室町時代

後村上天皇は戦い続けた生涯だった

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宮下悠史

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名前後村上天皇
別名義良親王、憲良親王、吉野帝、賀名生殿、住吉殿
時代南北朝時代
一族父:後醍醐天皇 母:阿野廉子
兄弟:尊良世良護良宗良恒良成良、義良、懐良など
子:長慶天皇、後亀山天皇、良成親王、惟成親王など
年表1351年 正平一統
コメント南朝の第二代天皇

後村上天皇とは後醍醐天皇の子で南朝の二代目の天皇となります。

後村上天皇(義良親王)は幼くして、北畠顕家と共に奥州に向かい陸奥将軍府の長となりました。

北畠顕家の二度の上洛戦争においても同道しています。

北畠顕家戦死後に後醍醐天皇が崩御すると、後村上天皇として践祚しました。

後村上天皇の時代は南朝は苦しい立場でしたが、時には自ら鎧をまとい奮戦しています。

後村上天皇の時代に南朝は四度も京都を奪還しますが、全て短期で奪い返されてしまいました。

晩年は楠木正儀を信頼し、室町幕府と和平交渉を始めますが、最終的には決裂し崩御しています。

後村上天皇の生涯を見ると最後まで戦い続けたと言っても過言ではないでしょう。

尚、後村上天皇は践祚(1339年)から崩御(1368年)まで通算すると、在位年数が30年ほどあり、南朝の歴代天皇の中でも最長となります。

義良親王と陸奥将軍府

奥州に下向

建武の新政が始まりますが、北畠顕家が奥州に派遣される事が決まりました。

この時に、同行する事になったのが、義良親王です。

義良親王はまだ6歳でしたが、陸奥将軍府の長となり、多賀城に入る事になります。

勿論、幼少の義良親王に政務を行う事は出来ず、北畠顕家を中心に活動を行いました。

陸奥将軍府の名目上のトップが義良親王だったと言えるでしょう。

北畠顕家の第一次上洛戦争

1335年に北条時行や諏訪頼重による中先代の乱が勃発すると、足利尊氏は建武政権から離脱しました。

足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破ると、そのまま近畿に向かって進撃しました。

北畠顕家後醍醐天皇の要請に従い上洛しますが、奥州軍の中には義良親王もいたわけです。

この時の奥州軍は22日間で多賀国府から京都までの800キロを走破した記録があります。

勿論、義良親王は輿に乗るなどしての移動だったと思われますが、幼いながらも厳しい行軍を味わった事でしょう。

北畠顕家率いる奥州軍は楠木正成新田義貞と協力し、足利軍を九州に追いやりました。

この後に、義良親王は北畠顕家と共に奥州に戻る事になります。

ただし、南朝の重要拠点であり楠木正家が守る瓜連城が佐竹貞義らにより陥落した事もあり、陸奥将軍府の本拠地を多賀国府から伊達霊山城に移しました。

義良親王や北畠顕家が上洛している間に、奥州戦線は苦しい状態になっていたわけです。

北畠顕家の最後

足利尊氏は九州から復活し、湊川の戦い楠木正成らを破りました。

比叡山に籠城する後醍醐天皇とも和睦しますが、後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代が始まりました。

