
| 民族名 | カルデア人 |
| 系統 | セム語系 |
| コメント | 新バビロニアを建国した民族 |
カルデア人はセム語系の民族であり、古代オリエントで活躍しました。
異説はありますが、バビロンの最後の王朝である新バビロニアを建国したのは、カルデア人です。
カルデア人はアラム人と共に、混乱するバビロニア地方に向かい勢力を拡大しました。
後にカルデア人の王であるナボポラッサルは、メディア王国と共にアッシリアを滅ぼす事になります。
この時にバビロンに入城したカルデア人が多くの粘土板を発見し、天文学や占星術に熱中した話があります。
新バビロニアが崩壊するとカルデア人たちは他の民族と同化し、姿を消したと考えられていますが、共和制ローマの時代になるとカルデア人に関する論争も起こりブームになっていた記録もあります。
現在でもカルデア・カトリック教会があり、カルデア人を名乗る人々がいる事も分かっています。
カルデア人がバビロニアに移住
カルデア人は後にメソポタミア南部のバビロンを拠点に新バビロニアを築いた事で有名ですが、元からバビロニアにいたわけではありませんでした。
カルデア人は元はシリアの辺りにおり、バビロニアに移住したとする説が有力です。
カルデア人が元はアラム人であり、バビロニアに移住し、カルデア人と呼ばれる様になった話を、聞いた事がある人もいるのではないでしょうか。
実際にアラム人とカルデア人はセム語系民族であり、西方セム語族とも言われていますが、アラム人がカルデア人になったとする説は証拠不十分だともされています。
尚、専門家によってはカルデア人は元はアッカド人であり、アッシリアとは民族的に同じとする専門家もいる状態です。
因みに、アッシリアをメディアと共に滅ぼしたのが、カルデア人が建国したとされる新バビロニアとなります。
カルデア人とアラム人
現在のところカルデア人の名前が初めて登場するのは、紀元前9世紀のアッシリアの王碑文であり、この頃までにはビート・ヤキン、ビート・アムカニ、ビート・ダクリなどのカルデア人部族がバビロニア南部に定住していたのでしょう。
カルデア人はまだ部族社会であり、部族ごとでバビロニア南部にいました。
カルデア人は比較的大きな部族集団を形成しましたが、同じくバビロニアに流入したアラム系の人々は40もの小さな部族集団に分かれて集落をつくった話があります。
アラム人はチグリス河周辺から東部のエラム王国の国境地域にかけて定着しました。
大きな部族でいたカルデア人と小さな部族が多くいたアラム人で、メソポタミア南部に与える影響力も違ってきた事でしょう。
カルデア人がバビロニアに定着
バビロニアではイシン第二王朝が滅亡後、政治の中心は南部に移りました。
海の国第二王朝やバジ王朝が興るも短命で終り、バビロニアでは2回に及ぶ大飢饉が起きた事も分かっています。
こうした中でカルデア人やアラム人がバビロニアに流入し、紀元前8世紀の中頃まで無政府状態だったとも考えられています。
混乱の中でカルデア人は元いた人々の土地を分捕り、勢力を拡大したともされている状態です。
それを考えると、カルデア人は「招かざる客」でもあったのでしょう。
カルデア人総督の誕生
メソポタミアには海の国と呼ばれる地域がありましたが、カルデア人部族のビート・ヤキンは、ここの総督に就任しました。
ただし、どの様な経緯で外から来たカルデア人が、総督になったのかは不明です。
総督とは言いますが、実際にはカルデア人の半独立国家が海の国に出来ていたとみるべきでしょう。
