し、これが阿房宮となります。
阿房宮は始皇帝の起こした土木工事の一種で、信じられない位の広さがあったとされています。
しかし、阿房宮が阿保の語源になったとする説もあるのです。
阿房宮とアホは名前が似ていますが、これが語源だと言うのです。
興味深い話だと思ったので紹介したいと思います。
ちなみに、馬鹿の語源は始皇帝の寵臣だった趙高が作ったとされています。
主君と臣下でアホとバカの語源を作ったのは印象深いです。
尚、阿房宮が阿保の語源になった説は、間違いだとする学説も多いので、そこは注意してください。
阿房宮のとてつもない広さ
最初に考えないといけないのが、阿房宮の広さです。
前庭だけで東西500歩あり南北で50丈あったとされています。
さらに、1万人が座る事が出来る場所が阿房宮にはあったともされているのです。
阿房宮が余りにも広いために、夜になって戸を締め出しても、全部締まるのが朝になってしまうという笑い話もあります。
しかし、それが本当であれば想像を絶する広さです。
阿房宮は、楚の項羽が咸陽に入った時に焼かれてしまうわけですが、3カ月が経過しても火が消えなかったと言う話が残っています。
そのため信じられない位の広さだった事は確実でしょう。
ある意味、アホなほど広いのが阿房宮なわけですが・・。
阿房宮は公共事業ではない
巨大建造物は公共事業じゃないか?と考える人もいるようです。
ピラミッドなどは公共事業説もありますし、民が仕事が無くて困っている時に、民を貧困させない為の事業だとする説です。
しかし、タダで金を配るのも何だからと公共事業をやるパターンと言えます。
不況になると公共事業が増える話を聞いた事がある人も多い事でしょう。
しかし、始皇帝の阿房宮に関しては、公共事業説は聞いた事がほとんどありません。
実際に作るのに300万人が動員されたなどの説もありますが、労働は過酷だったようです。
当時の中国の人口は2000万人位とも言われていて、6,7人に一人くらいは阿房宮に関わっていたとされています。
秦の法律は厳しいために、納期の遅れは許されませんし民の恨みが入っているようにも感じます。
そのため、始皇帝が死に子である胡亥の代になると秦はすぐに滅びてしまいました。
扶蘇が跡を継げなかった事や趙高の暴走などもあるかと思いますが、始皇帝の阿房宮や万里の長城などの土木工事好きも原因の一つになっている事でしょう。
ある意味、アホなほど土木工事が好きなのも始皇帝なわけです。
春秋戦国時代の梁伯は土木工事が原因で国を滅ぼした
春秋左氏伝の話しですが、春秋戦国時代の初期に梁という小国がありました。
梁を統治していた梁伯ですが、土木工事を好み宮殿を何度も建てたと言われています。
しかし、作った宮殿には住む事はなく国民の不満が溜まっていたそうです。
そこを秦に攻められてしまい梁は滅亡したとされています。
梁伯の名前が分からないのは。宮殿を作って住まないのは自業自得であり「名前を載せるほどの価値もない人物」だから名前が分からない説もあります。
このように秦の阿房宮以外でも宮殿作りで失敗した例はあるわけです。
華麗な宮殿を作る本当の意味とは?
華麗な宮殿を作る意味ですが、謀反を起こさないための手段という説があります。
漢の蕭何が劉邦がいない間に華麗な宮殿を作ってしまいました。
劉邦は項羽を破ったばかりで政情不安などから、蕭何を非難するわけです。
しかし、蕭何は次の様に主張しています。
「政情が不安定だからこそ立派な宮殿が必要なのです。華麗な宮殿を見る事で諸侯は漢の力に恐れをなして、反乱を起こす気持ちも起こらなくなるのです。」
さらに、ここで壮麗な宮殿を作っておけば、子孫の代で作る必要がないから役立つと言いました。
この様に蕭何が主張した事で劉邦も納得した話が残っています。
確かに、壮大な宮殿が出来る事で諸侯の反乱を未然に防げるのであれば、宮殿のコストはいいと思います。
ただし、劉邦は統一後から猜疑心が強くなり、諸侯は殺されると思って反乱を起こした人も多くいるわけです。
それを考えれば壮麗な宮殿だけでは謀反の防止にはならないでしょう。
勝てなくても、謀反を起こさなければ殺されると分かっていれば、謀反は起きると思いました。
古代の帝王との違い
史記などで古代の帝王の話しが出てきますが、質素な生活をしている人が多いです。
質素倹約な生活を行って国民の生活を優先したなどの話しも多いわけです。
他にも、質素な生活をして徳を磨いたところ、敵が降伏してきたなどの話しもあります。
黄帝や堯、瞬のような聖帝は質素だとされていますが、結構、実際には派手な宮殿なども持っていたのかも知れません。
伝説上の人物なので分かりませんが、自分を押し出す事をしないと舐められてしまい反乱も起きるかなと思ったからです。
それを考えれば壮大な宮殿は必要だったのでしょう。
ただし、阿房宮の場合は規模が大きすぎるわけです。
ここに弱点があると思いました。
阿房宮は必要以上に大きすぎる
阿房宮ですが、これに関しては必要以上に作り過ぎていたのではないかと考えています。
宮殿は住む事が出来て、諸侯の反乱や敵の戦意を削ぐ事が出来ればいいわけです。
必要以上に大きすぎるのは、反感を買ったりしてしまうと感じます。
つまり、始皇帝の阿房宮に関しては、度が過ぎていると思いました。
阿房宮の費用が無駄にかさんだりした事で、秦の財政を悪化させた事でしょう。
それを考えれば阿房宮は、始皇帝のやり過ぎ政策だと言えます。
阿房宮は、必要以上に華麗に作り過ぎてしまったと思いました。
これを見ると始皇帝は贅沢な男だ!と思うかも知れませんが、実際の始皇帝はかなり勤勉な性格だったようです。
朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、自分で1日30キロの書類を決裁するのをノルマにしていました。
始皇帝からして見れば「皇帝の俺がこんなに頑張って働いているんだから、お前らも怠けずに働け!」という事なのかも知れません。
押し出しは大事だと思う
阿房宮は無駄にデカいとか批判的な事は書いてしまいましたが、押し出すという意味では大事な事です。
ただし、やり過ぎは厳禁ですが・・。
人間関係においても、押し出しは大事で、外見に気を使わなかったりすると舐められてしまう事も少なくありません。
仕事などでも、怒られ役になってしまう人がいますが、押し出しが足りないと個人的には思っています。
最近、化粧品売り場などに行けばメンズ化粧品も数多く扱われるようになっています。
そのため男であっても、肌を鍛えたり、今風のお洒落な髪型や服装などはした方がよいと個人的に思っています。
歴史好きの人は内面を磨く事を重視して、外見を磨く事を忘れてしまう傾向にあるような気がするんです。
現在であれば男であっても押し出しを強くするために外見の強化は必要だと考えています。
ただし、押し出しを強化すると言っても、阿房宮は作らなくていいですけどね・・。
それでも、阿房宮の建造は焚書坑儒と共に始皇帝のやり過ぎ政策の一つに入るかも知れません。
それにしても、始皇帝は蒙恬に万里の長城の建設を命令するなど、土木工事を好んだともいえるでしょう。