室町時代

諏訪頼継は要領よく諏訪を守り抜いた

2025年1月30日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前諏訪頼継(すわよりつぐ)
改名後の名前頼嗣→直頼→頼寛
法名普寛
時代南北朝時代
一族父:諏訪時継 弟:継宗、信嗣 子:定信
年表1340年 大徳王寺城の戦い
1355年 桔梗ヶ原の戦い
コメント親の仇よりも諏訪氏を優先された

諏訪頼継は諏訪社の大祝となった人物です。

祖父に諏訪頼重、父に諏訪時継を持ちますが、二人は中先代の乱の時に亡くなっています。

中先代の乱の後に建武政権は藤沢政頼を諏訪の大祝としますが、父の仇でもある足利尊氏の意向により、諏訪頼継が大祝に復帰しました。

この時点で北朝の武将となりますが、北条時行が大徳王寺城の戦いを引き起こすと、諏訪頼継は加勢しますが戦いには敗れています。

その後も諏訪頼継は南朝の武将として戦ったり、足利直義の側近として戦うなどしていますが、最終的には室町幕府の傘下の武士となり南北朝時代を生き抜いています。

諏訪頼継を見ていると、かなり要領がよいとも感じました。

個人的には親の死よりも諏訪氏の存続を優先させたと言うべきでしょう。

尚、松井優征先生が描く、漫画・逃げ上手の若君も諏訪頼継は登場しており、北条時行と様々なやりとりをしています。

諏訪頼継のYouTube動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

諏訪氏嫡流

鎌倉時代に北条氏は、武士の信仰を集める諏訪社の上社と下社を、支配下におき信濃の掌握を計りました。

信濃には北条氏の領地も多く、鎌倉時代の諏訪氏は御内人として厚遇される事になります。

1334年に新田義貞により鎌倉幕府が滅亡しますが、諏訪盛高なる人物が北条高時の遺児である北条時行を奉じて諏訪に落ち延びる事になります。

北条時行の兄の北条邦時は五大院宗繁の裏切りにより命を落としました。

諏訪頼重と時継の親子は北条時行を匿い、諏訪時継の子が諏訪頼継であり、まだ10歳にも満たぬような子供だったわけです。

7歳で大祝となる

後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、全国で北条氏の残党により反乱が勃発しました。

信濃でも北条氏の領地が多かった事から、断続的に反乱が起きています。

こうした中で1335年6月に諏訪頼重、時継親子は小県郡の滋野氏らと共に中先代の乱を引き起こしています。

諏訪氏は北条時行を神輿にして乱を起こしたわけです。

諏訪の大祝には諏訪時継がなっていましたが、大祝は基本的に諏訪から出る事が出来ず、諏訪頼継に大祝の位を譲りました。

この時の諏訪頼継の年齢は、まだ7歳だったと伝わっています。

大祝とは諏訪上社の神官の中で頂点に位置する地位であり、諏訪明神の依り代で現人神とされ、童男を立てるものでした。

尚、諏訪頼継の大祝就任が資料に見られる活動の初見となります。

諏訪頼継の大祝就任を逆算すると、諏訪頼継は1329年生まれとなり、足利義詮足利直冬らと同世代という事になります。

中先代の乱

信濃では守護の小笠原貞宗が諏訪氏の討伐を行いますが、諏訪神党の本隊は鎌倉を目指し進撃しました。

小笠原貞宗は北条氏の残党に苦しめられ、諏訪神党の関東乱入を許してしまったわけです。

諏訪頼重と諏訪時継は一時的に鎌倉を奪還しますが、不運もあり足利尊氏に敗れて自害しました。

北条時行は鎌倉を脱出し生き延びています。

中先代の乱が失敗に終わった事で、諏訪頼継は祖父と父を失い身も危険にさらされる事になります。

この時に諏訪円忠が作成した諏訪大明神絵詞によると、諏訪頼継は神のお告げにより諏訪郡原郷に身を隠したと言います。

建武政権では勅裁により、諏訪氏庶流の藤沢政頼を大祝に就任させました。

ただし、庶流でしかない藤沢政頼を大祝にする事は反発も大きかったわけです。

逃亡生活

逃亡生活になってしまった諏訪頼継は、4,5名の従者と共に穴を掘り火を見せないようにし深夜に食事をするなど苦難が訪れたとも伝わっています。

大規模な捜索があった場合は、自害の準備までしていた話まであり、いつ殺されるのかも分からない状態でした。

諏訪大明神絵詞によると諏訪頼継に様々な奇跡が起きて救われた事になっていますが、実際には藤沢政頼に反発するグループが諏訪頼継を匿ったり支援したりしていたのでしょう。

