
衛の声公は春秋戦国時代の衛の君主です。
衛の慎公の後継者であり、即位すると同時に攻撃を仕掛けられました。
衛の声公は魏に援軍要請を行い斉の加勢もあり、勢いを得た衛軍は趙の剛平や中牟を陥落させています。
衛の声公を見る限りでは、衛の最後の輝きと呼べる程の武功を挙げたと言えるでしょう。
尚、衛の声公は衛が「公」を名乗った最後の君主でもあります。
後継者の衛の成侯は「侯」であり、自ら位を格下げしました。
史記の衛の声公
史記の衛康叔世家の衛の声公の記録は、かなりシンプルだと言えます。
衛康叔世家によると、衛の声公は名前が訓であり、衛の慎公が亡くなると即位しました。
しかし、衛の声公は、その11年に亡くなり、子の衛の成侯が立ったとあります。
衛の声公は紀元前372年に亡くなったのでしょう。
衛康叔世家から分かる事は、即位した年と没年、後継者が成侯という事位しか分かっていません。
衛の声公と激闘
趙に急襲される
戦国策の斉策で蘇秦が斉の湣王の前で、弁舌を繰り広げるシーンがあります。
蘇秦は斉の湣王に投げた言葉の中に、衛の声公だと思われる部分があり紹介します。
紀元前383年に趙が衛を襲撃しました。
この年に衛の慎公が亡くなっており、喪中の隙を突いて趙の敬侯は衛に進撃命令を出したのでしょう。
趙は諸侯として認められてはいましたが、晋の配下でもあり、紀元前407年に衛・晋同盟が確認されており、同盟を一方的に破棄し衛に進撃した事になります。
趙の敬侯としては、同盟の当事者である衛の慎公が亡くなった事で、同盟関係が終わったと勝手に解釈したのかも知れません。
趙は剛平に築城し、衛の首都濮陽を攻撃しました。
趙軍の電撃作戦の前に、衛の声公は臨戦態勢が取れていなかった様で、裸足で飛び出した話まである程です。
趙の急襲の前に衛は大敗北を喫し、国家が存亡の危機に立たされたと言えます。
衛の声公の逆襲
当時の覇権国は魏であり、晋の孝公を立て覇者体制を布いていました。
趙の衛への襲撃は、魏としてみれば、魏の覇者体制への挑戦とも見られたわけです。
衛の声公の要請により、当時の天下の最強国である魏が動き出しました。
魏の武侯は鎧に身を固め剣を研ぎ、趙に戦いを挑んだ話もあり、気合十分でもあったとみる事が出来ます。
さらに、斉も趙の拡大を嫌い魏や衛に味方する事になります。
魏の参戦により趙の邯鄲は混乱し、衛は息を吹き返しました。
衛の声公は残軍を集め、趙の剛平に向かい陥落させる事になります。
衛軍は黄河も渡り、趙の旧都である中牟も攻略してしまいました。
衛軍は大戦果を挙げたと言えるでしょう。
衛の声公の時代の奮戦は、衛最後の輝きと言っても良い程の戦いぶりだと感じました。
衛が大戦果を挙げた理由
声公の時代の衛は、決して強国とは言えません。
名目上とはいえ、晋の配下となっている趙、魏、韓よりも国力は下だった事でしょう。
蘇秦は独自に衛の声公が何故戦果を挙げる事が出来るのか、独自に分析し斉の湣王に告げた言葉があり紹介します。
蘇秦は衛が勝利した理由は決して、国力が趙に勝っていたわけではないとしました。
当時の衛は矢であり、魏は弓や弩だったと言います。
つまり、強力な弓や弩を手に入れた事で、衛は強くなったと蘇秦は考えたのでしょう。
衛軍は剛平を陥落させましたが、これも魏や趙が望んだ事ではなく「他力」に頼ったからだとしました。
衛は魏の力を頼り、勢いがつき趙の剛平や中牟を陥落させる事が出来たとしたのでしょう。
後に衛は中牟を取られる事になってしまいますが、衛の声公の奮戦は「衛最後の輝き」といっても、差し支えないはずです。
| 先代:慎公 | 声公 | 成侯 |