室町時代

南部師行は奥州に移り奮闘した

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宮下悠史

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南部師行は南北朝時代の人で南朝に仕えました。

北畠顕家の奥州軍に南部師行も同行し、各地で功績を挙げています。

建武の新政が行われると南部師行は北畠顕家らと奥州に下向しました。

南部師行は石津の戦いで北畠顕家と共に最後を迎えた武将としても有名です。

松井優征先生が描く漫画逃げ上手の若君で南部師行が登場して話題になりました。

南部師行は東北訛りが酷く通訳を介して話すなどしていましたが、後に普通の言葉が喋れる事が分かり北条時行を驚かせています。

今回は本州最北端にして卓越した軍事指揮能力で活躍した南部師行を解説します。

尚、南部師行のゆっくり解説動画を作成しており、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

甲斐の出身

南部氏のイメージとして本州最北端などのイメージが強い様に思うかも知れませんが、南部氏を奥州の地に根付かせたのは南部政長からです。

南部政長は南部政行の弟であり、兄に南部時長がいました。

南部政長は鎌倉幕府が滅亡する1333年までには奥州に下向していた様であり、新田義貞の鎌倉攻めにも奥州から参陣しています。

奥州南部氏の伝承では鎌倉時代に源頼朝が奥州合戦の褒美により、糠部を南部光行に下賜したというものでした。

しかし、これはあくまでも伝承であり近年の研究により南部光行は甲斐にいた事が分かってきました。

南部師行は南部政行の次男として生まれ当然ながら、甲斐で生まれ育ったわけです。

本州の最北端と言える様な群雄にも関わらず「南部」と言うのは変な気がするのかも知れませんが、甲斐の南部地方が出身の為です。

尚、南部氏と深く関わり合いを持つ様になる糠部は、一戸から九戸と東門、西門、南門、北門の四門九戸から成り立っています。

(画像:水土の礎

南部師行の奥州下向

1333年に鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。

建武政権の地方行政では守護や国司の他に陸奥将軍府や鎌倉将軍府を設置しています。

陸奥将軍府は北畠顕家が責任者となり、多賀城を国府として奥州統治に乗り出す事になります。

南部師行は陸奥将軍府の一員となり、多賀城に下向しました。

南部師行は根城を本拠地にしたとも考えられていますが、北畠顕家が「奥州を治める拠点」という意味で根城の名前が付けられたともされています。

陸奥将軍府での南部師行の役目は糠部郡奉行であり、国府の命令を現地で執行する役職となります。

ただし、南部師行の統治は糠部だけではなく久慈、閉伊、遠野、比内、鹿角、外浜も担当した話があります。

尚、多田貞綱が津軽に下向する時に、糠部を通過する事で北条氏の残党の処理について協議する様に命令が届いた記録が残っています。

南部師行の職務

南部師行の糠部においての最大の職務は北条氏の残党を鎮圧し奪った領地を味方に分配する事でした。

北畠顕家は1335年の2月に伊達宗政に野辺地を与えていますが、その執行を南部師行に命じています。

南部師行は野辺地を受け取るなら代官を派遣する様に要請し、伊達宗政は領地を受け取る意思がある事を伝え代官を派遣したと考えられています。

ただし、二階堂行朝の様に久慈を与えられるはずでしたが辞退した者や結城朝祐の様に土地を受け取ると言いながらも代官を派遣しない者もいました。

後に南部師行は白河結城氏の結城宗広と共に南朝として共闘しますが、結城朝祐は下総結城氏の人物であり後には北朝に与しています。

尚、結城朝祐が受け取らなかった所領が南部政長の領地になった話があります。

馬の管理

糠部は馬の産地でもあり、駿馬は特に重宝されました。

1184年の宇治川の戦いで梶原景季が頼朝の七戸産の駿馬である生唼を望みましたが、生唼は佐々木高綱に下賜された話があります。

ただし、梶原景季は磨墨という三戸の駿馬を賜わりました。

この話からも糠部の馬が優れていた事が分かる事でしょう。