ただし、海の国とは言いますが、海の国第一王朝や海の国第二王朝とは民族も違っており、別の集団と考えるべきです。
海の国と呼ばれる地域をカルデア人が治めました。
カルデア人とウル
アブラハムの出身はカルデアのウル
シュメール人の伝統的な都市だったウルもカルデア人が治めていたと考えられています。
シュメール語は残っていた話はありますが、ウル第三王朝が滅んでから、既に1000年以上も経過しており、混血が進みシュメール人がいたのかは不明です。
旧約聖書の創世記の記述にアブラハムが「カルデアのウル」にいたとする話があります。
アブラハムの最初のユダヤ人(ヘブライ人)ともされていますが、メソポタミア南部のウルの出身だったと記録されています。
しかし、アブラハムがカルデアのウルが出身というのは、時代的に合いません。
アブラハムが実在したとして、どんなに年代を遅らせても、紀元前1500年よりも遅らせる事はできない状態です。
カルデア人が最初に確認出来るのは、紀元前9世紀であり年代的に合わないと言えるでしょう。
それでは、なぜ「カルデアのウル」という表記が出来たのでしょうか。
カルデアのウルとバビロン捕囚
カルデア人が建国した新バビロニアでは、後にヘブライ人たちを強制移住させたバビロン捕囚の話は有名です。
ユダ王国の人々をバビロンの近くに強制移住させた話となります。
カルデアの名は新バビロニアの別名でもあり、新バビロニアはカルデア王国とも呼ばれていました。
カルデアにいたアブラハムがハランに行き、最終的にカナン地方に行きますが、アブラハムがカナンに行く話は、バビロン捕囚がバビロンから、故郷に戻る姿を重ね合わせたと考えられている状態です。
バビロン捕囚された方々が、帰郷の念を自らの祖先に重ね合わせたとみる事ができます。
カルデア人のバビロニア化
部族社会を維持しながら、バビロニアで定住する事になったカルデア人は、紀元前8世紀までには、名前をバビロニア風にするなどバビロニア化した事も分かっています。
しかし、この時には強力なアッシリア帝国が健在であり、紀元前9世紀のアッシリア王のアッシュル・ナツィルパル2世やシャルマネセル3世の粘土板を見ると、カルデア人がアッシリアに服属していた事は明らかでしょう。
アッシュル・ナツィルパル2世は「計算された恐怖」の人で、わざと残虐行為を行って反乱を抑えようとしました。
こうした中で、カルデア人はアッシリアに対するストレスをため込む事になります。
カルデア人指導者・メロダク・バルアダン2世
紀元前8世紀の後半になると、カルデア人のビート・ヤキンの中からメロダク・バルアダン2世が現れました。
メロダク・バルアダン2世は反アッシリアの指導者であり、アッシリアのシャルマネセル5世が亡くなった混乱の中で、バビロニア王の座を奪いました。
カルデア人がバビロニア王になったと言えるでしょう。
この時のメロダク・バルアダン2世はカルデア人とアラム人の協力を呼びかけ、エラムと同盟し、アッシリアのサルゴン2世に対抗しました。
メロダク・バルアダン2世はユダ王国のヒゼキヤ王にも見舞いの使者を派遣しており、狙いは反アッシリア同盟の参加を期待したものでしょう。
紀元前721年にバビロニア王になったメロダク・バルアダン2世ですが、紀元前710年にアッシリアのサルゴン2世に敗れ、ドゥル・ヤキンに敗走し捕虜となるも許されました。
メロダク・バルアダン2世は諦めておらず、アッシリアがセンナケリブの時代になると、エラムのシュトルク・ナフンテ王と組み反アッシリア運動を活発化させ、バビロニア王に復位するも結局は敗れています。