大祝に復帰

足利尊氏足利直義と共に論功行賞を始め、激怒した後醍醐天皇は鎌倉に討伐軍を派遣しました。

足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破ると、そのまま京都に進撃し、九州に落ち延びるなどもありましたが、室町幕府を成立させています。

この時に小笠原貞宗が甲斐の武田政義と協力し、藤沢政頼を破り、諏訪頼継を大祝に就任させたとあります。

建武政権の諏訪の大祝は藤沢政頼でしたが、足利氏では諏訪氏嫡流の諏訪頼継を大祝とし、諏訪氏を味方に付けたかったのでしょう。

実際に藤沢政頼が大祝になるのは許せないと思っていた者も多かったのか、諏訪頼継は呆気なく大祝の位に復帰しました。

足利尊氏は伊那郡飯田郷を上社に安堵しており、諏訪氏に気を遣っている様子が伺えます。

ただし、これらの話は諏訪大明神絵詞にしか書かれておらず、史実なのかは疑問があります。

それでも、諏訪頼継が室町幕府制定後に大祝の位にあった事だけは間違いないのでしょう。

それと同時に諏訪氏は北朝側の勢力になったとも言えます。

諏訪頼継は祖父や父の仇でもある足利尊氏から、恩を受けたと言えるでしょう。

大徳王寺城の戦い

中先代の乱が終わると北条時行は北畠顕家の軍に加わるなど南朝の武将となっていました。

勿論、北条時行の目的は鎌倉幕府の再興であり、後醍醐天皇の理念に惹かれたわけでも無かったはずです。

こうした中で1340年に北条時行は南信濃の大徳王寺城で挙兵しました。

この時に諏訪頼継は「父祖の忠節忘れ難し」と述べ北条時行の支援を決定しました。

ただし、この時の諏訪頼継の年齢は12歳であり、一族の意思として北条時行に味方したと考えられています。

大徳王寺城の戦いでは諏訪頼継が負傷しながらも奮戦しますが、最終的には戦いに敗れ諏訪に戻っています。

北条時行は再び行方を晦ましました。

大祝の立直

信濃大徳王寺城は諏訪の外の地であり、大祝になった者はいく事が出来ない場所でした。

そこで諏訪頼継は大祝の位を降り、大徳王寺城の戦いに参加しています。

諏訪頼継は負傷し諏訪に戻ってきますが、神職の身でありながら手負人や死人と交わった事が問題となりました。

しかし、諏訪頼継は父祖の賢慮により許されると主張し「三七日勤行」により葬送を行い十三所参詣を行い穢れを払ったと言います。

大祝の位を降りる

1346年になると、今度は諏訪頼継が大祝の位を自ら去る事になります。

新たに大祝の位には弟の諏訪継宗が就任しました。

この時の諏訪継宗は7歳だったと伝わっています。

諏訪継宗以降の大祝に関しては、下記の様に継承していきました。

頼信ー為員、信員ー信有ー頼貞ー有継

ただし、1346年以降でも諏訪頼継が大祝と呼ばれた記録があり、不明な点もあります。

諏訪頼継が北条時行に味方した理由

諏訪頼継が北条時行を助けた理由ですが、先代との繋がりとみる事も出来るはずです。

祖父の諏訪頼重や父の諏訪時継は、北条時行を主君だと認めていました。

それと同時に信濃の小笠原氏と戦ったと言うのもポイントになるでしょう。

小笠原貞宗は建武政権の意向により信濃に入って来たわけですが、南信の伊賀良荘や中信の府中を拠点としており、信濃の有力国人との権益とぶつかっていたわけです。

信濃には旧北条氏の所領である春近領があり、国衙領群を巡って対立が起きるのは必然だったと言えるでしょう。

小笠原氏にしても守護に任命されただけでは何の権益もなく、自らの力で切り拓いていく必要があり、衝突は時間の問題でした。

これから先の諏訪頼継は小笠原氏との抗争に明け暮れる事になります。

尚、春近の地名は現在でも伊那市などで残っています。

信濃守

諏訪頼継は1347年に北朝の朝廷に信濃守に任官する様に要請しました。

この頃の諏訪頼継が北朝に接近していた事が分かる記録です。

この時に「諏訪上宮大祝頼嗣」と名乗っており、諏訪頼継から諏訪頼嗣に改名したのでしょう。

