春秋戦国時代

春平君は実在の人物で史実でも趙王のお気に入りだった

2024年1月29日

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宮下悠史

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名前春平君(しゅんぺいくん)
生没年不明
勢力
年表秦から趙に帰還
コメント趙の悼襄王に寵愛された記録がある

春平君は史記の趙世家に名前が登場し実在した人物です。

ただし、春平君の本名は記載がなく分からない状態となります。

春平君は趙の悼襄王の寵愛を受けていた事が分かっています。

春平君はに行きますが、拘留されてしまいへの帰国が出来なくなりました。

しかし、泄鈞呂不韋を説得した事で、春平君は帰国する事が出来たわけです。

史記の記録を見ると春平君の記録は、ここでしかありませんが、列女伝などを見ると悼倡后と男女の関係になっていた話もあり、問題児だった事が分かります。

春平君は趙の幽穆王に李牧を讒言し、死に追いやった話もあり、良質な臣下だとはとても言えないでしょう。

尚、春平君は「趙の太子だったのではないか」とする説がありますが、真相は不明です。

漫画キングダムでは春平君は美青年という設定になっていますが、列女伝で悼倡后と春平君が密通していた事になっており、史実の春平君も美青年だった可能性があります。

秦に向かう

春平君は趙の悼襄王の2年(紀元前243年)にに行った話があります。

史記の趙世家では「秦が春平君を招いた」とあり、何かしらの理由で春平君は秦に招かれたのでしょう。

秦は過去に楚の懐王を招き幽閉してしまった話もありますし、孟嘗君も秦で幽閉されかかった事があります。

秦は虎狼の国とも呼ばれており、春平君も秦には進んで行きたくはなかった可能性もあるはずです。

しかし、春平君は身の危険を感じており、弁が立つ泄鈞を同行させたとも考えられます。

春平君は秦に入りました。

趙への帰還

春平君はに入りますが、秦では春平君を抑留し還そうとはしませんでした。

秦としては、春平君が趙の悼襄王の寵愛を受けていることを知っており、人質としたかったのかも知れません。

勿論、秦とが戦争になれば、春平君は命の危険を脅かされる可能性もあり、趙に戻りたかったはずです。

こうした中で、泄鈞が「趙の郎中らは趙の悼襄王が寵愛されている春平君を憎んでいる」とする情報を呂不韋に伝えました。

泄鈞は春平君を趙に帰還させた方が得だと呂不韋に述べます。

呂不韋も泄鈞の言葉を最もだと感じ、春平君を趙へ帰還させる事にしたわけです。

ただし、秦は平都君は拘留を続けており、春平君だけを帰還させる事にしました。

泄鈞は春平君だけを返して、平都君を拘留し続ければ、趙の悼襄王が平都君を解放する為に、秦に土地を割譲すると伝えましたが、趙の悼襄王が秦に土地を割いたのかは不明です。

平都君に関しても、本名も分からなず謎の人物となっています。

春平君は趙の太子だったのか

史記の六国年表を見ると「秦の人質になっている趙の太子が帰国した」とする記述があります。

の考烈王や魏の景湣王が太子時代に人質としてに赴いており、各国の太子が秦に人質として行くのは珍しい事ではなかったはずです。

六国年表のいうの太子というのが、春平君だったのではないかとする説があります。

趙世家の注『集解』と『正義』では春平君を趙の太子だとしています。

趙の悼襄王の2年(紀元前243年)に春平君の記述があり、始皇帝の4年(紀元前243年)に「秦の人質が趙から帰り、趙の人質が秦から帰った」と記録されています。

紀元前243年の記述が趙世家と始皇本紀で合致しており、春平君が趙世家でいう所の趙の太子となるとした説です。

趙の太子ですが、最初は趙嘉が悼襄王の太子でしたが、後に悼襄王は悼倡后を寵愛する様になり、太子を趙遷に変更した経緯があります。

春平君が趙の太子であるならば、春平君の正体は趙嘉か趙遷のどちらかになるはずです。

春平君の話は趙の悼襄王の2年の話であり、それを考えれば趙嘉の可能性が高いと言えるでしょう。

ただし、春平君が悼襄王に寵愛されたとする記述を見ると、趙の悼襄王は悼倡后を寵愛しており、自分が趙王になったら悼倡后を皇后とし、趙遷を太子にするつもりだったのかも知れません。

悼倡后と悼襄王の関係や春平君が寵愛されていたなどの記述を考えれば、春平君が趙遷の可能性も十分にあります。

もう一つの説として、趙の太子と春平君は別人であり、趙の太子が趙に帰還する事が決定したが、春平君が趙に帰還出来るのかは微妙だったとする説もあります。

趙に帰還できるか微妙だった春平君を救ったのが、泄鈞だったとする説となります。

列女伝などの記述を見ると、趙の太子と春平君は別人という設定になっています。

春平君と悼倡后

列女伝に悼倡后を主人公にした話があり、列女伝では春平君と悼倡后が密通していた事になっています。

さらに、悼倡后や春平君、郭開らはの最終決戦において、李牧を讒言するという話が記載されています。

戦国策の記述を考えると韓倉李牧を讒言した事になっており、李牧は大功臣でありながら、多くの人に妬まれていたのかも知れません。

趙の幽穆王も李牧の才能を畏れていたのか、母親の悼倡后に逆らえなかったのか、李牧を処刑し司馬尚を庶民に落しました。

これにより趙は秦の王翦らの攻撃を耐えきる事が出来る滅亡しました。

列女伝の記述を見る限りでは、春平君が趙を滅ぼした原因の一つとも言えそうです。

尚、春平君の最後がどの様なものだったのかは記録がなく分かっていません。

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