名前 | 臥薪嘗胆 |
読み方 | がしんしょうたん |
意味 | 将来の為の苦労のこと |
時代 | 春秋戦国時代 |
コメント | 呉・越の戦いから生まれた説話 |
臥薪嘗胆は呉越の戦いから出来た故事成語であり、由来は呉王夫差が硬い薪の上で寝て、越王勾践が苦い胆を嘗めた事です。
呉王夫差は父親の闔閭を殺害された恨みを忘れない為に、薪の上で寝る苦行をし、越王勾践は会稽の恥を忘れぬ為に苦い動物の胆を嘗めました。
臥薪嘗胆の意味は「目的を達する為の苦労」を指す事が多いのですが、「復讐に専念すること」とする場合もあります。
ただし、臥薪嘗胆が実話なのかと言われれば、春秋左氏伝に臥薪嘗胆の話が掲載されていなかったり、史記には越の勾践が胆を嘗めただけの話が記録されている事から、創作なのではないかとも考えられています。
因みに、捲土重来という言葉は「一度敗れた者が勢力を盛り返し再び戦う事」であり臥薪嘗胆と似ている意味の言葉だと言えるでしょう。
今回は臥薪嘗胆の意味や由来、史実なのかに関しての部分を解説します。
尚、臥薪嘗胆の逸話の主人公である呉王夫差も越王勾践も春秋五覇の一人に数えられる事があります。
臥薪嘗胆の由来
呉王闔閭の遺言
呉の闔閭は孫武や伍子胥を用いた人物であり、楚に大勝し首都を占拠しますが、弟の夫概が乱を起こした事で国元に戻りました。
呉は大国となりましたが、南方には小国の越がおり越王の允常が亡くなったと聞き越への侵攻を決断しています。
これが檇李の戦いです。
檇李の戦いで越王勾践は范蠡の奇策も用いて呉軍を翻弄し、呉王闔閭は足を負傷しました。
足の傷から細菌が入ったのか闔閭の容体は悪化し、死期を悟った闔閭は太子の夫差に「この恨みを忘れるな」と告げて亡くなっています。
(紀元前496年の勢力図:画像:YouTube)
尚、呉王闔閭は亡くなってしまいましたが、国力では呉の方が越よりも勝っていたと考えられています。
臥薪の由来
夫差は呉王となりますが、父親である闔閭の仇である越への復讐を考えました。
夫差は朝夕と薪の上に臥し出入りする時は人を呼び「夫差。汝は越人に父を殺された事を忘れたのか」と叫ばせたわけです。
夫差は「忘れてはいません。必ずや復讐を成し遂げます」と答え、これが日常になっていたと伝わっています。
夫差が薪の上で寝たのは痛みで越王勾践の恨みを忘れない様にする為であり、これが「臥薪」の由来となっています。
呉王夫差は越王勾践打倒の為に、兵を鍛え機会を伺う事になります。
こうして夫差は3年間も臥薪を続けたともされています。
会稽の恥
呉が越に攻撃しようとしている情報をキャッチした越王勾践は先手を打って呉を攻撃しました。
しかし、越王勾践は国力で劣っており、大敗北を喫し会稽山を呉軍に包囲されています。
越王勾践は文種を使者とし、伯嚭に賄賂を贈り講和を望みました。
呉の伍子胥は「越を滅ぼし禍根を断つべし」と猛反対しますが、呉王は大勝して気分が良くなり伯嚭の説得もあり越王勾践と講和を結ぶ事になったわけです。
越王勾践は夫差に屈服し、これが「会稽の恥」の語源となっています。
越王勾践は呉に敗れた事で属国となり、越は弱小勢力になってしまいました。
嘗胆の由来
帰国した越王勾践は会稽の恥を忘れぬために、動物の胆(肝臓)を傍らに置き、寝起きをする度に胆を舐めました。
これが嘗胆の由来となっています。
胆は苦いものであり、越王勾践は呉王夫差から味わった屈辱を忘れぬ為に、嘗胆を行ったと言えるでしょう。
お気づきの方もいるかと思いますが、呉王夫差が行った「臥薪」と越王勾践が行った「嘗胆」が合体し臥薪嘗胆の故事成語となっています。
物語の内容から意味は「将来の為の苦労に耐えること」を指します。
越王勾践を降伏させてから呉王夫差は斉を攻撃したり、黄池の会で晋と争い覇者になろうとしますが、越王勾践に不意を衝かれ最終的に滅ぼされています。
