名前 | 鼎の軽重を問う |
読み方 | かなえのけいちょうをとう |
別名 | 問鼎(もんてい) |
意味 | 相手の能力を試す |
登場人物 | 楚の荘王、王孫満 |
鼎の軽重を問うは故事成語であり、相手の実力を試すなどの意味があります。
司馬遷の史記や春秋左氏伝に楚の荘王が周に迫り鼎の軽重を問うた話があり、これが鼎の軽重を問うの故事成語になりました。
楚の荘王は鼎の軽重を問う事で周の実力を試し、周の定王の配下の王孫満は鼎の重さではなく徳が大事だと説明し、楚の荘王は楚に帰還しています。
ただし、鼎の軽重を問うの話は創作だったのではないかとする説もあり、合わせて紹介します。
鼎の軽重を問うを略して「問鼎」と呼ぶ場合もあります。
尚、鼎の軽重を問うで登場する楚の荘王には臣下を見極める為に行った「鳴かず飛ばず」の逸話でも有名な人物です。
鼎の軽重を問うの由来
楚の荘王は即位して直ぐに臣下の叛逆により苦難を味わいますが、孫叔敖を令尹とし蘇従や呉挙を用いて楚は強大となりました。
楚を纏め上げた楚の荘王は中原への進出を考えたわけです。
楚軍は北上し陸渾の戎の討伐を行い周の国境付近にまで迫りました。
周王の前で武威を示し天下を震撼させようとしたのが、楚の荘王の狙いだったのでしょう。
周の定王は楚軍に恐懼しますが、配下の王孫満を楚の陣に向かわせました。
ここで楚の荘王は王孫満に向かって、次の様に述べています。
楚の荘王「洛陽には伝国の鼎があると言うが、その大きさ、重さはどれ程のものであろうか」
楚の荘王が鼎の大きさや重さを訪ねた事が、鼎の軽重を問うの語源となっています。
鼎と言うのは三本の足と二つの取手があり、巨大な青銅の釜の事を指します。
鼎は九鼎とも呼ばれ夏王朝の禹が造り、殷王朝、周王朝へと伝わったとされていたわけです。
鼎の軽重を問うの意味
楚の荘王が鼎の大きさや重さを問うたのは、実力で鼎を楚の持ち帰ろうとする意図があったわけです。
直接は周の鼎を楚に持ち帰るとは楚の荘王は言いませんでしたが、暗に鼎の軽重を問うて脅したと言えます。
この楚の荘王の話から出来た故事成語が鼎の軽重を問うであり「権威に対して疑問を投げかかる場合」や「地位を覆そう」としたり、相手の能力を試す様な時に使われる故事成語となっています。
尚、楚の荘王は鼎の軽重を問うたわけですが、周の定王が派遣した王孫満が夏の桀王や殷の紂王を例に出し、上手く楚の荘王を説得した事で九鼎が楚に移る事はありませんでした。
史記にも王孫満の話を聞いた楚の荘王が九鼎を持ち帰る事も出来ず、虚しく帰還した事が記録されています。
楚の荘王は春秋五覇にも数えられ歴代楚王の中でも屈指の名君という事になっていますが、鼎の軽重を問うは残念な逸話となっています。
因みに、春秋五覇は尊王攘夷が大事だとされていますが、鼎の軽重を問うた楚の荘王には尊王の気持ちが足りないから覇者ではないとする見解もあります。
鼎の軽重を問うの話は創作だったのか
鼎の軽重を問うの話ですが、史記にも記載されていますが元ネタは春秋左氏伝です。
先にも述べた様に楚の荘王は鼎の軽重を問うたわけですが、王孫満は夏の桀王に徳が無かった事で鼎は殷に移り、殷の紂王にも徳が無かった事で周王朝に移ったと説明しました。
王孫満は鼎の軽重よりも徳の重さが大事だと告げたわけです。
さらに、王孫満は周の成王が洛陽に鼎を設置し占うと30世代、700年が天命であると出たと述べました。
王孫満は周の徳が衰えた事は認めながらも鼎の軽重を問う時期ではないと楚の荘王に伝え納得させています。
ただし、王孫満の言葉には嘘が混ざっているとも考えられています。
鼎ですが黄河文明にも属する二里頭文化の頃から造られる様になった事が分かっていますが、祭祀に使われた鼎などは持ち主が亡くなると一緒に埋葬された事も分かっています。
つまり、持ち主が亡くなれば副葬品として一緒に埋められる事から、伝世という発想がそもそも無かった事も分かるはずです。
さらに、現在のところ二里頭文化や竜山文化、仰韶文化などが存在した事が分かっていますが、夏王朝自体が発見されていない状態です。
夏の桀王は後世の創作とも考えられており、鼎の軽重の話はあくまでも説話だったのではないかとされています。
尚、春秋左氏伝は戦国時代に説話が纏められ作られたとされていますが、周王朝が滅びてもいない時代に、700年で滅びるとする予言がある事は注目されています。
周王の力が衰えた事は周知の事であり、周の滅亡が近づいていると考えた人も多くいたのでしょう。