周の穆王を紹介します。
周の穆王はKOEIの人気のゲームである三国無双シリーズに登場した事もあり一躍有名になった事もありました。
今回は、周の穆王を紹介します。
穆王は、周の昭王の子であり共王の父親です。
史記などでは、失政などもあり王道の衰えを加速させてしまった人物にも描かれているわけです。
しかし、金文研究者の中には、穆王の時代が周の全盛期だと主張する人も多くいます。
尚、周の穆王の御者は造父と言いますが、この造父が趙城に封じられた事で趙氏を名乗り戦国七雄の「趙」の始祖と呼ばれています。
造父は馬の達人として有名な人です。
穆王の即位
穆王ですが、周の昭王が南征で敗れ行方不明となった事で即位したようです。
司馬遷が書いた史記の周本紀には、穆王が即位した時に、既に50歳だったと明記されています。
さらに、55年間在位した記録もあり、謎が多い西周王朝において、記録が比較的しっかりとしているようにも感じます。
ただし、穆王は昭王の子だと明記されているので、昭王は何歳まで生きたの?という謎もあります。
さらに、50歳で即位して、55年間在位しいていたら、穆王は105歳まで生きた事になります。
それを考えると、本当かどうか分かりません。
尚、在位年数に関しては色々な事を言う専門家がいます。
穆王は、紀元前1000年頃の周王朝の王様だと思えばよいかなと考えています。
西王母に会う
周の穆王の話で有名なのが、西に巡狩して西王母に会った事です。
穆王は西方を巡狩して、崑崙の丘に行き、そこに住む仙女である西王母に会い、楽しくて時の立つのを忘れてしまい3年間いたという話があります。
この話は史記に乗っているだけではなく、虚構とも呼ばれている「穆天子伝」の話でもあります。
列子という書物にも周穆王という項目があり、そこには西王母と遊んだ記録が残っています。
尚、史記などに書かれている巡狩というのは、戦争も含まれているようです。
つまり、周の穆王の犬戎征伐の裏返しの話しだともされています。
父親である昭王も史記では南方に巡狩した事になっていますが、実際には南征だったようです。
尚、西周王朝は周の幽王の代に、幽王が褒姒を溺愛した事や太子の宜臼を廃した事で、申公や犬戎の攻撃を受け首都の鎬京が陥落する事態となり、春秋戦国時代が始まる事になります。
穆王の西征
穆王の西征ですが、祭公謀父が諫めています。
祭公謀父の言うには、犬戎は武による討伐ではなく徳を持って抑えるべきだと言います。
しかし、穆王は西にいる犬戎討伐を決行しています。
その結果、白狼と白鹿を得て帰還したとあります。
ただし、荒裔の者が来朝しなくなったとあるのです。
つまり、穆王の犬戎討伐は半分が成功して、半分が失敗したような書き方をされています。
ただし、成果の部分である白狼と白鹿が何を指すのかは分かりません。
家畜を大量に手にいれたとか、そういう話ではないと思いますが、何を指すのかは不明です。
穆王は馬の産地を確保したかった?
穆王ですが、馬の産地を確保したくて西の犬戎を討ったとする説があります。
穆王の話しでは、馬の話しが結構出てきます。
穆王八駿なる馬の話しもあるくらいです。
・土を踏む間もなく早く走れる「絶地」
・鳥よりも走るスピードが早い「翻羽」
・一晩で5000キロ走れる「奔霄」
・自分の影を追い越す事が出来る「越影」
・光よりも早いスピードで走れる「踰輝」と「超光」
・雲に乗って走る事が出来る「騰霧」
・翼がある馬「挟翼」
これらが穆王八駿と呼ばれている名馬です。
これらを使い穆王は遠征をしたとされています。
ただし、全ての馬が常識ではありえないような能力の高さを示していますし、言葉を真に受ける必要はないでしょう。
早く走れる馬だと言う事が言いたいだけだと思われます。
西方の馬は中華の馬に比べると、今でいうサラブレッドで性能が良かったのかも知れません。
徐偃王の反乱
穆王は西方の遠征に夢中になっていたようですが、東方の徐偃王が反乱を起こします。
西王母の話しでも、徐偃王が反乱を起こした事で、穆王はすぐに東方に討伐に行っています。
徐偃王についても、謎が多い人物で人によっては北にある徐という地名で起きた反乱と解釈している人もいるわけです。
他にも、「偃」という字が「燕」に通じていると考える人もいます。
