春秋戦国時代 陳(春秋)

陳の宣公は非道な人物なのか

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宮下悠史

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名前陳の宣公
姓・諱嬀杵臼
生没年生年不明ー紀元前648年
在位紀元前692年ー紀元前648年
一族父:桓公 兄:太子免、利公荘公 子:御寇、穆公
コメント太子の御寇を殺害し弟の款を後継者とした。

陳の宣公は陳の桓公の末子であり、兄の陳の荘公が亡くなると即位しました。

即位前には、兄の陳の利公らに協力し陳公他を打倒しています。

陳の宣公は太子を御寇としていましたが、款(陳の穆公)を寵愛し、御寇を殺害してしまいました。

このやり方は余りにも非道であり、人間性を問題視される部分もあります。

尚、御寇の事件で連座を畏れた陳韓が斉に亡命し、田氏の祖となっています。

ただし、陳の宣公の時代に斉の桓公の同盟に加わるなどしました。

陳の宣公が亡くなると、陳の穆公が即位する事になります。

陳の宣公が立つ

陳の宣公は兄の陳の荘公が亡くなると即位しました。

史記の陳杞世家によると、陳の宣公の3年に楚の武王が亡くなり、が初めて強大になったとあります。

楚の文王はカリスマ的な人物でもあり、周辺勢力を討伐し楚はさらに強大になります。

陳の宣公の17年には、周の恵王が陳の妃を娶り、后にしたとあります。

この女性が陳嬀であり恵后とも呼ばれる様になりますが、陳の宣公との関係は不明です。

陳嬀は陳の宣公の娘と言った所でしょうか。

陳完の出奔

史記によると、紀元前672年に陳の宣公は年齢がいってから寵妾の間に、款という子が生まれました。

陳の宣公は款を後継者にしたいと考える様になり、太子の御寇を殺害しています。

この点から、陳の宣公の非道さが分かる様な気もしました。

御寇は日ごろから陳完と仲が良く、身の危険を感じた陳完は顓孫と共に斉に亡命する事になります。

斉の桓公は陳完を受け入れ、陳完は田氏の祖となり、斉で暮らす様になりました。

諸侯との友好

春秋左氏伝によると、魯の荘公の25年(紀元前669年)に陳の女叔が使節として魯に来たと言います。

春秋左氏伝には陳と友好を結んだのは、これが最初だとあります。

陳の宣公は魯と友好を結んだ事になります。

魯の方でも陳との友好はめでたいと考えており、春秋には女叔と書き名前を書かなかったのは、喜ばしい事だったからだと春秋左氏伝は解説しました。

尚、紀元前667年には斉の桓公が主催する幽の会盟に魯の荘公・宋の桓公・鄭の文公と共に陳の宣公も参加した記述があります。

幽の会により陳も斉の覇者体制に組み込まれたと言えるでしょう。

轅濤塗の事件

陳の宣公の37年(紀元前656年)に斉の桓公は諸侯の軍を率いて蔡を攻撃し、さらにはにまで兵を進めました。

召陵の会が終わると斉の桓公は帰還しますが、陳の大夫である轅濤塗が陳を通れば陳の負担が大きくなると考え、東の道を通る様に進言しています。

しかし、東の道は悪路であり斉の桓公は轅濤塗を捕らえました。

轅濤塗の事件に陳の宣公が何処まで関わっていたのかは不明です。

尚、史記の陳杞世家では同年の出来事として、晋の献公が太子の申生を殺害した事件を掲載しています。

陳の宣公の最後

史記によると陳の宣公はその45年に亡くなったとあります。

陳の宣公が亡くなると、太子の款が後継者となり、これが陳の穆公です。

陳の宣公は陳の穆公を後継者にする為に、御寇を殺害までしましたが、事は上手く行ったと言えるでしょう。

尚、春秋左氏伝には魯の僖公の11年(紀元前648年)の出来事として陳杵臼が卒っしたとあり、最後の描写などの記述はありません。

先代:荘公宣公次代:穆公

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