名前 | 山名時氏 |
生没年 | 1303年ー1371年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
一族 | 父:山名政氏 母:上杉重房の娘 |
子:師義、義理、氏冬、氏清、義継、時義、時治、氏頼、氏重、義数、高義 | |
年表 | 1347年 住吉合戦 |
1364年 室町幕府に復帰 | |
コメント | 山名氏を発展させた英主 |
山名時氏は足利尊氏に従い各地を転戦し伯耆守護となりました。
住吉合戦では楠木正行に敗れていますが、各地で功績を挙げています。
観応の擾乱では足利尊氏に味方した後に、直義に味方し再び尊氏の元に戻るなどしています。
それでも、南朝に鞍替えし勢力を拡大させました。
足利義詮の時代に斯波高経が執事になると、大内弘世と共に好条件で幕府に帰参しています。
山名時氏の時代に山名氏は大きく躍進したと言えるでしょう。
尚、三条公忠は山名時氏を幸せな人物として評価しています。
山名時氏の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来る様になっています。
山名時氏の出自
山名時氏は正安元年(1299年)に山名政氏の子として誕生した事が分かっています。
母親は上杉重房の娘となっており、弟に山名兼義がいます。
山名氏自体は新田義重の子の新田義範を祖とする新田系の御家人でしたが、母親は上杉家の人間であり、足利氏と近しい立場にもありました。
上杉清子の子が足利尊氏や足利直義であり、これが山名時氏の人生に大きく影響する事になります。
元弘の変が起きて楠木正成が千早城に籠城しますが、この時に「山名伊豆入道跡」の名前があり、鎌倉幕府の軍勢として山名氏が加わっている事が分かるはずです。
しかし、新田義貞が上野で挙兵すると味方した者の中に「山名氏」があり、一族の中には幕府打倒の為に動いた者もいた事が分かります。
山名時氏は勇猛な武将ではありますが、鎌倉幕府滅亡時の戦いにおいて、どの様な動きがあったのかはイマイチ分かっていません。
山名時氏が伯耆守護に補任される
先にも述べた様に、山名時氏の母親は上杉氏の人間であり、山名時氏は一族の新田氏ではなく、足利尊氏の配下の武将として行動する事になります。
足利尊氏は北条時行の中先代の乱で建武政権を離脱し、新田義貞との箱根竹ノ下の戦いや近畿での楠木正成や北畠顕家との戦にも参戦しました。
足利尊氏が九州に落ち延びた時も同行しており、功績を挙げ伯耆守護に補任されています。
これが山名時氏が最初に守護になった出来事であり、伯耆に田内城を築き、山名氏を発展させる事になります。
尚、伯耆は後醍醐天皇の寵臣である三木一草の名和長年がいた国でもあり、統治の難易度は高めだったと考えられています。
それでも山名時氏は伯耆を纏める為に尽力しました。
塩冶高貞討伐
1341年に塩冶高貞が京都を出奔し、出雲へ向かい南朝に鞍替えしたとする情報が入って来ました。
塩冶高貞の討伐に命じられたのが桃井直常と山名時氏だったわけです。
太平記によると京都の足利尊氏の邸宅にいた山名時氏は平服であり、自分が塩冶高貞討伐に向かわされるとは思ってもいませんでした。
山名時氏は討伐軍の大将に自分が選ばれた事を知ると、今から準備してでは遅くなると考え、近くにいた高師直配下の若侍の具足を借りて塩冶高貞討伐に向かった話があります。
足利尊氏は山名時氏を「器用の人」と評価しており、周囲からの評価も高かったのでしょう。
山名時氏は塩冶高貞を出雲で自害に追い込んでいます。
尚、短期化ではありますが、塩冶高貞討伐後に山名時氏が出雲で守護権を行使していた形跡があります。
