
| 名前 | 趙の敬侯 |
| 姓・諱 | 趙章 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前375年 |
| 在位 | 紀元前387年ー紀元前375年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:烈侯 子:成侯 |
| コメント | 邯鄲に遷都した。 |
趙の首都と言えば「邯鄲」というイメージも強いですが、趙が邯鄲に遷都したのは、趙の敬侯の時代です。
趙の敬侯は公子朝の乱が起きてから魏と対立し、斉と合わせて一進一退の攻防を行いました。
さらに、中山国と戦った事も分かっており、連年の様に戦いに明け暮れた時代を生きたと言えるでしょう。
史記の趙世家を見ても、趙の敬侯の個人的な逸話は書かれておらず、戦いの記録が延々と続く事になります。
尚、史記の趙世家によると、趙の敬侯の時代に、趙、魏、韓で晋の公室の領土を分けた話がありますが、個人的には間違いだと感じています。
趙の敬侯の即位
紀元前387年に趙の武侯が亡くなり、趙の敬侯が即位する事になります。
趙の武侯は父親の烈侯の兄弟でしたが、太子の敬侯が即位せず、叔父の武侯が君主になっていました。
趙の武侯が亡くなると、太子だった趙の敬侯が即位する事になったわけです
しかし、趙の武侯の子である公子朝にしてみれば不満だったと考える事が出来ます。
邯鄲に遷都
趙は中牟を本拠地としていましたが、中牟の南北には朝歌と鄴があり、魏に邑が挟まれた状態でした。
魏の鄴の北には邯鄲があり、邯鄲を本拠地にした方が安全だと考えたのでしょう。
それと同時に、魏は飛び地の領地である中山が北にありましたが、趙は邯鄲を本拠地にする事で、牽制する狙いもあったと考える事が出来ます。
趙の敬侯の時代に首都になった邯鄲は、趙の首都で長らくあり続けました。
公子朝の乱
紀元前386年に公子朝が乱を起こしました。
公子朝は趙の武侯の子だと考えられています。
趙の敬侯は公子朝を破り、公子朝は魏に出奔する事になります。
公子朝が魏に出奔している事から、公子朝の背後には魏がいたと考えられています。
当時の魏の君主である魏の武侯としては、公子朝に趙の君主になって貰い友好を固めたかったというのが実情なのでしょう。
ただし、公子朝は敗れ魏に出奔した事で、趙と魏の仲は悪化した事でしょう。
趙の武侯の時代に魏と斉が和睦した事で、斉という共通の敵もいなくなり、趙、魏、韓は団結力を欠く様になっていきます。
趙の敬侯の戦いは続く
趙の敬侯と魏の武侯の関係は悪化していましたが、斉が魯に侵攻した事で関係が改善に向かいました。
趙は紀元前385年に趙は斉を霊丘で破り、紀元前384年には魏を廩丘で救い、斉の軍を大いに破る事になります。
趙の敬侯と魏の武侯の仲は改善されたかに見えましたが、直ぐに仲違いし趙が魏を兔台で破りました。
さらに、紀元前383年には趙の敬侯は剛平に築城し、衛への侵攻を始める事になります。
紀元前383年に衛の慎公が亡くなっており、喪中を狙って攻めたのでしょう。
この時の趙軍は電光石火の攻撃だったのか、衛の声公は対処する事が出来ず、大打撃を蒙りますが、魏の武侯に助けを求めました。
魏の武侯の参戦により、衛軍は盛り返し、趙の旧都・中牟をも陥落させる程の勢いを見せる事になります。
趙は楚の力を借りて巻き返し、魏の棘蒲を陥落させました。
紀元前379年に趙の敬侯は衛へ軍を進めましたが、斉が衛への援軍となり、紀元前378年に斉が燕を攻めると、趙は燕を救援しています。
中山の独立
史記の趙世家に趙の敬侯の11年に、趙が中山を討ち、その邑の中人で戦ったとする記録があります。
これが紀元前377年から376年頃であり、趙は中山と戦った事になるのでしょう。
中山国は魏の飛び地だったわけですが、中山桓公が魏から独立し、趙の軍と戦った事になっています。
趙は中原の衛を狙っていましたが、ここに来て中山国を攻めるという選択肢も増えた事になります。
趙の敬侯の最後
史記によると、趙の敬侯はその12年に没したとあります。
西暦にすると、紀元前375年に趙の敬侯は世を去った事になるのでしょう。
趙の敬侯が亡くなると、趙の成侯が趙の当主となりました。
| 先代:武侯 | 敬侯 | 次代:成侯 |