後醍醐天皇は奥州軍の上洛を望み、北畠顕家南部師行結城宗広らと共に上洛軍を起こし、この軍中には義良親王もいたわけです。

義良親王は二度目の上洛を行い奥州軍は関東では幕府方の斯波家長を破り、中部では青野原の戦いで勝利しました。

般若坂の戦いでは桃井直常に敗れています。

この頃になると旧幕府勢力の北条時行も奥州軍に加わりました。

北畠顕家は摂津方面に進出し、石津の戦いに望みますが、義良親王は危険と判断された為か吉野に残る事になります。

尚、石津の戦いで北畠顕家は高師直に敗れ戦死しました。

義良親王は、これ以降に奥州の地に足を踏み入れる事はありませんでした。

後村上天皇の誕生

南朝では新田義貞が北陸で命を落とした事もあり、危機的な状況にありました。

後醍醐天皇結城宗広の策に従い南朝の重臣を各地に派遣し、地方から挽回する策を実行する事になります。

伊勢の大湊が南朝の大船団が出向し、義良親王も東国を目指すはずでした。

しかし、南朝の大船団は嵐により壊滅し、辛うじて北畠親房伊達行朝が常陸に辿り着いた程度でした。

義良親王は目的地に到着する事が出来ず伊勢篠島へ漂着し、吉野に戻る事になります。

後醍醐天皇はこの後に体調を崩し、死期が迫った事を悟り義良親王に譲位しました。

義良親王が践祚し後村上天皇となります。

既に後醍醐天皇の皇子である尊良親王恒良親王らは世を去っており宗良親王も遠江で活動を行っており、吉野にいた義良親王が後継者になったのでしょう。

後村上天皇は嵐で吉野に戻らなければ天皇として即位出来なかったと考えられます。

後村上天皇が無事に東国まで行けてしまった場合に、後醍醐天皇が誰を後継者にしようと考えていたのかは不明です。

尚、後村上天皇は践祚しましたが、まだ12歳であり北畠親房や四条隆資、洞院実世らが政務を執る事になります。

後村上天皇と楠木正行

太平記後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が即位した時の話が掲載されています。

後醍醐天皇崩御の影響力は凄まじく公卿たちは慌てふためき、執行吉水法印が励ます有様でした。

この時に楠木正行は二千騎の軍勢を引き連れて現れ、吉野の皇居の守備にあたった話があります。

楠木正行は率先して後村上天皇に忠義の姿を見せたと言えるでしょう。

ただし、この話は一時資料で確認が出来ておらず、本当なのか分からない部分もあります。

延元五年(1340年)に後村上天皇が河内の観心寺に小高瀬荘領家職を寄進する綸旨を発行しました。

後村上天皇は綸旨の施行を楠木正行に命じており、楠木正行も活動を始めた事が分かります。

南朝では楠木正行を楠木正成の後継者で、南河内一帯に勢力を持つ存在として、楠木正行を取り立てたのでしょう。

尚、東国では北畠親房が常陸合戦に挑みますが、高師冬や石塔義房に敗れ吉野に戻ってきました。

四條畷の戦いと吉野陥落

正平二年(1347年)頃になると、楠木正行北朝細川顕氏山名時氏に連勝しました。

この後に、楠木正行は寡兵を率いて高師直に戦いを挑む事になります。

太平記では楠木正行と弟の楠木正時は死を覚悟していました。

楠木正行が吉野に挨拶にくると、後村上天皇は御簾をあげて自身の顔を正行にみせ、父親である楠木正成の忠義を讃え感謝する事になります。

後村上天皇は楠木正行に合戦の全権委任をしただけではなく、楠木正行を「股肱の臣」とし行動を慎み命を全うする様に命じました。

しかし、楠木正行は無言で退出し後醍醐天皇の廟所である如意輪堂で、辞世の句を書き戦地に赴く事になります

楠木正行は1348年の四條畷の戦いで戦死しています。

近年の研究では楠木正行は悲壮感の中で戦いを挑んだわけではなく、いつも通りの心構えで戦に望んだのではないかとも考えられています。

四條畷の戦いで勝利した高師直は吉野に軍を進め、危機を感じた後村上天皇や南朝の重臣たちは、山深き場所にある賀名生に本拠地を遷しました。

高師直は聖地である吉野を焼き討ちにしています。

吉野は高師直により崩壊状態にされてしまったと言えるでしょう。

正平一統

室町幕府内で高師直足利直義が対立し、観応の擾乱が勃発しました。

足利直義は失脚しますが、南朝への降伏を願い出ています。

南朝では後村上天皇や廷臣などの間で激論が交わされますが、結局は足利直義の降伏を許しました。

足利直義は多くの武士たちの支持を得て打出浜の戦いで勝利し、高師直を殺害しています。

この後に足利直義と北畠親房の間で朝廷をどうするのかの激論が繰り返されますが、話はまとまりませんでした。

北畠親房は後村上天皇の子孫が皇位を継承する様に交渉しますが、足利直義は両統迭立を主張するなど話はまとまらなかったわけです。

尚、北畠親房と足利直義の交渉は纏まりませんでしたが、この結果に楠木正儀が激怒し「幕府に参るので大将を吉野に差し向けてくれたら後村上天皇も没落するでしょう」と述べた話があります。

