名前 | 庄内式土器 |
コメント | 末期に大和や河内から全国に拡がる |
画像 | 豊中市HP |
庄内式土器は大和や大阪平野で発展した土器であり、邪馬台国近畿説では邪馬台国とも関係があると考える専門家もいます。
庄内式土器の中でも有名なのが庄内甕です。
庄内甕は煮炊き用の土器として使われたと考えられています。
庄内式土器の末期には大和や河内から古墳と共に全国に拡がり、大和王権の勢力拡大と関係しているのではないかともされているわけです。
埴輪や銅鐸などは吉備や周辺地域が発祥だとされていますが、庄内式土器や布留式土器は大和や大阪が発祥であり、大和王権との繋がりも注目されています。
庄内式土器の時代と邪馬台国の卑弥呼の時代が重なると考える専門家もおり、注目度は高い土器だと言えるでしょう。
ただし、庄内式土器と邪馬台国は繋げる事が出来ないと考える専門家もおり、その辺りに焦点を当てて解説します。
尚、庄内式土器の動画に関しては、記事の最後部にあります。
庄内式土器の誕生
庄内土器と纏向遺跡
庄内式土器と深い関係があるのが纏向遺跡となります。
纏向遺跡がある大和の東南部は箸墓古墳や崇神天皇、景行天皇の陵墓だとされる地域とも重なります。
一部の考古学者の間では大和東南部の古墳の内容が、邪馬台国の内容に相応しいからではなく、古い遺跡があるからだとの指摘もある状態です。
纏向遺跡の中心となる時代は庄内式土器から布留式土器の初めであり、近畿から各地に広まって行く事になります。
先にも述べた様に、庄内式土器が古墳と共に各地に広まって行ったというのはポイントになるでしょう。
庄内式土器が全国に拡がる
古代日本で考えると埴輪や銅鐸などは古墳と共に注目される所でもあります。
しかし、埴輪の原型は吉備にあり、銅鐸も大和の外から入ってきた事が分かっています。
埴輪や銅鐸は大和発祥ではありませんが、庄内式土器と古墳に関しては、大和の方から全国に拡がっており、大和王権の勢力拡大と共に各地に広まって行ったとみる事が出来るはずです。
古墳の動きと土器の動きが一致し、庄内式土器の登場から布留式土器への移行が古墳出現と重なっており、重要な部分でもあります。
こうした視点からみれば、古代日本を知る上で古墳、埴輪、銅鐸、文献などと共に、庄内式土器を調べる事も重視されなければいけない事になります。
庄内甕
庄内式土器の中で注目したいのが、煮炊き用に使われていたとする庄内甕となります。
庄内甕は煮炊きとしても効果が高く最新鋭の土器だとされています。
ただし、庄内甕は近畿地方から自生したわけではなく、吉備の甕に影響されている事が分かりました。
庄内式土器は大和から拡がりましたが、庄内甕の原型は吉備にあったわけです。
銅鐸や埴輪なども吉備から大和に伝わった事が分かっており、吉備は古代日本でも重要な地域だった事が分かります。
庄内甕で着目したいのは、出現期と制作の中心地が纏向遺跡の周辺と、大阪の中河内だったという事でしょう。
庄内甕が纏向地方の周辺や中河内限定で進化したのは、異例の事であり、ここから大和と河内が地域間交流の中心にもなります。
大和は大和王権の本拠地と言える場所であり、大阪平野には古市古墳群と百舌鳥古墳群が存在し、倭の五王の時代の中心地だったと言えます。
古墳時代の中心地は仁徳天皇や応神天皇の陵墓がある大阪平野であり、ここから庄内式土器が拡がりを見せるという事です。
古墳と共に庄内甕も全国に拡がりました。
庄内甕からの移行
新型の庄内甕が誕生しガラッと変わったのではなく、旧式の土器も依然として使われていました。
歴史を見ると縄文時代から弥生時代に一気に変わったわけではなく、稲作が誕生した時も1000年掛けて日本列島を弥生時代に変えたと言えます。
ペリー来航なども、ペリー艦隊は2隻が蒸気船で2隻が帆船であり、新技術が誕生しても、コストの問題などで中々普及しない事もあります。
同じように庄内甕も一気に広まったわけではなく、徐々に日本列島に拡大していく事になったのでしょう。
倭国統合の時代
庄内式の時代は、列島の各地で弥生時代後期の特色が残っている中で、古墳時代の地域統合が進んだ時代でもあります。
倭国の統合をよく現わしているのが庄内式土器から布留式土器への移り変わりとも言われていますが、分裂していた倭国が一つにまとまって行く時代です。
先にの述べた様に、庄内甕は吉備から導入されたものだと考えられています。
ただし、庄内甕の様な技法は吉備地域ばかりで見られるわけではなく瀬戸内東部、山陰、北近畿、北陸の甕にも共通してみられる事になります。
近畿を中心に広い地域で見られると言ってもよいでしょう。
庄内甕に近い技術を持っていた地域は、大型墳丘墓が築かれていた地域とも重なるわけです。
大型墳丘墓は、古墳の前身とも考えられていますが、大和が発祥地ではありません。
