
| 名前 | 陳完 |
| 別名 | 敬仲、陳仲敬、田仲敬 |
| 生没年 | 不明 |
| 時代 | 春秋時代 |
| 国 | 陳→斉 |
| 一族 | 父:利公 子:陳穉 |
陳完は陳の利公の子で、斉に出奔し田斉の祖とも言うべき人物です。
陳にいた頃の陳完は陳の宣公の太子である御寇と親しくやっていました。
しかし、御寇が殺害されると、陳完は斉に出奔しました。
斉の桓公は陳完を迎え入れ、これが田氏の始まりとなります。
陳完は亡くなると、敬仲と諡されました。
尚、史記の田敬仲完世家は明らかに、陳完を意識した名称になっています。
陳完の誕生と周の太史の予言
史記によると陳完が生まれた時に、偶然にも周の太史が陳を通り陳完を周易で占った話があります。
周の太子は次の様に予言しました。
※ちくま学芸文庫 史記世家上より
周の太史「これは国の光(徳化)を観る。
もって王に資たるによろし(国に徳化があるので王の知遇を受ける)という卜兆があります。
この子は、ゆくゆくは陳に代わって、諸侯となるのでしょうが、それは陳の国においてではなく、
別の国においてでしょう。
また、この子自身ではなく、その子孫の身の上におこるでしょう。
別の国だとすれば、必ず姜姓の国(斉国)でしょう。
姜姓は堯舜のとき太嶽の官(四嶽)にいた者の後裔であるからです。
およそ物は二つながら大きいということはあり得ないのですから、陳が衰えて、この方が栄えるでしょう」
周の太史は陳完の子孫が、斉で発展する事を予見した事になります。
陳完が懿氏の娘を娶る
史記によると、敬仲(陳完)に陳の大夫の懿氏が娘を娶らせようとしました。
この時に占うと、次の様な結果が出たと言います。
※史記 陳杞世家・田敬仲完世家より
これは鳳凰が飛び、相和しております。
嬀氏の子孫(陳完)は、姜姓の国で栄えようとしています。
この人の子孫は五世で正卿となり、八世で比肩できる者がなくなります。
ここでも陳完は姜姓の国で栄えると予言されたわけです。
実際に陳完の子孫は最後は戦国時代の田斉に繋がり、斉の公室は滅びました。
陳完の出奔
斉に出奔
陳の宣公の時代になると、陳完は太子の御寇と親しくしていました。
陳の宣公は御寇よりも弟の款(陳の穆公)を可愛がり、御寇を殺害し太子を代えました。
御寇と親しかった陳完は身の危険を感じ、顓孫と共に斉に亡命する事になります。
斉の桓公は陳完を受け入れました。
陳完を斉が受け入れた事で、陳と斉の間で一時的に険悪になりましたが、大きな事態には発展しませんでした。
正卿を辞退
斉の桓公は陳完が出奔してくると、正卿に任命しようとしたと言います。
この言葉を信じるのであれば、斉の桓公は陳完をいきなり大臣にして厚遇しようとしていた事になります。
しかし、陳完は次の様に述べました。
陳完「私は旅住まいの身です。
幸いにして重任の労役を免れる事が出来ました。
これは君の恵でございます。
高位など恐れ多い事です」
陳完は正卿の位を辞退しました。
斉の桓公は陳完を工正(百工を司る官)に任命しました。
史記の田敬仲完世家では、陳完が斉に出奔したのは斉の桓公の14年(紀元前672年)だとあります。
田氏の始まり
史記によると敬仲(陳完)は斉に行ってから、陳氏を改めて田氏を名乗ったと言います。
陳完が田氏を名乗ったのは、陳と田が二字同音の為とも、田という地名が由来とも考えられています。
斉に出奔してからの陳完の活躍はよく分からず、何年に亡くなったのかも不明です。
陳完には子に陳穉がおり、後継者になっています。
陳完は亡くなると敬仲と諡されました。