名前 | 菊池武敏 |
生没年 | 生年不明ー1341年? |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:菊池武時 兄弟:武重、頼隆、隆舜、武茂、武澄、武吉、武豊、武敏、武光、武隆、武士、武尚、武義、武世、武方 |
年表 | 1336年 多々良浜の戦い |
菊池武敏は多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた事で有名な武将です。
多々良浜の戦いでは菊池氏は惣領の菊池武重が近畿に遠征中だった事もあり、菊池武敏が軍を指揮する事になったのでしょう。
菊池武敏は阿蘇惟直や阿蘇惟澄らと共に多々良浜の戦いに臨みますが、日和見の武士が多く寝返った事で勝敗は決しました。
戦いに敗れた菊池武敏ですが、その後も各地で転戦した事も分かっており、菊池氏の武の柱として戦い続けています。
尚、菊池武重が亡くなると弟の菊池武士が後継者となりますが、菊池武敏が後見人になったとする話もあり、菊池武敏は菊池氏の中でも重きを成した人物だったのでしょう。
有智山城を攻撃
1336年に近畿で北畠顕家らに敗れた足利尊氏は九州に降ってきました。
少弐貞経は嫡子の少弐頼尚に多くの兵を預けて、足利尊氏を迎えに行かせました。
この時に、突如として菊池武敏が少弐氏を攻撃し、少弐貞経を有智山城に追い詰め自害させています。
菊池武敏の父親である菊池武時は鎮西探題を攻撃する時に、少弐貞経や大友貞宗に裏切られ敗死した過去があったわけです。
有智山城の戦いで菊池武敏が少弐貞経を討つ行為は、父親の敵討ちを成就させたとも言えるでしょう。
多々良浜の戦い
多々良浜の戦いは後醍醐天皇の最大の敵とも呼べる足利尊氏が相手であり、この大一番で勝利する事が出来れば建武政権の延命は確定的だったはずです。
当時の菊池氏では当主の菊池武重が新田義貞の軍に加わり東方遠征中であった為に、弟である菊池武敏が総大将となりました。
菊池氏の中でも足利尊氏と誼を通じるべきだと考えた者は多くおり、こうした中で菊池武敏が総大将に選ばれる辺りは、菊池武敏が菊池氏の中でも反尊氏派の筆頭だったのかも知れません。
多々良浜の戦いで菊池武敏は足利軍の前軍である足利直義を追い詰めましたが、足利尊氏が救援に来た所で松浦党の者達が寝返り、連鎖的に日和見勢が寝返った事で勝負は決しました。
多々良浜の戦いで菊池武敏は敗れましたが、采配に問題があったと言うよりも、九州の諸将は建武政権から厚遇される菊池氏に対し妬みの様な感情を持っており、松浦氏の寝返りにより勝負が決してしまったと言えるでしょう。
多々良浜の戦いで敗れた菊池武敏ですが、黒木城、豊後国楠城などを移動し、辛くも足利軍の追撃からは逃げ延びました。
その後の菊池武敏
多々良浜の戦いの後の菊池武敏ですが、その年の8月には菊池武敏は阿蘇惟澄と共に幕府方の今川助時と唐河で戦った記録があります。
菊池武敏は多々良浜の戦いで重傷を負ったともされていますが、比較的早い時期に戦場に復帰している事も分かるはずです。
後醍醐天皇が京都から脱出し吉野に移ると南北朝時代が始まる事になります。
1338年には兄の菊池武重が筑後の生葉郡妙見城で挙兵し、菊池武敏も筑後の石垣山鷹取城で挙兵しました。
菊池兄弟に合わせて豊前の宇都宮隆房も兵を挙げています。
少弐頼尚は菊池武重や武敏の軍と戦いました。
兄の菊池武重は京都から脱出し菊池郡に戻り犬塚原の戦いで勝利するなどしますが、1341年頃に亡くなったとされています。
菊池武重が亡くなると菊池武士が後継者になりますが、後見人となったのが菊池武敏だったとも伝わっていますが、間もなく菊池武敏も亡くなりました。
菊池武士が出家し引退した事で、菊池氏は菊池武光と九州征西府の時代に突入する事になります。