春秋戦国時代

州吁は父からの寵愛を受けたが人望は無かった

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宮下悠史

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名前州吁(しゅうく)
生年不明
在位719年
一族父:荘公、兄:桓公
コメント栄養は与えすぎれば枯れるの典型的な人物

州吁は衛の荘公の子であり、父からの寵愛を受けました。

兵戦を好んだとあり、覇気が溢れる様な人物だったのかも知れません。

父親の荘公からは寵愛されましたが、兄の衛の桓公が立つと冷遇される事になり、出奔しました。

州吁は似た様な境遇にあった鄭の共叔段と繋がる事になります。

後に乱を起こして衛の桓公を誅しますが、大夫や民の支持を得る事が出来ず、石碏の意向もあり濮で命を落としました。

父からの寵愛

衛の荘公には斉から嫁いだ荘姜がいましたが、子が誕生せず陳から来た厲媯と戴媯が子を生みました。

厲媯の子の孝伯は夭折しましたが、衛の荘公は戴媯の生んだ姫完を太子としました。

しかし、衛の荘公は別の妾が生んだ州吁を寵愛する事になります。

史記や春秋左氏伝には寵愛の具体的な内容は書かれていませんが、太子である姫完なみの待遇をしたのではないでしょうか。

後に石碏が諫める辺りは、衛の荘公が州吁に対し、度を越えた寵愛を示したとみる事が出来ます。

州吁自身も自分と太子の違いが分かる分別のある人であれば、問題なかったわけですが、州吁の自尊心は高まり後に暴走する事になります。

父からの寵愛という栄養が多すぎて、州吁は根が腐ってしまったとみる事も出来るはずです。

兵戦を好む

州吁は成人すると、兵戦を好んだとあります。

州吁は利発的な子でもあり、武事を好むところも衛の荘公に重用される原因だったのかも知れません。

衛の荘公は州吁を将軍としました。

ここで、衛の上卿である石碏が衛の荘公を次の様に諫めました。

※史記 衛康叔世家より

石碏「庶子の州吁は兵戦を好み、それが理由で将軍となりました。

禍はここから起きる事になりましょう」

石碏は州吁の性格や衛の荘公の寵愛の多さを危惧し、衛の混乱を予見しました。

尚、春秋左氏伝では別の言葉で石碏は衛の荘公を諫めており、こちらは石碏の記事で紹介してあります。

石碏は州吁を危険人物としていましたが、子の石厚は逆に州吁に接近しました。

衛を出奔

衛の荘公が亡くなると、衛の桓公が即位しました。

兄の衛の桓公は州吁に対し、父親程の厚遇をせず、州吁は不満を募らせる事になります。

衛の桓公は州吁を遠ざけました。

兄の仕打ちに州吁は自尊心を傷つけられ、紀元前733年に出奔し衛を出ました。

出奔した州吁は鄭を出奔した共叔段と繋がる事になります。

共叔段も母親の武姜からの過度な寵愛を受けており、鄭の荘公に敗れて出奔しており、似た境遇の者同士が繋がったと言えます。

衛の君主となり鄭を攻撃

州吁は衛にいられなくなった者達を集結させ、衛の桓公を殺害し自ら衛の君主となります。

史記によると、衛の君主になった州吁は共叔段の為に鄭を討とうと考え、宋、陳、蔡と連合しようと画策しました。

州吁は宋の殤公に、次の様に通達しました。

※春秋左氏伝より

州吁「鄭を攻撃し貴君の害(公子馮)を除く気持ちがあるなら、貴君の為に我が国から兵車を出します。

陳や蔡もお供する事になるでしょう。

これこそが衛の望みでもあります」

宋では先君の子である公子馮が鄭におり、州吁は宋の殤公の不安に付け込み仲間にしたと言えます。

春秋左氏伝には州吁が先君である衛の桓公の恨みを晴らすと称し、鄭を攻撃した話なども記述されていますが、衛の桓公を殺害したのは、州吁自身であり、片腹痛いような状態でもありました。

州吁が国内からの支持を得ようとして、鄭を攻撃したともあります。

それでも、州吁は衛、宋、陳、蔡の連合軍を組織し、鄭の東門を五日に渡って攻撃し、引き上げたとあります。

同年に再び連合軍は鄭を攻撃し、鄭を破り穀物を刈り取り引き上げる戦果を挙げました。

支持されない州吁

州吁は衛の君主になってから、積極的に動いていましたが、魯の隠公が衆仲に州吁の事を訪ねると「禍を逃れる事が出来ない」と不吉な予言をした話が残っています。

史記の衛康叔世家には「州吁は兵戦を好み衛の桓公を弑した事で、衛の人々には誰からも愛されていなかった」とあります。

州吁は父親からの愛は多く受けましたが、民からの愛は受けられなかったと言えます。

春秋左氏伝にも「州吁は民を安定させる事が出来なかった」とあり、衛の君主になってから国民に全く支持されていないのが分かるはずです。

州吁の政権は1年を待たずして、苦境に立たされる事になります。

州吁の最後

州吁の配下である石厚が父親の石碏に「政権を安定させるにはどうすればいいのか」と問いました。

石碏は陳の桓公を通じて、周王に朝見すればよいと答えました。

この時の周王は周の桓王であり、石碏は「州吁が周の桓王に朝見すれば政権は安定する」と述べた事になるでしょう。

州吁と石厚は陳に向かいますが、石碏は州吁を快く思ってはおらず、陳の桓公と結託し州吁と石厚を捕らえました。

衛では右宰の醜を派遣し、州吁を濮で殺害したとあります。

石厚も石碏が派遣した獳羊肩により命を落とす事になります。

衛では衛の宣公を立てました。

多くの人が衛の宣公を支持した話があり、州吁の人気の無さが分かる話でもあります。

州吁の政権は1年も持ちませんでした。

先代:桓公州吁次代:宣公

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