越王勾践は呉を滅ぼすのに20年以上も掛かっており、臥薪嘗胆の諺に相応しい我慢強い君主だったと言えるでしょう。
尚、三国志の孫権は我慢強さから陳寿に「越王勾践の様な人物」と評価されました。
書物によって差異がある臥薪嘗胆
春秋左氏伝には臥薪嘗胆の話がない
戦国時代前期に書かれた春秋左氏伝の魯の定公14年(紀元前496年)には、次の様に書かれています。
※岩波文庫・春秋左氏伝下381頁より
闔閭の嗣子夫差は庭中に人を立たせて「夫差よ、汝は越王が汝の父を殺したことを忘れたのか」と自分に呼び掛けさせては、「はい、忘れたりはいたしません」と答え、三年後(明後年)で越に報復した。
上記の記述を見ると分かる様に、戦国時代の前期に書かれた春秋左氏伝には、呉王夫差が薪の上で寝る臥薪を行った記録がありません。
春秋左氏伝を見ると魯の哀公の元年(紀元前494年)に呉が越を破った話がありますが、越王勾践が動物の胆を舐めたとする嘗胆の話もないわけです。
戦国時代の前期には臥薪嘗胆の話がそもそも無かった事が分かります。
史記の臥薪嘗胆
史記は前漢の武帝の時代に司馬遷が書いたものです。
史記の呉太伯世家が呉の歴史記録となっており「越に対する復讐を片時も忘れなかった」とは書かれていますが、薪の上で寝たとは書かれていません。
しかし、史記の越王勾践世家には下記の記述があります。
※ちくま学芸文庫・史記3越王勾践世家285頁より
呉に許されたのち、越王勾践は国に帰ると、われとわが身を苦しめて復讐の思いを焦がし、胆を傍に置いて、坐臥するたびに仰いで胆をなめ、「なんじは会稽の恥を忘れるのか」と言った。
上記の話を見ると分かる様に、前漢の司馬遷の時代に書かれた史記には臥薪の部分は描かれていませんが、嘗胆の部分は描かれているわけです。
十八史略の臥薪嘗胆
十八史略は元の時代に書かれたものです。
モンゴル帝国時代の史書を纏めたものだと言えるでしょう。
十八史略にも臥薪嘗胆の記録があり、次の様に書かれています。
※筑摩選書・古代中国 説話と真相(kindle版)より
呉は越を攻撃したが、呉王闔閭が負傷して死去し、その子の夫差が即位した。
早朝と晩に硬い薪の上に臥せ、出入りする際に「夫差よ、越が父を殺したのを忘れたのか」と言わせた。
越王勾践は会稽山で敗戦した後に、助命されて国都に帰った。
胆を懸け、坐臥するたびに仰いでそれを嘗め、「汝は会稽の恥を忘れたのか」と言った。
戦国時代の前期に書かれた春秋左氏伝には臥薪嘗胆の話は一切なく、前漢の史記で嘗胆のみが登場し、十八史略で臥薪嘗胆が完成したと言えるでしょう。
落合淳思氏は、この説話から「目的のための長時間の苦労を臥薪嘗胆と呼ぶ様になった」と述べています。
呉越春秋の臥薪嘗胆
余り注目されていませんが、呉越春秋にも臥薪嘗胆の話があります。
呉越春秋には、次の記述が存在しています。
※中国故事(kindle版)
越の勾践、薪に臥し胆を嘗めて、呉に報いんと欲す
呉越春秋では呉王夫差が薪の上で寝ておらず、越王勾践が一人で臥薪嘗胆を行った事になっているわけです。
中国故事(角川ソフィア)では臥薪嘗胆の意味を「復讐に専念すること」だとしました。
臥薪嘗胆は史実なのか虚構なのか
臥薪嘗胆は史実なのかですが、書物によって差異が出ており、あくまでも創作であり説話に過ぎないと考えております。
臥薪嘗胆の話は物語としては面白いと感じますが、実際に薪の上で寝ていたら体が痛くなり、疲れも取れずに政務に支障が出てしまうはずです。
実際に臥薪嘗胆を行ってしまえば仕事などの生産性は確実に落ちます。
中国の説話に詳しい落合淳思氏も臥薪嘗胆を「かなり新しく作られた説であるため、その虚構性は分かりやすい」と述べています。
この様な事から臥薪嘗胆は創作の可能性が極めて高いと言えるでしょう。
ただし、臥薪嘗胆や呉越同舟、会稽の恥などの説話が呉越の戦いの物語を面白くしている事は間違いないはずです。