楠木正儀は後村上天皇に対し「不忠」とも呼べる言葉を吐いた事になりますが、楠木正儀は後村上天皇から最も信頼された群臣の一人となります。

この時の楠木正儀の言葉は後村上天皇個人に不満があったわけではなく、交渉が纏まらなかった南朝の首脳部への怒りだったのでしょう。

しかし、今度は足利尊氏と直義の間で対立が起き、足利直義は関東に居を移しました。

足利尊氏は足利直義を討つために、南朝の後村上天皇に恭順の意を示しています。

直義に続き足利尊氏も南朝に降伏した事で、北朝崇光天皇の廃位が決定しました。

この時に三種の神器も南朝の手に渡っています。

これが正平一統であり、後村上天皇は朝廷を一つにする事に成功しています。

足利尊氏は関東に出陣し足利直義を降伏させました。

京都奪還

北朝の廷臣は解官され北朝は廃されました。

日本には南朝が主導する王朝のみが残ったわけです。

しかし、後村上天皇及び南朝の人々は、室町幕府は観応の擾乱により苦し紛れの降伏に過ぎないと看過していました。

後村上天皇は賀名生から京都を目指し、河内の東条→摂津の住吉社→住吉社神主津守国夏の館→石清水八幡宮へと入る事になります。

後村上天皇は石清水八幡宮に入りますが、楠木正儀らの武将は京都を攻撃しています。

足利義詮は不意を衝かれ皇族も守らず近江に逃亡しました。

後村上天皇は光厳上皇光明上皇崇光上皇直仁親王などの皇族を捕虜とし、北朝を完全に消滅させる事に成功しています。

しかし、近江に逃げた足利義詮は既に奪還に動きました。

八幡の戦い

後村上天皇と楠木正儀

後村上天皇は八幡に籠城し、室町幕府の軍勢が包囲しました。

この時に南朝では幕府軍の背後を衝かせる作戦を考案し、楠木正儀と和田正氏が石清水八幡宮から外に出ています。

太平記では楠木正儀が中々背後を衝かず、和田正氏も病気となり出撃出来ず、後村上天皇がいる石清水八幡宮が危機になり、撤退を決断する事になります。

太平記では楠木正儀を「臆病者」と呼ばれてしまう話がありますが、和田文書によれば楠木正儀は和泉方面で幕府軍との戦っている事が分かり、決して動けなかったわけではないのでしょう。

実際の楠木正儀は石清水八幡宮への援軍に行きたかったが、幕府軍に邪魔が入り後方を衝けなかったのが史実を反映していると言えます。

八幡に後村上天皇は二カ月ほど籠城しますが、形勢不利であり撤退の決断をしました。

ただし、後村上天皇の楠木正儀への信頼は揺るがず継続していく事になります。

後述しますが、後村上天皇は石清水八幡宮から賀名生に戻る途中で、大和国宇陀郡に楠木正儀を呼び賀名生の住民の様子を確認した話があります。

園太暦にある話ですが、この事から後村上天皇が如何に楠木正儀を信用していたのかが分かる話です。

賀名生の山民が北畠親房の娘を巡る密通事件を引き起こし蜂起した事がありました。

この時に楠木正儀は摂津に出陣していましたが、世間では楠木正儀が後村上天皇を守りに賀名生に向かうとする噂が流れています。

後村上天皇の腹心が楠木正儀というのは、世間で認知されており、実際の楠木正儀は賀名生に行きませんでしたが、後村上天皇が危機になれば楠木正儀が動くと人々は考えていたのでしょう。