諏訪頼継は1340年の大徳王寺城の戦いでは、南朝となり北条時行と共闘しましたが、この頃には北朝に接近していた事になります。

中先代の乱で諏訪頼重や諏訪時継は足利尊氏と戦いますが、諏訪頼継は父や祖父から貰った「頼継」の名を捨てて「頼嗣」とし北朝に接近したとも考えられています。

当時は小笠原氏が信濃守を称しており、小笠原氏に対抗する為に諏訪頼嗣は信濃守の任官を望んだのでしょう。

足利直義を支持

観応の擾乱により足利直義と高師直が対立し、さらに足利直義と足利尊氏の争いに発展しました。

当然ながら観応の擾乱は信濃にまで発展し、尊氏派の小笠原貞宗と直義派の上杉藤成が信濃春近領を巡って争う事になります。

諏訪頼嗣や信濃の国人衆の多くは小笠原氏と権益で争っており、直義派に属しました。

1350年頃までは、諏訪頼嗣と名乗っていましたが、足利直義から偏諱により諏訪直頼に改名しています。

諏訪頼継に始まり諏訪頼嗣、諏訪直頼と二度目の改名となりました。

尚、1352年の武田文元の軍忠状には諏訪直頼の名前がみられ、1352年までには諏訪直頼を名乗っていた事が分かるはずです。

因みに、諏訪直頼に改名してからは花押の形が足利直義に近くなったとも指摘されています。

諏訪直頼は上洛し足利直義に仕えますが、観応の擾乱による軍事衝突に発展すると、諏訪直頼は信濃に戻りました。

この頃に、諏訪直頼は信濃守護に任命されたとも考えられています。

尊氏派の小笠原貞宗に対抗する為の信濃守護になったともされています。

信濃を制圧

諏訪直頼は諏訪に帰国すると、市河氏、上原氏、英多氏などと共に小笠原氏打倒に動きました。

この時の諏訪直頼の軍には勢いがあり、埴科郡船山郷を攻撃し守護館を炎上させています。

この頃には小笠原貞宗は亡くなっており小笠原氏の当主は小笠原政長でしたが、諏訪軍の攻勢に対処出来ませんでした。

小笠原政長の弟である政経、兼経らを降伏させ、さらには甲斐にまで兵を進めています。

関東の戦いでは直義派の上杉憲顕が高師冬を相手に優勢に戦いを進め、高師冬は甲斐に逃げ込んでいました。

諏訪直頼は直義派の諸将と共に、須沢城に籠る高師冬を攻撃し自害に追い込んでいます。

近畿での戦いでも足利直義が優勢に戦いを進め小笠原政長までもが、直義派に加わりました。

これにより信濃は直義派一色になったと言えるでしょう。

諏訪直頼は信濃が片付くと上洛し、京都での戦いにも参加しました。

諏訪直頼と足利直義

足利直義は打出浜の戦いで勝利し、高師直が世を去り室町幕府は落ち着くかに思えました。

しかし、足利尊氏と足利直義の対立に発展し、足利直義は身の危険を察知し京都を出ますが、この中に諏訪直頼もいました。

諏訪直頼は足利直義とは、かなり親しい仲になっていたのでしょう。

「観応二年日記」では足利直義の腹心として諏訪直頼の名前が挙がっている程です。

尚、諏訪の下社も足利直義を支持していました。

小笠原政長の離反

観応の擾乱で足利尊氏が優勢になると、小笠原政長は直義派を離脱し尊氏派に復帰しました。

小笠原氏が直義派から離脱すると、信濃の直義派の武将である香坂美濃介が小笠原氏や高梨氏と戦っています。

信濃では諏訪直頼が戻ってくるなどの噂も流れ、尊氏派と直義派に分かれて戦いを繰り広げています。

こうした中で足利直義上杉憲顕がいる関東を目指し、諏訪直頼は信濃に下向しました。

諏訪直頼は信濃の直義派を指揮しています。

小笠原政長は足利尊氏から直義の関東入りを阻止する様に命令されており、野尻城や米子城の防衛にあたりました。

諏訪直頼が兵を率いて米子城を攻撃した話が残っています。

さらに、1351年の暮れには信州小県郡で夜山中尾で守護代の小笠原為経の軍と戦った記録があります。

小県郡の戦いで諏訪直頼は数千騎を率いた記録があり、諏訪直頼の信濃での影響力の高さが伺えます。

ただし、小県郡の戦いでは小笠原為経が勝利したと考えられています。

