
アメンホテプ2世はエジプト第18王朝のファラオです。
父親のトトメス3世もアメンホテプ2世を高く評価していた様であり、生前から共同統治王に任命するなど、何としてもファラオに就かせたかった様子が伺えます。
アメンホテプ2世は身体能力に優れており、常人を圧倒する体力の持ち主だった逸話も存在しています。
しかし、アメンホテプ2世の頃からアメン神官団との対立が始まっていたとも考えられています。
尚、アメンホテプ2世及びトトメス4世の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
アメンホテプ2世の驚異的な武勇と英雄像
記録によると、アメンホテプ2世はとても体力のある王だったと伝えられています。
200人の家来と一緒に船を漕ぎ、家来たちが疲れて動けなくなっても、本人は平気な顔をしていたという話が残っています。
さらに、アメンホテプ3世にいたっては、一般の人の6倍もの速さで船を漕げたという逸話まであります。
また、アメンホテプ2世は弓の名手でもあり、2輪のチャリオット(戦車)の上からでも胴の的を正確に射抜くことができたと言われています。
こうした話には誇張もあるでしょうが、当時のファラオが「英雄的な人物」として語られることを好まれたのは確かです。
エジプト第18王朝のファラオたちは、西アジア方面への遠征を行う必要がありました。
そのため、軍事的に優れた王が望まれ、武勇を示す物語が多く残されたと考えられます。
征服王として知られるトトメス3世にとっても、アメンホテプ2世のような武勇に優れた後継者は、まさに理想的な存在だったのでしょう。
トトメス3世の信頼と反乱鎮圧
父親のトトメス3世もアメンホテプ2世の能力を高く評価していたようです。
確実に王位を継がせるため、女性ファラオというイレギュラーであったハトシェプストの壁画などを削ったとされています。
トトメス3世は晩年になると、アメンホテプ2世を共同統治王に任命しています。
共同統治王になっておけば、王位継承がスムーズに行われると考えたためです。
エジプトの征服王と呼ばれたトトメス3世が亡くなると、アメンホテプ2世が後継者になります。
エジプトの「征服王」と呼ばれたトトメス3世が亡くなると、王位はアメンホテプ2世へと引き継がれました。
しかし、この機会を好機と見たのか、レバノンやシリアでは次々と反乱が起こります。
アメンホテプ2世はこれを鎮めるために西アジアへ遠征し、反乱勢力を平定しました。
その後、再び反乱が起こらないようにするため、7人の王子を処刑し、その遺体を船の船首に吊るして凱旋したと伝えられています。
この話には誇張もあるかもしれませんが、当時の王が自らの力を誇示するために、こうした行為を記録させることは珍しくありません。
北シリアから帰還したアメンホテプ2世は、間を置かずにヌビアへも遠征しました。
その際、重要拠点ナバタの城壁に遺体を吊るして見せしめにしたという逸話も残されています。
これもまた、王の威信を示すための象徴的な行動として語り継がれたものと考えられます。
アメン神官団との緊張と王権の誇示
アメンホテプ2世は、治世7年と9年にも西アジアへ遠征し、大きな戦果を挙げました。
しかし、当時のファラオはどれほど勝利を収めても、「自分の力で勝った」とは公には言えませんでした。
碑文などでは、あくまで「すべてはアメン神のおかげである」と記し、神殿には莫大な戦利品を寄進するのが慣例だったのです。
こうした姿勢は、王がアメン神への強い信仰心を示すために重要でしたが、その一方で神殿側、つまり神官たちにも大きな利益をもたらしました。
神官勢力は豊かになるにつれ、政治活動にも関わるようになり、次第にファラオの政治にも影響を及ぼすようになっていきます。
自分たちに有利な方向へ政治を動かそうとする神官勢力と、王権との間には自然と緊張が生まれました。
アメンホテプ2世は、戦場で命を懸けて戦っている自分とは対照的に、後方で豊かさを増していく神官勢力に不満を抱くようになったと考えられています。
そのためか、後年には「エジプトが偉大なのは私が優れているからだ」とする自画自賛の碑文を残したという記録があります。