センナケリブはエラムに逃亡したメロダク・バルアダン2世を追撃するも、メロダク・バルアダン2世は逃亡生活の中で亡くなりました。
しかし、メロダク・バルアダン2世の子孫が反アッシリア運動を継続させる事になります。
カルデア人の中には反アッシリアを考える者も多かったのでしょう。
カルデア人指導者・ナブー・ベール・シュマティ
センナケリブはバビロンを破壊してしまいますが、後継者のエサルハドンが復興させました。
エサルハドンの死後に弟のアッシュル・バニパルがアッシリア王となり、兄のシャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王になっています。
アッシュル・バニパルの時代がアッシリアの全盛期だと言われていますが、兄のシャマシュ・シュム・ウキンは不満であり、反旗を翻す事になります。
この時に海の国の首領であったナブー・ベール・シュマティが、カルデア人の諸部族を率いて、シャマシュ・シュム・ウキンに味方しました。
ナブー・ベール・シュマティはメロダク・バルアダン2世の孫です。
シャマシュ・シュム・ウキンはカルデア人、アラブ人、エラム人と共に、アッシリアに対し挙兵するも、最終的に敗れました。
しかし、ナブー・ベール・シュマティは諦めておらず、エラムと共にバビロニアの南部で抵抗を続ける事になります。
カルデア人の中には、ナブー・ベール・シュマティを支持する者も多かったのでしょう。
しかし、エラム陥落後にナブー・ベール・シュマティは、アッシリアに送還されそうになり自殺したと伝わっています。
ナブー・ベール・シュマティが世を去っても、カルデア人が滅んだわけではなく、抵抗は続く事になりました。
新バビロニアの建国
アッシュル・バニパルの治世後期には、各地で反アッシリア運動が盛んになったと考えられています。
情報が殆ど残されておらず、何が起きていたのかは不明な部分が多いわけですが、反アッシリアの機運が高まったと見られているわけです。
こうした中でカルデア人の小国の王とされるナボポラッサルが紀元前625年にバビロンを陥落させました。
さらに、カルデア人、メディア人、パルティア人、ペルシア人、スキタイ人、キンメリア人の同盟が結成され、アッシリアを滅ぼす事になります。
ナボポラッサルは新バビロニアの初代であり、遂にカルデア人の時代が到来したと言えるでしょう。
バビロンを手中に収めたナボポラッサルは、メディア王国と協力しニネヴェを陥落させ、紀元前609年までには、アッシリアを完全に滅ぼしました。
新バビロニア、メディア王国、リディア王国、エジプト末期王朝の四王国分立時代が訪れたわけです。
尚、新バビロニアの全盛期は二代目のネブカドネザル2世の時代となります。
カルデア人と天文学
バビロンの粘土板
カルデア人はバビロンを占拠しましたが、無数の粘土板を発見しました。
天文学や占星術が書かれており、カルデア人が熱中した話が残っています。
天文学とか占星術っていうのは、現代でも気になる人は多く古代のカルデア人も興味を持ったのは自然の流れでもあったのでしょう。
カルデア人流の精霊との付き合い方
古代の場合では悪い事が起きたり、疫病が流行するのは、悪霊が原因とも考えられていましたが、うまく使えば役に立つのではないか?と考えた者もいた事が分かっています。
大英博物館所蔵の粘土板の断片からは、カルデア人が精霊とどの様に付き合っていたのかが分かるといいます。。
※失われた古代文明・歴史に消えた40の民族からの引用
悪魔が去りますように!別のだれかに憑りつきますように!
よき精霊よ、よき巨人よ、彼の中に入りたまえ!