直義派は劣勢にありながら、信濃では諏訪直頼がよく奮戦したと言えるでしょう。

観応の擾乱の終結

足利直義は鎌倉に入りますが薩埵山の戦いなどで敗れ、1352年に亡くなりました。

戦いに勝利した足利尊氏は直義派の東国守護達を一斉に改替し、尊氏派の諸将を守護に任命しています。

足利尊氏は畠山国清や宇都宮氏綱らを重用しています。

信濃では尊氏派として戦った小笠原政長が重用されており、春近領の一元的な掌握を認められました。

しかし、直義派の諸将は各地におり不満を募らせ抵抗していく事になります。

観応の擾乱で諏訪直頼は足利直義に味方した事で戦後の薩埵山体制では冷遇されたと言えそうです。

武蔵野合戦

足利尊氏が薩埵山体制を構築してから直ぐに関東で大規模な反乱が起きました。

南朝の新田義興や北条時行らに加え旧直派の上杉憲顕も加わり、後醍醐天皇の皇子である宗良親王を権威として軍は鎌倉に向けて進軍しています。

観応の擾乱が終わった後の足利尊氏と南朝及び旧直義派との戦いを、武蔵野合戦と呼びますが諏訪直頼が何処まで関与したのか分からない部分が多いです。

太平記には関東へ進軍した武将の中に「諏訪祝」なる人物がおり、これが諏訪直頼だったのではないかとも考えられています。

尚、信濃では仁科兵庫助、高梨越前守、伴野十郎、滋野八郎、祢津小次郎らが宗良親王を盟主と仰ぎ南朝として参加した事が分かっています。

武蔵野合戦が終わると北条時行が最期を迎えた話がありますが、どの様な気持ちで諏訪直頼が見ていたのかは不明です。

北条時行死後も諏訪直頼は生き続ける事になります。

桔梗ヶ原の戦い

諏訪直頼は信濃を拠点とし宗良親王を盟主とし活動を続けました。

1355年に諏訪上社の神官権祝の一族である矢島正忠が南朝より従五位下に叙任されており、南朝が上社を重視していた事がよく分かる記録です。

諏訪直頼の戦いは続き1355年8月には宗良親王と共に、信濃府中の攻略を目指し小笠原長基と筑摩郡桔梗ヶ原で戦いました。

桔梗ヶ原の戦いでは激戦となりますが、戦いには敗れてしまった様です。

尚、公家の洞院公賢の日記である園太暦には、桔梗ヶ原の戦いにより信濃からの馬の貢進が遅れたとあります。

桔梗ヶ原の戦いの激しさが分かる記録でもあります。

桔梗ヶ原の戦いは南朝信濃の分岐点でもあり、これより信濃でも南朝は衰えて行く事になります。

幕府への帰順

1358年に足利尊氏が京都で亡くなりました。

遂に親の仇である足利尊氏が死去したわけです。

ただし、諏訪直頼を見ていると、北朝に与した事もあり、そこまで足利尊氏を恨んでいる様には思えません。

足利義詮の政策もあり直義派の幕政復帰が行われる様になります。

直義派の上杉憲顕は足利基氏の元で関東管領となり、信濃でも小笠原氏から上杉朝房に守護が変わりました。

尚、1359年に幕府執事の細川清氏の提案もあり、足利義詮は南朝攻撃を行っています。

鎌倉公方の足利基氏は関東執事の畠山国清を援軍として近畿に向かわせるなどしています。

太平記には義詮の南朝征伐の中に「諏訪信濃守」がおり、これが諏訪直頼の事ではないかとも考えられています。

これを考えれば足利尊氏が亡くなり早い段階で、諏訪直頼は室町幕府に復帰した事になるはずです。

信濃の情勢

足利義詮の時代に信濃守護に上杉朝房が就任しますが、小笠原氏が信濃から撤退したわけでもなく政治基盤を失ったわけでもありません。

ここで問題になって来るのが春近領であり、足利尊氏は春近領の支配を小笠原氏に任せましたが、上杉朝房及び信濃国人による介入があったわけです。

こうした事情もあり諏訪直頼が、伊那郡春近領の伊那郡片桐郷内七窪に対する免状を、国人の飯島氏に発給したものもあります。

春近領を巡り村上、香坂、春日、長沼氏らと小笠原氏が戦っている事も分かっています。

尚、室町時代後期の神長官・守矢満実の守屋満実書留によれば、諏訪直頼は合戦があると大祝の地位を降り、合戦が終わると再び大祝の地位に戻った話があります。