ただし、この碑文はアメンホテプ2世の死後に壊され建築物の詰石にされました。
もっとも、アメンホテプ2世の時代に神官勢力との対立が本格化していたわけではなく、まだ兆しの段階だったという見方も強くあります。
それでも、ファラオは「アメン神の加護を受ける存在」であることが求められていたため、王が自らの功績を強調する碑文を残したことは、神官勢力に少なからぬ衝撃を与えたのではないかと考えられています。
アメンホテプ2世は、エジプト各地やヌビアで活発に建築活動を行った王として知られています。
スフィンクスとアメンホテプ2世の建築活動
スフィンクスの前左足の斜め左には、彼が建てた「アメンホテプ2世の礼拝堂」も残されています。
アメンホテプ2世の時代、スフィンクスには「地平線のホルス」を意味する「ホルエムアケト」という名前が付けられていました。
実際、夏至の頃になると、カフラー王とクフ王のピラミッドの間に沈む太陽が、ちょうどスフィンクスの背後に重なるように見えます。
このため、スフィンクスは太陽信仰と結びつけられることも多いのですが、意外にも長い間あまり信仰されていなかったようです。
スフィンクス崇拝の最古の記録は、新王国時代のアメンホテプ1世の時代に見られます。
しかし、スフィンクスは低地に建てられていたため、砂に埋もれやすい場所にありました。
アメンホテプ1世の時代にもすでに砂に埋もれていたと考えられています。
おそらく後方部分は砂に覆われ、前面だけが見えていた状態だったのでしょう。
アメンホテプ2世は、大スフィンクスの顎髭の下に自らの彫像を設置しています。
もし顎髭の下まで砂に埋もれていたなら、彫像を置くことはできません。
そのため、アメンホテプ2世の時代には少なくともスフィンクスの前面は露出していたと考えられています。
アメンホテプ2世は、カルナクのアメン大神殿でも活発な建築活動を行いました。
アメンホテプ2世のセド祭殿は第八塔門の前に建てられていましたが、エジプト第18王朝最後のファラオであるホルエムヘブの時代にいったん解体されてしまいます。
その後、第19王朝のセティ1世の時代になると、再び別の場所へ移築されました。
また、アメンホテプ2世はカルナクの北に位置するメーダムードのメンチュウ神殿の増築にも取り組んでいます。
こうした建築活動は、彼が宗教施設の整備にも力を入れていたことを示しており、王としての威信を示す重要な手段でもありました。
アメンホテプ2世の死
アメンホテプ2世は、後継者を正式に指名しないまま亡くなりました。
遺体は王家の谷に造られた王墓に埋葬されましたが、エジプト第20王朝の末期、国が混乱していた時代に盗掘に遭ったと考えられています。
新王国末期は中央の統制が弱まり、王墓の管理も行き届かなくなっていたため、盗掘が相次いだ時期でした。
その後、アメンホテプ2世のミイラは、以下の王たちとともに別の場所で発見されています。
| アメンホテプ2世 | アメンホテプ3世 | メルエンプタハ | ラムセス4世 |
| ラムセス6世 | セティ2世 | サプタハ | トトメス4世 |
| 男性ミイラ3体 | 女性ミイラ3体 |
これらのミイラは、ヤギが偶然穴に落ちたことで見つかったと言われており、まさに偶然の発見でした。
アメンホテプ2世の石棺の中からは、彼の愛用品と思われる複合弓も見つかっています。
戦士としてのイメージが強い王だけに、彼の人物像をよく表す品といえます。
エジプト第21王朝の神官たちは、盗掘が激しくなった状況から王族の遺体を守るため、アメンホテプ2世の王墓を「隠し場所」として利用したと考えられています。
こうして複数の王のミイラが一か所に集められ、後世にまとめて発見されることになりました。
尚、アメンホテプ2世の死後に混乱はあった様ですが、トトメス4世がファラオとなりました。
トトメス4世はスフィンクスのお告げでファラオになった話もあり、アメン神官団との対立も見受けられます。
アメンホテプ2世の動画
アメンホテプ2世とトトメス4世を解説したゆっくり解説動画です。
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