悪霊が去って、よき精霊が入ってくる様に願った事は粘土板の内容から明らかでしょう。
ヘブライ人に嫌われたカルデア人
ヘブライ人はカルデア人に対し嫌悪していた話があります。
新バビロニアの勢力は地中海沿岸にまで到達しますが、エジプト第26王朝はユダ王国をそそのかし、ユダ王国は新バビロニアと敵対しました。
新バビロニアはユダ王国に傀儡を立てたりもしましたが、最終的に紀元前586年にエルサレムを陥落させ、ユダ王国を滅ぼしています。
この時に、カルデア人たちはヘブライ人をバビロンの近辺に強制移住させており、これがバビロン捕囚です。
バビロン捕囚は第1回が紀元前597年で、第二回が紀元前586年であり、二度ありました。
因みに、この頃からヘブライ人がユダヤ人と呼ばれるようになります。
新バビロニアの強勢移住政策があり、旧約聖書のハバクク書では、カルデア人を次の様に述べているぜ。
※失われた古代文明・歴史に消えた40の民族からの引用
カルデア人、それは冷酷で剽悍な民。
かれらの馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも獰猛で、その騎兵は飛び跳ね、
騎兵は遠くから来て、獲物に襲いかかる鷲の様に飛ぶ。
かれらは来てみな暴虐を行う。
かれらは砂を集めるように虜を集める。
かれらは王たちを嘲り、
どんな砦をも嘲笑って、土を積み上げそれを攻めとる。
ヘブライ人がカルデア人に好意を持っていないっていうのが、よく分かるのではないでしょうか。
新バビロニアもアッシリアの政策を踏襲した部分が、多かった事が分かっています。
ヘブライ人が被害にあった強制移住も、アッシリアからの政策です。
ただし、ヘブライ人がカルデア人に悪意を持つのは、個人的な恨みも多かったのではないでしょうか。
新バビロニア滅亡の予言
こうした事情もあり、ヘブライ人の神が新バビロニアの滅亡を予言した話も残っています。
カルデア人は天文学や占星術に熱心したわけであり、カルデア人の中から予言者が出てもよさそうなものですが、新バビロニアの滅亡を予見していたとは、ヘブライ人の神だったと言えるでしょう。
新バビロニアにとって神の裁きになったのは、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世であり、バビロンは呆気なく陥落しました。
バビロンが呆気なく陥落したのは、カルデア人たちはユダヤ人だけではなく、他の民族も強制移住をさせており、これらの民族がアケメネス朝ペルシアを支持した為だと考えられています。
キュロス2世のアケメネス朝ペルシアでは、これらの人々を解放しました。
新バビロニアが滅んだ事で、カルデア人は歴史から姿を消したと言えるでしょう。
カルデア人が消滅してしまったのは、バビロン人と同化した為だともされています。
カルデア人はセム語系の母国語を捨て、メソポタミアの大半の民族が話すアラム語を採用していました。
海のフェニキア、陸のアラムと呼ばれている様に、アラム語は内陸部で拡がっていたわけです。
カルデア人たちは、バビロニアの中心部に住むアッシリア人やバビロン人と次第に融合していき、区別がつかなくなっていったとも言います。
カルデア人論争
新バビロニアの神官階級はカルデア人の専売特許であり続けました。
こうした事情もあり、カルデア人の言葉は魔法と予言の専門を意味する様になっていく事になります。
新バビロニアが滅んでから、400年ほどが経過すると、共和政ローマの時代になっていたわけです。
キケロは次の様に記録している。
忘れもしない。カルデア人たちはポンペイウス、クラッスス、先に暗殺されたカエサルについても、
栄光に包まれ高齢を迎えたのちに、自宅で安らかな死を迎えると予言していたのだ。
キケロの記述を見ると、カルデア人はポンペイウスやクラッスス、カエサルが自宅で安らかな死を迎えるって言っていますが、実際にはカエサルは暗殺され、ポンペイウスやクラッススも非業の死を遂げています。
ここで注目したいのは、内容が合っているのかではなく、カルデア人が本当に未来を予見できたのかの論争が共和制ローマの時代に行われていたという事です。
この内容からキケロはカルデア人の予知能力があった事に関し、否定的だったって事が分かるのではないでしょうか。
共和政ローマの時代にカルデア人のブームが到来しており、様々な議論が為されたと言えるでしょう。
カルデア・カトリック教会の設立
ローマ帝国が滅亡すると、カルデア人の名前は忘れ去られていきました。
しかし、西暦1500年から1600年頃にカトリック教会の再編が行われる事になります。
この時に、アッシリア地域にバチカンとの交流を求めるキリスト教徒がおり、カルデア・カトリック教会として組織されました。
この地域ではイスラム教徒が大半になってしまいましたが、現在でもカルデア・カトリック教会は存続しています。
彼らは古代カルデア人の子孫を名乗ってはいますが、これが本当なのかは証明が難しいと言えるでしょう。
カルデア人の動画
カルデア人のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画の参考文献は、YouTubeの概要欄を確認してみてください。