春秋戦国時代

泄鈞(せいきん)と巧みな説得

2022年1月24日

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宮下悠史

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名前泄鈞(せいきん)
生没年不明
年表紀元前243年 呂不韋を説得

泄鈞(せいきん)は、史記の趙世家に記録がある人物です。

泄鈞は趙の悼襄王の2年(紀元前243年)に、秦の呂不韋に対して巧みな説得を行いました。

呂不韋や秦の首脳部は、春平君を留置するつもりでしたが、泄鈞のお陰で無事にに帰国出来ました。

因みに、春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムでは、春平君は趙の悼襄王のお気に入りという設定になっています。

今回は泄鈞がどの様な人物だったのか解説します。

呂不韋を説得

趙の悼襄王の2年は、李牧を攻撃し武遂と方城を落とした年でもあります。

この年に、秦では春平君を招き、そのまま拘留しようとしました。

春平君は趙の悼襄王のお気に入りであり、秦としては春平君が秦にいれば何かしらのメリットがあると考えたのでしょう。

この時に、泄鈞は呂不韋に対し、次の様に述べています。

泄鈞「春平君は趙王が寵愛する人物です。

大臣達は春平君を妬み『春平君が秦に行けば、きっと帰っては来れないだろう』と相談しあっています。

大臣達は企みがあり春平君を秦に入れたのです。

これでは趙の大臣達の策略に乗り、趙と秦の友好を壊してしまう事となります。

私が思うに春平君は、趙に帰国させ平都侯だけを秦に残すのが良策です。

春平君は趙王に寵愛されているので、趙王は手厚く土地を割き、平都侯を贖う事になるでしょう。」

泄鈞は春平君を秦に抑留するのは、秦と趙の友好を壊すだけだと、呂不韋に説得したわけです。

当時の秦では、秦王政がまだ子供であり、名目上の最高権力者は呂不韋だったとも言えます。

呂不韋は泄鈞の言葉に「よし」と答えると、春平君を趙に帰国させた話があります。

尚、春平君と共に秦に来た平都侯なる人物がいますが、平都侯が誰を指すのかは分かりません。

秦に残る事になったであろう平都侯が、その後にどの様になったのかも不明です。

泄鈞の評価

泄鈞の活躍で記録が残っているのは、史記の趙世家の趙の悼襄王2年の呂不韋を説得した事しかありません。

泄鈞に関しても、素性などは分からず、泄鈞は諸子百家の遊説家だったのではないか?とか、の家臣だったのではないか?とも言われています。

泄鈞が助けた春平君に関しても、史記の注釈である正義や解集では、趙の太子とする記録があります。

春平君が趙の太子だとする理由は、史記の六国年表に「秦に人質になっていた趙の太子が趙に帰った」とする記述があるからです。

春平君が趙の悼襄王の太子であるのならば、後に趙の幽穆王となる趙遷か代王となる趙嘉の、どちらかの可能性も残っている様に思います。

ただし、春平君は悼襄王の妃である悼倡后と密通した話もあり、さらに李牧を郭開韓倉と同様に讒言した話も伝わっています。

泄鈞が救った春平君と李牧を讒言した素行の悪い春平君が、同一人物であれば、泄鈞はわざわざ救う必要も無かった様にも感じます。

それでも、名将と呼ばれた白起楽毅廉頗などの活躍が「戦いに勝利した」位しか記述しないのに、春平君を救った事位しか記述が無い泄鈞の記録をきちんと残すのは、司馬遷らしいとも感じた次第です。

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