
| 名前 | 宋の宣公 |
| 姓・諱 | 子力 |
| 生年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前748年ー紀元前729年 |
| 時代 | 春秋時代 |
| 一族 | 父:武公 弟:穆公 子:殤公 |
| コメント | 弟を後継者に指名した |
宋の宣公は春秋戦国時代の宋の君主です。
自らの後継者に子の与夷ではなく、弟の子和を後継者に指名しました。
宋の宣公は余命が尽きる直前で太子を与夷ではなく、弟の子和(宋の穆公)に変えたとも言えます。
宋の穆公が立ちますが、亡くなる時に後継者を我が子の公子馮ではなく、与夷(殤公)を指名しました。
弟を穆公として即位させ、子も殤公として即位した事で、君子らは宋の宣公は褒め称えています。
宋の宣公の後継者
宋の宣公は父の宋の武公の後継者として、即位しました。
史記には宋の宣公の実績については特に記録もなく、いきなり即位19年目の話となります。
宋の宣公には与夷という太子がいましたが、病になると弟の子和を後継者にしようとしました。
宋の宣公は「父が死ねば子が後継者として立ち、兄が亡くなれば弟が立つのが天下の通義である」と述べると、子和を後継者として指名する事になります。
子和は3度辞退し漸く引き受ける事になりました。
史記には、宋の宣公がわざわざ弟を後継者に指名した理由は書かれておらず不明ですが、与夷が若年だったなどの理由があったのかもしません。
他にも、宋は殷の後継国でもあり、殷は兄弟相続が多かった事で、これに倣った可能性もあります。
宋の宣公は何かしら理由で、子和を後継者にした方が宋は上手く回ると考えたのでしょう。
宋の宣公と君子の評価
宋の宣公の後継者として、宋の穆公が立ちますが、亡くなる時に孔父嘉を呼び寄せました。
宋の穆公は宋の宣公の恩を忘れておらず、甥の与夷を立てる事になります。
宋の宣公の子の与夷は宋の殤公として立ちました。
春秋左氏伝には、君子の評が掲載されており、次のように記録しています。
※春秋左氏伝より
宋の宣公は人をよく知っていると言えるだろう。
弟の穆公を立てた後に、我が子の与夷に位が回ってきたのは、義にかなった遺命であったからだ。
詩の商ショウに「殷は命を受けることみな宜しく、百禄を荷う」とあるのは、この事であろうか。
春秋左氏伝の君子は宋の宣公を高く評価したと言えるでしょう。
ただし、宋の穆公の後継者になった宋の殤公と公子馮の対立もあり、全てがうまく言ったわけでも無さそうです。