赤松範資は赤松円心の子で赤松氏の後継者になった人物でもあります。
円心の生前には赤松範資は摂津守護などで活躍し、赤松円心が亡くなると播磨守護も兼ねる事になります。
ただし、赤松範資が赤松円心の後継者になってから、1年程で亡くなってしまった事もあり、惣領になっていたのは極めて短期間だったと言えるでしょう。
赤松範資が亡くなると子の赤松光範が摂津守護となり、弟の赤松則祐が播磨守護となります。
赤松範資が亡くなると赤松則祐が赤松氏の惣領となりました。
赤松範資が摂津守護となる
赤松範資の生年ははっきりとしていませんが、赤松円心が二十代前半に授かった子だと考えると、1290年代に生まれたのではないかとされています。
赤松範資は赤松円心が亡くなると家督を継ぐ事になりますが、既に摂津守護になっていた事が明らかになっています。
赤松円心が生前に「中国、摂津、播磨の領国を支配していたい」と述べていた事もあり、赤松範資が摂津守護になったのでしょう。
室町幕府では赤松円心ではなく、息子の赤松範資に摂津守護の座を与えています。
父親の赤松円心が室町幕府樹立において大きな功績を挙げており、円心の功績を幕府が配慮した結果として、摂津守護の座が与えられたのでしょう。
赤松範資は1337年の段階で摂津守護になっていた事が分かっており、足利直義の摂津国吉志荘の相論に関する下知状には「守護人赤松美作権守範資」の名が記述されています。
赤松範資の摂津守護としての活動は忍頂寺、勝尾寺、水無瀬神宮などでみる事が出来ます。
尚、赤松範資の守護代として河江円道なる人物がいた事も分かっています。
摂津守護解任と復帰
1339年7月になると摂津守護が赤松範資から仁木義有に代わりました。
仁木氏は足利一門では家格が低いわけですが、仁木頼章や仁木義長が多くの功績を挙げており、仁木義有が摂津守護に任命されたのでしょう。
しかし、1340年3月になると赤松範資が再び摂津守護となります。
摂津守護に復帰した赤松範資は南郷穂積村住人が山賊行為などの狼藉があり、勝尾寺から訴えがあり、赤松範資は幕府に注進しました。
赤松範資は自力での解決が難しく、幕府を頼ったのでしょう。
赤松範資は亡くなる1351年まで摂津守護の位にあったとも考えられていますが、実際には摂津守護の座は流動的だったのではないかとされています。
播磨守護を兼る
1350年に父親の赤松円心が亡くなると、赤松範資が播磨守護となります。
名実共に赤松範資が赤松円心の後継者になったと言えるでしょう。
1350年4月に久我家領這田荘で東条郷公文の堯観が狼藉を行う事件が勃発しました。
室町幕府では堯観の行動を問題視し、赤松範資に城郭を破壊し堯観を取り締まる様に命令しています。
赤松範資は城郭を破却し室町幕府に報告しました。
他にも、広峯社領である土山荘内原村を広峯長種に命じるなどの活動記録があります。
ただし、赤松範資が播磨守護だった期間は極めて短く、播磨守護としての記録は殆ど残っていない状態です。
赤松範資の最後
大清録によると赤松範資は1351年4月に亡くなった事が分かっています。
大清録の著者は太清宗渭であり、赤松円心と関係が深かった雪村友梅の印可を受けた人でもあります。
観応の擾乱の真っただ中で赤松範資は最後を迎えたと言えるでしょう。
赤松範資が亡くなると摂津守護は息子の赤松光範が継ぎ、播磨守護は弟の赤松則祐が後継者となりました。
赤松則祐の法名は世範だったと伝わっています。
大清録には赤松範資の33回忌の話があり、人となりを称えています。
赤松範資が信仰に厚い人物であった事が推測されています。
尚、赤松範資が亡くなると惣領家は弟の赤松則祐の家に定まりました。
赤松則祐が後継者になった理由は、足利尊氏が赤松範資や貞範を好いていなかったとも、赤松則祐の妻が佐々木道誉の娘だった事が原因ともされています。
※この記事は赤松氏五代: 弓矢取って無双の勇士あり (ミネルヴァ日本評伝選)をベースに作成してあります。