諸侯のうちで強大な勢力を持った者が反乱を起こしたのかも知れません。
しかし、穆王は1日で帰り討伐した話もありますが、流石に1日で帰るのは不可能でしょう。
造父が御者となり1日に数千キロ走り徐偃王を破った話もあります。
ただし、穆王の馬だけ早くても軍隊が付いて来れなければ、戦争は出来ないはずであり、史実とは考えにくく多くの虚構が盛り込んでいる様に感じました。
穆王と呂刑
穆王の実績として呂刑があります。
司寇(役職名)の呂侯に命じて刑法を定めようとしました。
呂侯に関しては、昭王の頃から金文にも名前があり実在の人物だと思われます。
ただし、金文に書いてある呂侯が呂刑を定めたのかは分かりません。
しかし、呂刑は罪状が3000もあると言われいて評判が悪かったとされています。
商鞅、韓非子や李斯などの法治国家のさきがけのような政策だったのかも知れません。
金文における周の穆王
金文にも、もちろん周の穆王の記載があります。
犬戎や徐偃王の討伐らしき話も書かれています。
ただし、淮夷の反乱があったなどの記載です。
尚、金文研究者の中には、穆王の時代は西周王朝の中でも天下泰平の時代であり安定した政権運営が行われていたという見解の人が多いです。
史記などによると、穆王の父親である昭王の代から王道が衰え始めて、穆王の代ではさらに衰えが進んだようにも読み取れます。
しかし、実際には穆王の時代が周の全盛期だという金文研究者は多いわけです。
西周王朝の全盛期といえば文武成康の初期の頃を思い浮かべそうですが、康王までの時代は、国としてまとめるのに必死だったようです。
政局もそれほど安定していなかった可能性も指摘されています。
ただし、穆王の「穆」には「過ちを犯した」という意味もあります。
そのため、政治上の失敗もあったのではないかと考える事も出来ます。
尚、秦の穆公は春秋五覇に数えられる事もある名君でしたが、死んだ時に家臣170名が殉死しています。
もちろん、有能な家臣も死んでしまった為に、秦は弱体化しました。
そのため「穆」という諡号が贈られています。
それを考えれば、穆王にも何らかの失政があったのではないかと考える事も出来るわけです。
失政として考えられるのは、西征や呂刑なのではないかと思います。
穆王の御者が趙と秦の祖先
最初に、穆王の御者であった造父は、趙の祖先だともお話しました。
しかし、造父は秦の祖先でもあります。
造父は趙城を与えられて趙性を名乗りますが、周の孝王の時代に趙氏に非子という者がいて馬の繁殖がとても上手でした。
孝王がそれを認めて秦に封地と嬴性を与えています。
この非子が秦の祖先です。
つまり、趙と秦は祖先が同じになります。
趙は、非子の兄弟である大駱なる人物が継ぐことになりました。
造父も非子も馬の扱いに長けていた為に諸侯になる事が出来たわけです。
尚、戦国時代に秦の始皇帝や李斯は焚書坑儒を行い他国の歴史書を燃やしてしたりもしています。
しかし、趙だけは祖先が同じため燃やす事をしませんでした。
そのため秦と趙の歴史書に関しては、他国に比べると正確性が高いのが特徴です。
廉頗、藺相如、趙奢などの趙の名臣の実績が残ったは、秦と趙が同族であり焚書坑儒の対象にならなかった事も大きいと言えます。
ちなみに、秦が趙を滅ぼす行為は同族を滅ぼす行為でもあったわけです。
穆王の記事を書き終わって思った事
この記事を書き終わって思ったのですが、文字数以上に書くのに時間が掛かると言う事です。
金文の資料や史記、竹書紀年などを調べながら書いたりもしたのですが、如何せん時間が掛かってしまいます。
穆王の事を書いているうちに、「金文だと書いてあったかな?」とか、疑問が湧いてきてしまうからです。
ここまでに、西周王朝に関しては、幽王、宣王、共和、厲王、昭王を書いてきましたが、はっきり言って資料が曖昧で非常に疲れてしまいました。
さらに、キングダムの時代よりも前の時代と言う事もあり、読み手も少ないと思われます・・。
労力に対して、見る人が少ないのはどうなのかな・・・。とも考えてしまった次第です。
しかし、西周王朝は興味があるので、周王は全員を書いてやろうと密かに考えています。
見返りは少ないですけど、余り気にせずに書いて行きたいと思います。
西周王朝は非常に頭がこんがらがってしまいますね・・・。