塩冶高貞事件により出雲は揺れており、山名時氏が守護権を行使し事を鎮めようとしたのでしょう。
丹波守護に補任される
丹波の荻野朝忠に謀反の噂が流れ、連座して仁木頼章が丹波守護を解任される事態となります。
足利尊氏は丹波守護に山名時氏を抜擢しました。
荻野朝忠の件で丹波は揺れており、政情不安になっていたり反幕府勢力の拠点があったりしていますが、足利尊氏は山名時氏を高く評価し丹波守護に任命したのでしょう。
足利尊氏は山名時氏の政治手腕を高く評価しており、丹波守護も任せたと考えられています。
1345年になると足利尊氏は室町幕府の侍所頭人に山名時氏を任命しており、山名時氏は山名氏を発展させていく事になりました。
住吉合戦
多くの者が負傷する敗戦
山名時氏の転機となったのが住吉合戦となります。
後醍醐天皇が崩御してから南朝の主戦論者は鳴りを潜めていましたが、北畠親房が常陸合戦で破れて吉野に戻ると状況が一変しました。
1347年に楠木正行が挙兵し藤井寺の戦いで、細川顕氏を敗りました。
幕府中枢の足利尊氏や直義は山名時氏を援軍の将として指名しています。
この戦いで山名時氏は負傷し、弟の山名兼義が戦死しました。
さらに、嫡子の山名師氏までもが負傷しています。
住吉合戦での戦いは楠木正行の前に山名軍は大敗北を喫したと言えるでしょう。
山名時氏と渡辺橋
戦いに敗れた山名軍は渡邊橋に殺到しました。
山名の兵は楠野氏の軍の前に戦おうともせず、渡辺橋を通過し逃亡しようとしたわけです。
狭い橋の上で身動きが取れなくなった山名の軍勢を見て、山名時氏は深手を負っており、逃げ切れないと判断し自害しようとしました。
ここで家臣に止められた山名時氏は奮起し、家臣に背負われ橋の上の兵をなぎ倒し、撤退した話が残っています。
尚、楠木正行は渡邊橋から落ちた敵兵を救出した話があり、美談になっているのとは対照的です。
住吉合戦での影響
住吉合戦が山名氏の転機になったとする話があります。
住吉合戦で弟の山名兼義が戦死しており、この時には息子たちが戦える年齢となっていました。
こうした事情もあり、山名時氏を補佐する最大の味方が山名兼義から山名師義などの子供たちに代わったと考えられています。
それと同時に、兄を補佐し続けた弟の山名兼義の死は大きかったとされています。
観応の擾乱と山名氏の動き
1349年になると室町幕府では足利直義と高師直の対立が激化し、観応の擾乱に発展しました。
因みに、高師直は山名時氏が敗れた楠木正行を相手に四条畷の戦いで勝利し、幕府内で勢力を強めており、直義との対立に至ったわけです。
山名時氏は最初は足利尊氏を支持していましたが、京都八幡合戦で尊氏派が敗れると、直義派に鞍替えしました。
高師直死後に足利直義が北陸に出奔すると同行しますが、途中で別行動を取り若狭に向かう事になります。
その後に本拠地がある山陰地方に向かっています。
足利尊氏は直義討伐を考えなければならなくなりますが、調略も行っており山名時氏は足利方に寝返りました。
南朝に鞍替え
足利尊氏は直義を破り関東で武蔵野合戦を勝ち抜きますが、近畿では南朝の軍が京都を襲撃し足利義詮が北朝の皇族を置き去りにして逃亡してしまいました。
武蔵野合戦の勝利を聞いた事で近畿の幕府勢力も結集し、後村上天皇や楠木正儀、四条隆資らが籠る男山八幡を攻撃しました。
山名時氏は八幡の戦いには参戦せず、息子の山名師義を参戦させています。
山名時氏は山陰地方で防備を固めていたとも考えられています。
足利義詮は八幡の戦いで勝利し、南朝は賀名生に撤退しました。
ここで山名師義と佐々木道誉の間でいざこざがあり、山名師義は山名時氏の元に帰還しています。
山名時氏も佐々木道誉の態度に怒り、室町幕府を離脱し南朝に鞍替えしました。
