
| 名前 | 晋の悼公 |
| 姓・諱 | 姫周 |
| 生没年 | 紀元前586年ー紀元前558年 |
| 在位 | 紀元前573年ー紀元前558年 |
| 時代 | 春秋戦国時代 |
| 一族 | 父:恵伯談 弟:揚干 子:平公 |
| コメント | 晋最後の名君とも呼ばれている |
晋の悼公は春秋時代の晋の君主です。
若くして即位しますが、大規模な会盟を何度も開いており、中原の大部分を支配下に収めました。
晋の悼公の時代が晋覇の全盛期だったと考える専門家もいる状態です。
春秋五覇の一人にも選出される事もあり、晋最後の名君とも呼ばれています。
晋の悼公の子である晋の平公以降は、晋の公室は代を追うごとに弱体化が加速されており、晋の最後の輝きを演出した人物です。
残念な事に、晋の悼公は享年29歳であり、若くして亡くなりました。
晋の悼公の即位
晋の厲公が紀元前573年に、欒書や中行偃により殺害されました。
晋の厲公に子がいたのかは不明ですが、晋の厲公に近い者を即位させてしまえば、欒書や中行偃は危険に晒される可能性が高く、晋の厲公と出来る限り血縁関係が遠い晋の公室の血を引く者が求められたのではないでしょうか。
こうした経緯もあってか、周にいた子周が迎え入れられ、これが晋の悼公です。
史記によると、この時の晋の悼公は14歳だったと伝わっています。
晋の悼公の父は恵伯談であり、祖父が桓叔捷であり、桓叔捷が晋の襄公の子となります。
晋の厲公と晋の悼公は数世代も離れており、ここまで離れれば赤の他人とも呼べるレベルだった事でしょう。
晋の悼公は晋公となると、次の様に述べています。
※史記晋世家より
晋の悼公「祖父も父も国君として立てず、難を避けて周に行きましたが客死してしまった。
私自身が晋とは疎遠だと考えており、国君になれるとは思ってもみなかった。
しかし、大夫たちは文公・襄公の御心を忘れず、桓叔捷の子孫である私を立ててくれた。
私は宗廟や大夫の威霊により、晋の祭祀を行う事が出来る様になった。
戦々恐々として、恐れ慎まずにはいられない。
大夫たちよ。私をしっかりと補佐して貰いたい」
晋の悼公は臣道を守らぬ者7人を放逐し、先代の功業を修め民には徳と恩恵を施したとあります。
さらに、晋の文公が入国した時の功臣の子孫を表彰しました。
個人的に思うのは、臣道を守らず追放された者は、晋の厲公が取り立てた者であり、晋の文公に従って大夫になった者達を重用したという事なのでしょう。
実際に春秋左氏伝には魏相、士魴、魏頡、趙武らを卿に任命し、荀家、荀会、欒黶、韓無忌を公族大夫とし、士渥濁を太傅とし、右行辛を司空に任命しました。
他にも、魏絳を司馬に任命するなどしています。
尚、春秋左氏伝によると、晋の悼公には兄が一人いたが、菽(まめ)と麦の見分けもつかず、愚かだったので国君にはなれなかったとあります。
この年に、楚の子重が宋に侵攻し華元が晋に救援要請に来ました。
韓厥の言葉もあり、晋の悼公は兵を出し台谷に出陣すると、楚の軍は撤退しています。
宋の彭城を攻撃
紀元前572年に晋の悼公は欒黶に命じて、諸侯の軍と共に宋の彭城を囲みました。
晋軍には宋の華元、衛の甯殖、宋、莒、邾、滕、薛の軍が合流する事になります。
晋の悼公は宋を攻撃したわけではなく、宋の中でも楚に与する魚石らが籠る彭城を討伐したという事です。
彭城は陥落し、宋の五人の大夫が晋に送られました。
晋の悼公は連合に参加しなかった斉を責めると、斉の霊公は太子を人質として送ってきました。
同年に晋は韓厥と中行偃が諸侯の軍と共に鄭に侵攻し、晋軍は陳にまで達したとあります。
