名前 | 山内経之 |
読み方 | やまのうちつねゆき |
生没年 | 不明 |
時代 | 南北朝時代 |
コメント | 家を売り常陸合戦に参戦 |
山内経之は東国武士の一人であり、南北朝時代の人物です。
高幡不動胎内文書が残っており、実在した武士だという事は間違いないでしょう。
高師冬が北畠親房と戦う為に、関東に下向しますが、従軍命令により家を売却し費用とし高師冬の軍に従軍しました。
松井優征先生が描く「逃げ上手の若君」で高師冬(吹雪)に家を売却し従軍する様に指示され、上杉憲顕に温情を掛けられた「山内」なる人物がいますが、モデルになっているのが山内経之なのでしょう。
実際に家を売り、その費用で従軍した武士がいた事で、注目を集めています。
山内経之は小規模な武士
山内経之は武蔵国多西郡土淵郷の付近に領地を持つ、小規模な武士だったと考えられています。
1339年に高師冬が南朝の北畠親房を討つために関東に下向しました。
当然ながら高師冬は軍勢催促を行いますが、この時に山内経之は訴訟の為に鎌倉におり出陣する様に要請があったわけです。
出兵を命じられた山内経之が家族に送った手紙が高幡山明王院金剛寺の不動明王像の中に残されており、現代にまで伝わっています。
当時の武士の姿
山内経之の残した手紙は当時の武士の実態が分かる貴重なものとなっています。
家族に送った手紙の中で山内経之は近隣の高幡氏にも常陸への出兵が求められており、出陣の為の費用が難航している様子も書かれていました。
常陸出兵への費用を出せない山内経之は家を売り、費用を出す様に指示しています。
山内経之の手紙から高師冬の常陸討伐軍は、武士たちの自己負担により成り立っていた事も分かっています。
当時の武士の苦しさも分かるはずです。
その後の山内経之
高師冬は武蔵国村岡宿で武士たちが集まって来るのを待ちますが、山内経之は逆に準備の為に地元に帰る事になります。
しかし、直ぐに高師冬の軍に合流し下総国に入り常陸を目指しました。
山内経之は現地調達が困難であった武器や食料などを留守宅から取り寄せる様にと、家族に書状を送り続けました。
山内経之は自己負担で行っており、家族に対しても多くの負担を掛けたはずです。
しかし、高師冬の軍から離脱した場合は、所領を没収されるなどの噂も流れており、自己負担でも戦場に行ったのでしょう。
当時の戦いの過酷さや内容の劣悪さも分かる内容となっています。
逃げ上手の若君の山内
先に松井優征先生が描く「逃げ上手の若君」に山内なる武士が登場しました。
因みに、逃げ若で山内が登場したのは、関東での観応の擾乱で上杉憲顕と高師冬(吹雪)が戦う時の話です。
この時に涙を流し軍資金が用意出来ない山内に対し、高師冬は冷たく家を売る様に指示しました。
高師冬の冷酷さが分かる内容にもなっています。
逃げ上手の若君で山内経之ではなく「山内」としたのは、史実を見ると上杉憲顕との戦いの時ではなく、北畠親房との戦いで山内経之の話があるからでしょう。
松井優征先生は高師冬の冷酷さをアピールする為に、山内経之の逸話を使ったと考える事が出来るはずです。
逃げ上手の若君では話が一気に進み上杉憲顕が足利基氏を確保し、北条時行や諏訪頼継らと共に高師冬との決戦に向かう事になります。
逃げ若では上杉憲顕が涙を流す山内に声を掛けており、何かしらのシーンがあるのかも知れません。