後村上天皇の撤退戦

園太暦に石清水八幡宮から撤退する後村上天皇の姿が記録されています。

園太暦によると南朝の軍が撤退する時に、馬の鞍の前つ輪あたりに、神器の様なものが入っている様な葛籠を付けていた者がいたと言います。

その人物は甲冑を着て、兵士達に紛れて撤退していましたが、葛籠のお陰で後村上天皇と判別が出来たと言います。

この描写から後村上天皇は石清水八幡宮から撤退する時に、輿で移動したわけではなく、乗馬で移動したと述べています。

園太暦の洞院公賢は「真相は不明としながらも、兵たちから聞いた事を書いた」としました。

太平記でも後村上天皇は武装して撤退しており、その理由を敵の追撃から身を守る為としています。

日本の天皇と言えば神武天皇などは例外中の例外であり、戦場には出ないイメージがあるのかも知れません。

しかし、洞院公賢は人づてに後村上天皇が三歳の皇子(長慶天皇)に譲位し、自らが戦場に行き南朝軍の士気を高める為に将軍になろうとしている話を聞いたと言います。

当時の人々は後村上天皇が主戦派であり、それでいて覇気がある人物だと考えていたからなのかも知れません。

尚、洞院公賢は後村上天皇が元服する時に、加冠役を務めた人物でもあります。

後村上天皇は無事に石清水八幡宮から撤退しましたが、南朝の重臣である四条隆資が戦死しました。

後光厳天皇の践祚

後村上天皇は北朝の治天の君であった光厳上皇光明上皇崇光上皇、皇太子の直仁親王を南朝の本拠地である賀名生に連れ去りました。

普通で考えれば、北朝は壊滅であり南北朝時代は終わったかに思えたのかも知れません。

しかし、室町幕府では足利義詮佐々木道誉らは北朝の再建に動き出す事になります。

義詮らは光厳天皇の子で、本来なら天皇になる立場ではなかった弥仁王を後光厳天皇として即位させました。

治天の君を光厳天皇の母親である広義門院とし、三種の神器もない状態で無理やり践祚させてしまったわけです。

後村上天皇や南朝の廷臣らは、当然ながら認める事が出来ずに猛抗議しますが、結局は覆りませんでした。

後に後村上天皇は北上の三上皇と直仁親王を河内の金剛寺に移しますが、あとで自らも金剛寺を住まいとした話があります。

光厳天皇や光明上皇、崇光上皇などは金剛寺の敷地内におり、楽器などで競い合った話もあります。

三上皇や直仁親王は足利尊氏が亡くなる頃までには、全て北朝に帰しました。

南朝としては幕府が三上皇及び直仁親王を取り戻そうともせず、人質の役目を果たさず費用ばかりが掛かり、後村上天皇は京都に返したともされています。

室町幕府との戦い

足利直冬大内弘世の助力を得て山名時氏らと共に京都に攻め上る事になります。

足利尊氏は京都を開け足利直冬に取らせた上で、文和東寺合戦に挑みました。

後村上天皇は再び京都を奪還した事になりますが、ここでも短期間で奪い返されています。

1358年に室町幕府では足利尊氏が亡くなり義詮が後継者となりました。

足利義詮が後継者になると細川清氏が執事となり、畠山国清らと共に南朝に攻めて来たわけです。

楠木正儀が敗れるなど南朝は危機に陥りますが、室町幕府内で細川清氏と仁木義長の対立が本格化した事で、むしろ後村上天皇は勢力拡大に繋がったと言えます。

ただし、このタイミングで南朝の内部でも興良親王赤松氏範と乱を起こし、賀名生に侵攻し後村上天皇の行宮を焼くなどしています。

興良親王や赤松氏範は後村上天皇の援軍として現れた二条師基により敗れました。

後村上天皇にとってみれば、苦しい戦いを乗り越えたとも言えます。

後村上天皇は摂津の住吉行宮に移りました。

最後の京都奪還

京都奪還への準備

後村上天皇が幕府との最前線である住吉行宮に行幸したのは、室町幕府から京都を奪う為だと考えられています。

後村上天皇の異母兄である宗良親王は信濃におり、京都奪還への協力を求めました。

さらに、当時は懐良親王が菊池武光の補佐により、筑後川の戦いで勝利し九州を席巻していた時代です。

懐良親王の九州征西府の成功もあり、後村上天皇や南朝の廷臣たちの間では、京都奪還が見えてきたのでしょう。