この時に晋の悼公と衛の献公は、戚に駐屯し、後方部隊を指揮した話があります。
戚の会盟
紀元前571年に晋の悼公は荀罃に命じ、諸侯との戚の会を開いています。
戚の会には魯の仲孫蔑・宋の華元、衛の孫林父、曹、邾などの国々が集まりました。
戚では同盟から離脱している鄭を服従させる為の相談をしています。
この時の荀罃は威圧的な言葉を諸侯に対して投げかけ、斉が参加する様にと晋の悼公に依頼しました。
晋の悼公が斉に呼び掛けると、斉の崔杼や滕、薛、小邾なども会盟に参加する事になります。
さらに、虎牢に城を築くと鄭も和議に応じました。
晋の悼公の晋覇は順調に行ったと言ってもよいでしょう。
中原の大部分を支配下に置く
紀元前570年に晋の悼公は鶏沢で、諸侯を集め会盟を主催しました。
鶏沢の会では晋の悼公が自ら出席し、単の頃公・魯の襄公・宋の平公・衛の献公・鄭の釐公・莒の君・邾の君・斉の世子光と会合を行っています。
晋の悼公は楚を牽制する為に、呉との友好を固めようとし、諸侯を招集しました。
さらに、范宣子を斉に派遣し「協力せぬ者の処置」の話をすると、斉の霊公は嫌々ではありましたが、晋を怖れ盟約を結ぶ事になります。
陳の成公も袁僑を派遣し、陳も服従させる事に成功しました。
この時点で晋の悼公は斉も下しており、中原の大部分を支配下に置いたとみる事も出来ます。
尚、紀元前570年に晋の悼公は呉王寿夢に使者を派遣し、淮水にまで迎えに行かせますが、寿夢はやって来なかった話があります。
それでも、紀元前568年に寿夢は寿越を使者として晋に派遣し、鶏沢の会に参加出来なかった事を侘び、諸侯との友好を求めました。
因みに、小国の許の霊公は鶏沢の会盟に参加しておらず、晋の荀罃の攻撃を受ける事になります。
晋の悼公は春秋五覇の一人に数えられる事もありますが、この時点でかなり大きな権勢を持っていた事も分かるはずです。
この年に中軍の尉である祁奚が引退を願い出て、晋の悼公が後任を訪ねると仇敵である解狐を褒めて推薦し、驚かせた話があります。
晋の悼公と魏絳
晋の悼公の弟の揚干が曲梁で隊列を乱すトラブルがありました。
中軍司馬の魏絳は揚干の御者を、軍法により処刑しました。
これに怒ったのが晋の悼公であり、羊舌赤に「魏絳を処刑する」と怒りますが、魏絳は自ら出頭してきたわけです。
魏絳は上書を渡し自害しようとしますが、士魴と張老が止めました。
逆に晋の悼公は魏絳の能力を認める事になり、重用する事になります。
晋の悼公は魏絳を新軍の佐としました。
陳を救う
紀元前568年に晋の悼公は戚で会盟を主催しました。
戚の会では魯の襄公・宋の平公・陳の哀公・衛の献公・鄭の釐公・曹の成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・斉の世子光・呉人らが集まる事になります。
同年に、戚の会で集まった諸侯の大半は、楚に攻められた陳の救援をする事になります。
ただし、范宣子は楚に隣接する陳を救う難しさも語りました。
紀元前566年に陳が楚に攻められ、晋の悼公は鄬で会盟を開きますが、陳の哀公も参加しましたが、楚が本国の陳で別の者を立てようとしたとする情報をキャッチし、陳の哀公は急いで本国に逃げ帰った話も残っています。
邢丘で会
紀元前565年に晋の悼公は邢丘で会盟を開きました。
この時の晋の悼公は鄭の簡公・斉の高厚・魯の季孫宿・宋の向戌・衛の甯殖、邾人らと会盟を行っています。
主に諸侯の大夫たちとの会合でしたが、晋への貢納品の数を決め、諸侯の大夫らは命令に従いました。