この記述を信じるのであれば、諏訪直頼は18歳で大祝を弟に譲ったはずですが、再び就任している事にもなってしまいます。

諏訪直頼が大祝に再びなったのかは、様々な意見があります。

諏訪兵部大輔頼寛

1368年以降から「諏訪兵部大輔頼寛」の名前での活動が見られる様になります。

諏訪頼継は頼嗣、直頼に続き三度目の改名を行い頼寛を名乗っている事が分かります。

さらに、官位も信濃守から兵部大輔に変わっている事も分かるはずです。

一つの説として室町幕府に帰還した時に、直頼の名を捨てたのではないかとする説もあります。

尚、諏訪頼寛は1384年までには出家しており、沙弥と称する寄進状が残っており、異説もありますが、この頃までには出家していた事が分かります。

諏訪頼寛は普寛の法名を名乗りました。

斯波氏と信濃国

1384年になると管領・斯波義将の弟の斯波義種が信濃守護に任命されました。

斯波義種は信濃には赴かず代官の二宮氏が派遣されますが、小笠原長基は村上氏や高梨氏と手を結び抵抗しています。

1387年には斯波義将が信濃守護となりますが、小笠原氏、村上氏、高梨氏らは再び抵抗する事になります。

こうした中で諏訪頼寛は斯波氏に与しました。

室町幕府では諏訪氏が帰参してから押領の禁止など諏訪氏を保護する政策を取っており、諏訪頼寛が斯波氏に味方するのは必然だったと言えるでしょう。

諏訪頼寛は斯波氏の支援を受けて小笠原氏との戦いを展開しました。

ただし、諏訪氏は1387年に伊那郡田切で小笠原長基の軍を破りますが、筑摩郡熊井原の戦いでは敗れています。

斯波義将は諏訪頼寛の戦功を賞しました。

諏訪の実力者・諏訪頼寛

1394年に明徳の和約の和談があり、南北朝時代が終焉しました。

日本の朝廷が一つになったわけです。

しかし、この時代になっても諏訪頼寛は、まだ60代であり生存していた事が分かっています。

1395年(応永2年)に上社の神職にある勝間殿なる人物が、口論を起こし上社前宮の阿弥陀堂で討たれる事件が勃発しました。

伯耆守なる人物は自身の子を勝馬殿の後継者にしようとしたわけです。

これに対して一族以外の者は神職に就く事が出来ないとなり、非難が殺到しました。

こうした状況の中で諏訪頼寛は自身が京都から信濃に戻る最中に尾張で、共とした牛山なる人物を養子として神職に就けています。

牛山は当然ながら諏訪氏の一族ではなく、その後に伯耆守の子を神職に就けた話があります。

諏訪社の争いを諏訪頼寛が収めたわけですが、この頃になっても諏訪頼寛に大きな発言力があった事が分かるはずです。

諏訪頼寛の最後

諏訪頼寛の最後は分かっていませんが、1397年の記録を以って行方が分からなくなっています。

こうした事情から1400年位までには亡くなったのではないかと考えられています。

室町幕府の足利義満の時代に亡くなった事は間違いなさそうです。

諏訪頼寛の子の諏訪定信は伊那郡高遠の地を根拠地として活動し、諏訪氏の惣領は弟の諏訪信嗣の家系が継承していく事になります。

生没年から考えると諏訪頼寛は南北朝時代を最初から最後まで生き抜いたと言えるでしょう。

諏訪頼寛は要領よく立ち回り小笠原氏との戦いに生涯を費やしたと言えます。

尚、小笠原氏の方でも諏訪頼寛を宿敵だと考えており、小笠原政長は亡くなる時に「心残りは信濃守(諏訪直頼)を討てなかった事だ」と述べた話が伝わっています。

因みに、戦国時代になると諏訪氏も小笠原氏も武田信玄に敗れ、信濃は武田家の領国となりました。

諏訪頼継の動画

諏訪頼継のゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は南北朝武将列伝の北朝編をベースに作成しました。

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