
紀国は春秋時代に存在した小国です。
姜姓の国であり、殷の時代から存在したのではないかと考えられています。
ただし、紀は東方の小国であり、情報は少ないと言えます。
春秋時代に入ると、斉に圧迫される様になり、紀侯が斉に降伏していた弟の紀季に国を譲った事で滅亡しました。
紀国は斉によって、滅亡したと言えるでしょう。
夷を攻撃
紀元前722年8月に、春秋左氏伝に紀に関する次の記述が存在します。
※春秋左氏伝より
紀の人が夷を攻めたが、夷からの通告がなく、記録されていない。
春秋左氏伝の伝文に書かれている記述ではありますが、春秋には記載されていない事から、このような記述になったという事なのでしょう。
紀に比べると夷は小国だと考えられており、紀国が周辺国の夷を攻撃した事になります。
夷に関しては、介国の事だったのではないか?とする説もある様です。
斉と莒を仲介
春秋左氏伝の魯の隠公の2年(紀元前721年)に、魯に紀の裂繻が来た話があります。
裂繻は紀の君主の為に、魯の公女を夫人として迎える為に来たわけです。
魯の伯姫は紀に嫁ぎました。
この頃の斉と紀の仲は良好だった様であり、裂繻は莒の君主と密の盟を結びますが、狙いは魯と莒を仲介しようとした為です。
斉も莒も紀の隣国であり、気を遣う存在である事が分かる記述でもあります。
春秋によると紀元前716年に魯の叔姫が紀に嫁いだ記述もあり、魯と紀の友好関係は継続したのでしょう。
尚、紀元前715年に魯と莒が浮来で会見を行い、紀との友好関係を見出そうとした話もあります。
魯との戦い
春秋左氏伝によると、紀元前710年に紀が魯に来朝したとあります。
しかし、この時の紀侯の態度が問題となり、魯では紀を攻める為の準備を始める事になります。
同年に魯が紀を攻める事になりますが、紀の不敬を咎める為だったとあります。
紀元前709年に紀は魯に和議を求め、成で魯の桓公と会合を行っており、講和が成立したのでしょう。
紀に斉と鄭が朝見
紀元前707年の夏に斉の僖公と鄭の荘公が紀に朝見したとあります。
この記述を見ると、斉と鄭が紀に友好を示した様にも見えますが、春秋左氏伝には「紀の襲撃を企てた」とあり、敵情視察の為に紀を訪れたとみる事が出来ます。
この時の斉の僖公や鄭の荘公の態度が何処かおかしかったのか、紀では斉や鄭の陰謀を察知しました。
しかし、鄭や斉は直ぐに紀を攻める事はしなかったわけです。
同年に東周王朝の周の桓王と鄭の荘公の対立が頂点に達し、繻葛の戦いが勃発しており、紀への遠征は後回しにされたと考える事が出来ます。
斉の危機が迫る
春秋左氏伝によると紀元前706年に、成で紀侯と魯の桓公が会見を行った話があります。
春秋左氏伝には伝文が伝わっており、紀国が斉に狙われており、相談に来たとあります。
紀としては隣国の斉のプレッシャーもあり、魯に友好を求めたのでしょう。
この頃の斉と魯の関係は良好であり、紀侯は魯を通じて斉との講和を願ったのかも知れません。
同年の冬に紀侯が魯にやってきて、王命を受けて斉と和議を結びたいと魯の桓公に伝えた話があります。
しかし、魯の桓公の反応は渋く「それは、出来ない」と断りました。
紀の方では魯の助けを得られず、斉の圧力により危機的な状況になって行ったのでしょう。
季姜が周の桓王に嫁ぐ
春秋左氏伝に紀元前704年に、周の祭公が魯にやってきて、この後に紀に向かった話があります。
周の桓王は紀から王后を娶る為に、祭公を派遣した事になります。
君子も周が紀に王后を迎えに行ったのは、礼に合していると述べています。
紀元前703年には紀の公女である季姜が王都に嫁いだとあり、紀の公女である季姜が周の桓王の后になった事を指すのでしょう。
春秋左氏伝には紀出身の季姜が周王に嫁いだ事しか書かれていませんが、実際には斉に紀は圧迫されており、周の桓王に公女を嫁がせる事で、東周王朝との関係を深め、斉の圧迫から逃れようとしたのではないでしょうか。
紀の滅亡
紀元前697年に周の桓王が亡くなっています。
紀の公女である季姜が嫁いだ周の桓王が世を去ったのは、紀にとって不吉な出来事でもあった事でしょう。
周の荘王が即位しますが、周公黒肩による荘王排斥事件が起きています。
周公黒肩の王子克を擁立する計画は失敗に終わり、周公黒肩は紀元前694年に世を去りました。
こうした事情もあってか、周の桓王が葬られたのは、紀元前691年の事となります。
同年に紀侯の弟である紀季が郱の邑と共に斉に降伏しました。
春秋左氏伝には「紀は二つに分裂した」とあります。
紀侯も斉に服属しようとしますが許されず、国を弟の紀季に譲ったとあります。
春秋には「紀侯、その国を大去す」とあり、斉からの禍を避けたという事になっています。
既に弟の紀季は斉に服属しており、紀元前697年に紀は滅亡しました。