鄭を攻撃
紀元前564年に晋の悼公は魯の襄公・宋の平公・衛の献公・曹の成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞の君・小邾の君・斉の世子光らが鄭を攻撃しました。
晋と諸侯の軍の圧倒的な強さを目の当たりにした、鄭は和議を求めて来ました。
中行偃は鄭の包囲を続け援軍に来る楚との決戦を主張しますが、智罃は撤退を主張し、諸侯の多くも智罃を支持した事で晋軍は撤退に移る事になります。
晋の悼公も含めて晋が兵を繰り出すのは、鄭までであり、鄭を超えて楚と戦う事は殆どありません。
鄭までが晋の防衛ラインなのでしょう。
尚、この後に楚の共王が鄭に侵攻すると、鄭は呆気なく楚に降伏しました。
紀元前562年に晋の悼公は諸侯の軍と共に再び鄭に侵攻すると、鄭は晋に服従する事になります。
因みに、紀元前564年に楚に協力した秦が晋に攻撃しますが、晋では飢饉もあり反撃出来なかった話があります。
それでも、紀元前593年に智罃が秦に報復戦争を行いました。
晋の悼公の経済政策
春秋左氏伝の魯の襄公の9年(紀元前594年)の記述で、晋の悼公は帰国すると、民を休養させる方策を相談したとあります。
魏絳は民に施すために、余剰財貨を持ち出して貸して欲しいと請いました。
晋の悼公や大臣らは余剰財貨を放出し、国内で滞貨が無くなり、困窮者がいなくなったとあります。
晋の公室は民の営利を制限せず、利を貪る民もいなくなったと言います。
祈祷には犠牲の代わりに皮幣を使い、賓客の接待には一種類の家畜だけとし、器具類は新品を作らず、車馬・服飾は最低限のものにしました。
これらの経済政策を見ると、晋の国内はインフレ状態であり、晋の公室が質素倹約する事で、民に物資が行くようにしたのでしょう。
晋の悼公と魏絳の経済政策を1年間実行すると、国に節度が生じ、楚は三度出兵しても、晋に対抗出来なかったと言います。
話が出来過ぎていると思うかも知れませんが、春秋左氏伝に書かれている晋の悼公による経済政策となります。
晋と呉の同盟
紀元前563年に晋の悼公は多くの諸侯を集め柤で会合を行いました。
柤の会の目的は呉王寿夢との会見が目的だった様です。
晋の悼公にとっても、遠交近攻の策が取れる呉との盟約は双方に利益があり、望んでいた事でもあったのでしょう。
この時に晋の悼公は向に諸侯を集め呉も来訪しています。
晋の悼公は呉の人の為に楚を攻撃する相談をしたのですが、呉の諸樊が楚の喪中を狙って攻撃した事で、范宣子が呉を拒絶した話があります。
晋と呉は同盟国ではありますが、全てが上手く機能していたわけでもない様です。
晋の悼公の最後
紀元前558年に魯と邾で紛争が起きた事で、晋に報告しました。
この時に会盟を開こうとしますが、晋の悼公が病気であり、会合は開かれなく事になります。
この年に晋の悼公は亡くなりました。
春秋では「晋公周卒す」と記録されています。
春秋左氏伝では鄭の公孫夏と公孫蠆が葬儀に参列したとあります。
翌年に晋の悼公の葬儀は行われました。
晋の悼公が亡くなった事で、晋の平公が即位する事になります。
晋の悼公は大規模な会盟を何度も開き覇者として相応しい人物ではありましたが、国内では大夫の勢力伸長を抑える事が出来なかったとも考えられています。
晋の平公の時代から、覇者体制の矛盾も出る様になり、晋の公室は弱体化に向かいました。
それでも、晋の悼公は中原の大部分を自らの同盟下に収めており、晋覇の最盛期を築き上げた名君だと言えるでしょう。
| 先代:厲公 | 悼公 | 次代:平公 |