山名氏の基盤確立
山名時氏は山陰地方で軍事行動を活発に行い勢力を拡大していく事になります。
山名氏は山陰だけではなく、山陽にまで手を伸ばし美作を制圧するなども行っています。
山名時氏は在地勢力と誼を結んだりし、山陰地方を中心に山名氏の基盤を整えていったわけです。
山名師義との連携が機能していたのも山名氏拡大の大きな理由となっています。
山名氏は足利直冬を大内師世や斯波高経と共に担ぎ上げており、室町幕府であっても介入困難な勢力にもなっていました。
足利直冬と共に京都に進撃した文和東寺合戦では敗れてしまいましたが、山名氏の勢いは継続する事になります。
優秀な息子たち
康安元年(1361年)になると、山名時氏、師義、氏冬らが再び美作に軍事行動を起こしました。
さらに、備前、備中、但馬へと兵を派遣しています。
この時に山名師義が美作から備前、備中に進軍し、山名氏冬が但馬に進軍するなどしています。
山名時氏を支えたのは優秀な子供たちであり、山名氏は山陰や山陽での影響力を拡大させる事に成功しました。
山名氏も山陰、山陽地域に勢力を根付かせる事に成功したと言えるでしょう。
ただし、この時期に室町幕府の武闘派である細川清氏が失脚し、ハト派の斯波高経が管領・斯波義将の後見人になるなど実権を握り、幕府は安定を取り戻す事になります。
中国地方の重鎮である大内弘世が室町幕府に好待遇で帰順しており、山名氏の中にも幕府復帰の流れが起きる事になります。
山名時氏の幕府帰参
貞治二年(1363年)9月に征夷大将軍の足利義詮が安芸の国人である小早川春平に宛てた御教書が残っており、山名時氏の帰参について述べられています。
足利義詮は「山名時氏が帰参すれば平穏になる」と述べており、山名氏が帰参すれば中国地方で争いが激減すると考えたのでしょう。
中国地方は西の大内氏と東の山名氏が強大であり、大内、山名が帰参する事で平和が訪れるのは、火をみるよりも明らかでした。
山名氏は1364年に山名時氏の子の二名が上洛した事が分かっており、山名師義と山名氏冬だったとされています。
山名時氏としては室町幕府への帰参を承諾しても怪しんでいる部分もあり、手始めとして二人の息子を京都に向かわせたと見るべきでしょう。
山名時氏も同年に上洛しており、室町幕府の武将として復帰しました。
中原師守は山名時氏が上洛した事について「天下静謐」と述べており、京都の人々は平和を実感したのでしょう。
九州では懐良親王の勢力が猛威を振るっていましたが、それ以外の地域は幕府が圧倒的に優勢であり、世の中は太平に近づいていったわけです。
幕府に復帰した山名時氏は引付頭人となりますが、息子たちも幕府の要職に就任する様になりました。
この時には既に山名時氏は高齢になっていたと考えられ、少しずつ政務から退いていったのでしょう。
山名時氏の最後
応安四年(1371年)に山名時氏は京都で没しました。
山名時氏が亡くなる時に、山名師義は最後を看取ったと伝わっています。
丹波国氷所に葬られますが、子息郎従らが残らず付き従っており、周囲の人々から如何に愛されていたのかも分かる話となっています。
公家の三条公忠は時氏を「短命ではなく大変幸せな人物」と評しており、幸せな最後を迎えたと言ってもよいでしょう。
ただし、今川了俊の難太平記によると、山名時氏は息子たちの行く末を不安がっていたと書き下ろしました。
実際に山名時氏の死後に六分の一殿とも呼ばれた大勢力の山名氏は足利義満に睨まれ、明徳の乱により勢力を大きく後退させる事になります。
山名時氏の動画
山名時氏のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編をベースに作成してあります。