当然ながら糠部郡奉行の南部師行も馬の生産や駿馬の保護に務めなければならない立場だったわけです。

1334年の12月15日に七戸の御牧で馬が逃走する事件があり、南部師行が調査に乗り出しています。

他にも、南部師行は閉伊郡大沢村で起きた御牧の馬の殺害事件に関しても調査を行った記録が残っています。

当時の馬の重要さが分かる話でもあります。

北条氏の残党との戦い

南部師行が糠部に下向してから最重要視されたのが北条氏の残党を鎮撫する事だったわけです。

糠部は北条家の得宗領であり、北条氏の身内人が多くいた地域でもありました。

幕府が倒れた後も建武政権に従う者もいましたが、服従を拒否する者もいました。

1334年に曽我氏では建武政権に従う者と従わない者で家中が割れてしまいます。

さらに、曽我氏の一族では、自らが当主になろうとする者までが現れ三つ巴の戦いとなりました。

北条氏の残党の討伐に建武政権では、東方に多田貞綱や中条時長を派遣したりもしています。

南部師行は、これらの戦果を陸奥将軍府の北畠顕家に報告するなどもしています。

さらに、北畠顕家は南部師行に津軽にいる北条氏残党を討伐する様に命じました。

この時に外浜を拠点とし山辺で戦いました。

南部師行の津軽での戦いの降伏者を見ると素早く降伏し北畠顕家に領地を安堵された曽我貞光の名があります。

曽我貞光の様な者もいれば、この時に南部師行の味方でしたが、後に室町幕府が推戴する北朝に寝返る安藤家季などもいました。

奥州では北条氏の残党が北朝に味方するのか南朝で味方するのかで大きく揺れ動いていた事も分かるはずです。

甲斐の本領

南部師行や南部政長の本領は甲斐にあった事は既に述べました。

南部師行や南部政長は職務により奥州で活動していましたが、父親の南部政行が没すると異母弟の南部資行と一族の南部武行が手を組み遺領を手中に収めました。

南部時長、師行、政長の三兄弟は父の遺領を受け継ぐ事が出来なかったわけです。

武行の背後には鎌倉幕府の長崎思元がおり、南部三兄弟は遺領を相続する事が出来なかったとされています。

過去には南部武行と南部政行の間でも相続争いがあった事も分かっており、南部家では再び相続問題が起きました。

南部三兄弟は鎌倉幕府に訴え出ていましたが、結論が出る前に鎌倉幕府が滅んでしまったわけです。

奥州の南部氏では甲斐の領地を返す様に建武政権に訴えますが、最後まで帰ってくる事はありませんでした。

南部師行の上洛

南部師行は北畠顕家に従い近畿を転戦する事になります。

弟の南部政長は奥州に残り子の南部信政が奥州軍に加わりました。

奥州軍の第一次上洛戦は楠木正成や新田義貞との協力もあり、足利尊氏を破り九州に追いやっています。

足利尊氏との戦いが終わると、北畠顕家や南部師行は奥州に戻りました。

南部師行が上洛していないとする説もありますが、安藤祐季が「上洛してから暫く会っていない」とする手紙が発見されており、南部師行が上洛したのは確実視されています。

尚、南部師行が上洛中に留守を任された南部政長ですが、北朝に味方した安藤家季や曽我貞光の攻撃により危機に陥りました。

しかし、南部政長は数城を失いながらも持ちこたえています。

ただし、奥州は安定せず多賀城の北畠顕家が伊達行朝の霊山城に国府を移すなどもしています。

奥州軍が遠征中に多くの者が足利尊氏を支持した結果と言えるでしょう。

南部師行の最後

1337年の8月に北畠顕家は後醍醐天皇の要請もあり、再び上洛を決意しました。

この軍に南部師行も加わる事になります。

一族の南部政長や南部信政は糠部に残りました。

奥州はまだまだ荒れており、南部家であっても全軍出撃と言ったわけにも行かなかったのでしょう。

北畠顕家の軍は鎌倉の斯波家長を討つなどの活躍はありましたが、近畿での石津の戦いで高師直に敗れて南部師行と共に命を落としました。

石津には戦いに敗れ戦死した北畠顕家と南部師行の名前が刻まれた供養塔が建てられており、根城跡では現在も慰霊祭が行われています。

南部師行は最後まで北畠顕家に忠義を尽くし亡くなったと言えそうです。

南部師行の動画

南部師行のゆっくり解説動画となっております。

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