
晋の烈公は春秋戦国時代の晋の君主です。
父親の晋の幽公が殺害されると、魏の文侯に擁立され晋の君主となりました。
晋は烈公の時代に周の威烈王により魏、韓、趙が諸侯として認められています。
しかし、魏の文侯は晋の烈公の権威を利用し続けており、引き続き晋公として奉りました。
晋の烈公が晋君となる
史記によると晋の烈公は、晋の幽公が亡くなると、魏の文侯により擁立されたとあります。
魏の文侯と晋の幽侯は秦の事で、対立していたと考えられています。
晋の烈公は魏の文侯と親しかったのかも知れません。
晋の烈公を擁立した魏の文侯は、晋公の権威をフル活用する事になります。
趙や韓を晋の烈公の権威を使い言うことを聞かせたわけです。
晋の烈公を晋公になった事で、時代は新たなる局面を迎えました。
魏・韓・趙が諸侯となる
晋の烈公の時代に、魏、韓、趙が諸侯となる一大イベントがありました。
魏の文侯は晋の烈公の権威を利用し、趙や韓と共に斉を破りました。
魏の文侯は周の威烈王に働きかけを行い、紀元前403年に魏、韓、趙が諸侯として認められています。
春秋時代と戦国時代の別れ目は、いつなのかも議論はありますが、遅くても晋の烈公の時代である紀元前403年にまでには、戦国時代に突入したとする見解が強いです。
魏、韓、趙は諸侯として認められ、紀元前403年を以て晋の臣下では無くなったとする見解もありますが、魏は晋の烈公の権威を以て勢力拡大をしたわけであり、この流れは続く事になります。
ただし、魏、韓、趙はあくまでも「候」になっただけであり、晋の烈公は「公」の身分になっており、位でいえば晋の方が上だったわけです。
晋の烈公の最後
晋の烈公は史記によれば、その27年に亡くなったと言います。
後継者は子の晋の孝公となりました。
既に魏の文侯は亡くなっており、晋の烈公は魏の武侯の時代に亡くなった事になります。
この頃までには、魏、韓、趙は勢力を拡大しており、三臣を臣下として考えれば、晋は烈公の時代に全盛期に匹敵するほどの領土を得た事になります。
ただし、晋が覇者だった時代と中身は別物だったと言えるでしょう。