考古学的に大和では墳丘墓の発達が見られないという事です。
庄内甕は墳丘墓が殆ど見られない様な近畿中部や大和にあり、大型墳丘墓が発展した地域において、漸く出現した新しい甕だと言えるでしょう。
大和の纏向遺跡では伊勢などの土器の出土が多いわけですが山陰、北陸、吉備などの土器も多く発見されており、大型墳丘墓がある地域と大和や河内との間で深い交流があった事が分かるはずです。
庄内甕の成立を見ると、大和は各地から技法を仕入れて取り入れたと言えるでしょう。
墳丘墓が発達している地域で庄内甕の原型が発見されているわけであり、庄内甕の技法を仕入れるにあたって大和でも墳丘墓の技術を知る事になったとみる事が出来ます。
大和では纏向遺跡が大発展しますが、この時期になっても北部九州との交流は少なかった事が分かっています。
纏向遺跡から北部九州の遺物が殆ど発見されないわけであり、交流は薄かったと考えるべきでしょう。
邪馬台国が大和にあったのであれば、北部九州だけではなく中国の遺物も見つからなければなりません。
邪馬台国は北部九州の伊都国に一大卒を設置し、三国志の魏と深い交流があったからです。
庄内期で考えれば大和周辺の大型墳丘墓を要する地域や北部九州との優位性は、未だに見られません。
邪馬台国が近畿の大和にあったのであれば、大和が各地を圧倒していていなくてはならないはずですが、その様な事実は確認出来ない状態です。
庄内期の後半になると、庄内式土器がさらに進化し布留式土器へと進化していく事になります。
庄内式土器末期・布留式土器・古墳は全国に拡がりを見せます。
技術的な空白地であるブラックホールの様な大和に技術が入り、古墳や庄内土器・布留式土器に変換され全国に拡散されたとも言えるでしょう。
布留式の甕が使われる様になると、大和の優位性が認められていく事になり、庄内式の末期以降に庄内・布留式土器が各地に広がり、北部九州まで呑み込んでしまいました。
この時点で地域政権が割拠していた日本列島において、倭国の統合が進んだと言えるでしょう。
大和が日本の中心になったのは庄内式の末期から布留式の頃だとするのが妥当です。
庄内式の末期が大和王権の拡大期だと見て取る事も出来ます。
庄内式末期から布留式の時代は大和や河内の土器が全国に広まっていき、各地の地方色の強い土器を払拭したと言えるでしょう。
邪馬台国近畿説および大和説が証明される為には、近畿地方から北部九州までの統一感を見出さなければなりません。
邪馬台国と庄内土器の考察
地域性が強く地域交流が始まったかの様な時期では、邪馬台国が大和から北部九州まで支配していたとは言えないでしょう。
庄内土器の時代は大和が各地の文化を取り入れている時代であり、邪馬台国とは色合いが違うはずです。
中心地にならなければいけない大和が、他地域の文化を取り込んでいるのが卑弥呼の時代の大和です。
邪馬台国が日本の中心で大和にあるのならば、各地に大和の文化を伝播させていくのが自然だと感じました。
倭の国が統合されて行くのは、庄内式の末期からだと言えるでしょう。
邪馬台国の時代は庄内期であり、まだまだ地方色が強かった時代でもあります。
倭の国が統合されて行くのは、庄内式の末期からだと考えるのだ妥当です。
卑弥呼が亡くなるまでの3世紀中頃の話ではなく、さらに後の時代に庄内土器や布留式土器が全国に広まって行きました。
箸墓古墳が造営され纏向遺跡が拡大する庄内期の布留式は4世紀に入ってからだと考えた方がよいでしょう。
中国の史書を見ると266年の倭の女王(台与だと思われる)を最後に、倭国の記録は倭の五王が朝貢するまでの150年ほど途切れています。
これが空白の150年とか空白の4世紀と呼ばれる時代です。
倭国の歴史が中国の記録から消えてしまったのは、西晋が八王の乱で大混乱となり、中華の北方には異民族が割拠し混迷の時代に突入した事が原因となります。
中国が大混乱になれば、当然の如く中国と日本の国交は途絶え、この時期に日本列島では各地域との交流が活発になり、全国に古墳や布留式土器が普及し、大和王権が最大勢力となったと考える事が出来ます。
大和が墳丘墓も未発達な頃に、北部九州では金印が発見されるなど、中国王朝との繋がりは北部九州が圧倒している状態です。
北部九州では大陸製品や有力首長墓があり、銅鏡、鉄器、金属などを見ると日本列島の中で九州が圧倒していると言えるでしょう。
九州は大陸との玄関口でもあり、庄内期に関しては大和よりも北部九州が内容的に圧倒しています。
北部九州から中国、四国の西日本を経由し北部九州の文化が近畿の大和にまで到達しました。
ただし、邪馬台国時代には北部九州の文化は大和にまで余り到達してはいなかったとみる事が出来ます。
庄内式土器の動画
庄内式土器のゆっくり解説動画となっています。