
韓の景侯が亡くなると即位しますが、鄭や楚、秦と戦った記録があります。
秦には宜陽の6邑を取られますが、鄭や楚との戦いでは、負黍を再び手にするなど有利に戦いを進めました。
尚、史記の刺客列伝で聶政が侠累を刺殺した事件を起こした話がありますが、韓の烈侯の時代の話となります。
鄭との戦い
紀元前400年に韓の景侯が亡くなると、韓の烈侯が即位しますが、この年に鄭により本拠地の陽翟が包囲されました。
こうした事情から、陽翟籠城戦の指揮を執ったのが、韓の烈侯の可能性もあるはずです。
陽翟籠城戦では鄭は楚の援助を受けていたと考えられますが、韓は鄭を退ける事に成功したのでしょう。
ただし、同年に三晋が楚に攻勢を仕掛け乗丘まで行った話があり、太子だった韓の烈侯は、三晋連合の韓軍を指揮していたとも感じています。
史記の楚世家に楚の悼王の4年に楚が周を討ち、鄭が宰相の子陽を殺害した記述があります。
楚が周を討ち鄭の宰相の子陽が殺害される理由は不明ですが、鄭の宰相の子陽は親韓派であり、韓の烈侯と和議を望んでおり、殺害されたとも考えられています。
楚が討ったのは周(東周王朝)ではなく、鄭だったのではないか?とする説も存在している状態です。
この頃の韓は鄭の領地の奪取を狙い、鄭を支援する楚とも対立していたのでしょう。
聶政による侠累刺殺事件
史記の韓世家によると、韓の烈侯の3年(紀元前397年)に、聶政が韓の宰相の侠累を殺害したとあります。
聶政の裏にいたのは、厳仲子であり、聶政を手厚くもてなし刺客としたわけです。
聶政の話は史記の刺客列伝に掲載されており、多くの者が涙した話でもあります。
ただし、侠累刺殺事件に対し、韓の烈侯がどの様な対処を行ったのかは記録がなく分かっていません。
紀元前391年の戦い
史記の鄭世家の鄭君乙の2年(紀元前394年)に、負黍が叛いて韓に復帰したとあります。
韓世家には書かれていませんが、韓は負黍を手に入れた事になります。
しかし、楚世家には、楚の悼王の9年(紀元前393年)に、楚が韓を討ち負黍を取ったとあります。
負黍が韓のものになって危機感を抱いた楚は、負黍を攻略してしまったのでしょう。
楚世家によると、紀元前391年に三晋が楚を攻撃した話があり、晋の正卿である魏の武侯が中心となり、韓の烈侯や趙の武公も協力して楚を討ったのでしょう。
三晋連合は勝利し、太梁を取るなど黄河南岸から駆逐する大勝利を得ています。
しかし、史記の韓世家には韓の烈侯の9年(紀元前391年)に、秦が韓の宜陽を討ち6邑を取ったとあります。
紀元前391年は楚に対しては戦果を挙げましたが、秦には敗れてしまったと言えそうです。
この後に、秦は数年に渡り魏と交戦した記録がありますが、韓と交戦した記録はありません。
韓の烈侯の最後
史記の韓世家によると、韓の烈侯はその13年に亡くなったと記録があります。
韓の烈侯は紀元前387年に世を去ったのでしょう。
韓の烈侯が亡くなると、子の韓の文侯が立ちました。
韓の烈侯は亡くなった事しか書かれておらず、最後の描写は不明です。
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