最後の京都奪還

正平16年(1361年)に室町幕府で居場所を失くした細川清氏が南朝に降ってきました。

細川清氏は後村上天皇に京都への侵攻を進言しています。

後村上天皇は和平派の楠木正儀に直接相談しています。

楠木正儀は「京都を奪還する事は容易いが維持する事は出来ない」と答えました。

太平記では京都に戻りたい公家らの意見が強く、京都への攻撃が決まった事になっています。

楠木正儀の予見した様に京都を占拠する事には成功しましたが、足利義詮の逆襲により短期間で奪い返されました。

四度目の京都奪還が短期間で終わった事で、後村上天皇の時代の京都奪還の夢は潰えたと言えるでしょう。

これが南朝の最後の京都奪還でもあります。

後村上天皇の最後

太平記の39巻で後村上天皇と光厳法皇が対面で様々な話をした記録がありますが、真相は定かではありません。

後村上天皇の晩年は大きな戦争もなく、正平21年(1366年)には楠木正儀を代表にした和平交渉が行われています。

この事は師守記にも書かれており事実なのでしょう。

交渉は翌年にまで持ち越されて、南北朝統一の一歩手前まで行く事になります。

南朝の勅使である葉室光資が京都に入り、ここで交渉がまとまれば南北朝時代が終わった可能性すらあります。

しかし、後村上天皇の綸旨の中に「義詮の『降参』を許す」とする文言が入っており、交渉は決裂しました。

後村上天皇の最後の戦いは室町幕府との交渉でしたが、決裂に終わったと言えるでしょう。

この交渉が決裂に終わった年の暮れに足利義詮が亡くなり、後村上天皇も翌年に崩御しています。

足利義詮と後村上天皇の双方が世を去り、南北朝統一の話は潰えました。

尚、後村上天皇の綸旨の中で「義詮の『降参』を許す」とする文言が入ってしまったのは、既に後村上天皇は体調を崩しており、影響力が著しく低下した為とも考えられています。

後村上天皇の後継者となり践祚する長慶天皇は、徹底した主戦論者であり、主戦派の勢いが増した為ともされています。

後村上天皇が崩御すると、和平派の楠木正儀は細川頼之を頼り、一時的に室町幕府に寝返るなどしています。

同時期に後村上天皇と足利義詮だけではなく、鎌倉公方の足利基氏も亡くなっており、新しい時代に進んだとも言えます。

南朝の政治体制

後村上天皇は後醍醐天皇と同じように、綸旨で武士に対する軍事指揮権と恩賞宛行、守護、地頭の補任を行っています。

北朝では室町幕府が武士たちに指示したり守護の補任、恩賞宛行を行っていましたが、南朝の後村上天皇は綸旨で行いました。

南北朝時代の戦いを見ると、後醍醐天皇が崩御する頃には、北朝が圧倒的に優位という構図が出来上がっていました。

こうした中で、後村上天皇としては南朝を支持する武士たちの心を繋ぎとめる必要があったわけです。

畿内の南朝軍は摂津、和泉、河内、紀伊などの武士によって構成されていましたが、摂津の武士には越中の所領を与え、和泉の武士には三河などの遠隔地の所領を与えた事が、和田文書などから明らかになっています。

しかし、所領を与えても遠隔地であり、当時の武士は自力で実行支配する必要があり、空手形でしかありませんでした。

南朝の苦しい台所事情が分かる話でもあります。

それでも、遠隔地の所領を認める事で、一定の求心力は得たとも考えられています。

後村上天皇の移動距離

後村上天皇は幼くして、北畠顕家と共に陸奥に下向しました。

京都から陸奥まで800キロはあったと考えられています。

北畠顕家は二度の上洛をしており、全て後村上天皇の同道しました。

さらに、践祚し天皇になってからも吉野や賀名生、金剛寺、住吉と行宮を移動しています。

歴代天皇の中で熊野三山の熊野参詣を三十四回も行った白河天皇は総移動距離では歴代一位だと考えられています。

しかし、長距離移動で考えれば、後村上天皇が歴代天皇の中でも一位となるのでしょう。

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