
| 名前 | トトメス1世 |
| 時代 | エジプト文明 |
| 王朝 | エジプト第18王朝 |
| 一族 | 父:不明 母:セニネプ 子:トトメス2世、ハトシェプスト |
| コメント | エジプト新王国の征服王?? |
トトメス1世はエジプト新王朝時代の人物です。
エジプト第18王朝の三代目ファラオでもあります。
トトメス1世は南方のヌビアや西アジアでの遠征に成功しており、エジプトの武威を多く見せつけています。
一般的には、エジプト第18王朝のトトメス3世が最大版図を築いたと言われていますが、一部の専門家の中にはトトメス1世の時代がエジプト新王国の最大版図だったのではないかと考えられているようです。
尚、エジプトの女王として有名なハトシェプストは、トトメス3世の娘でもあります。
トメス1世の即位
トトメス1世はアメンホテプ1世の後継者としてファラオになりますが、出生が明らかではありません。
トトメス1世の母親がセニネプという女性であることは分かっているものの、父親については記録が残されておらず、不明のままとなっています。
母セニネプがアメンホテプ1世の親族であったため、トトメス1世がファラオになれたのではないかとも考えられています。
エジプトの王朝は男系が途切れた時点で次の王朝に移行することが多いのですが、トトメス1世が即位してもエジプト第18王朝は継続していました。
そのため、トトメス1世も男系で王族とつながっていた可能性があります。
第18王朝では近親婚が盛んであったことから、血統が複雑に入り組んでおり、男系のつながりが記録に残らなかったとしても不思議ではありません。
エジプト第18王朝は前半で「トトメス」という名の王が続くため、「トトメス朝」とも呼ばれています。
トトメス朝の時代にエジプトは領土を大きく拡げ、世界帝国を築いく事になります。
トトメス1世の南北遠征
トトメス1世はアメンホテプ1世の拡大路線を引き継ぎ、南のヌビアに遠征を行っています。
第3カタラクトまでを占拠しますが、それでは飽き足らず、さらに東の砂漠を南下して軍を進めました。
第3カタラクトは、ヌビアのクシュ王国の首都から30キロほどの場所です。
トトメス1世は、第4,第5カタラクトにまで石碑を残しており、ヌビア支配を確立しています。
この時代に、シリアではミタンニ王国が台頭し、急速に勢力を拡大していました。
ミタンニは強力な戦車部隊を保有しており、その軍事力を背景に周辺地域への影響力を強めていきました。
トトメス1世はそのミタンニがあるシリアにも遠征を行い、カルケミシュに石碑を立てています。
カルケミシュといえば、アナトリア半島の付け根に位置する都市であり、そこまで遠征したという事実から、トトメス1世が非常に広範囲にわたる軍事行動を行ったことが分かります。
エジプト新王国の征服者といえば、多くの人はトトメス3世を思い浮かべるのではないでしょうか。
トトメス3世は「エジプトのナポレオン」とも呼ばれ、メギドの戦いを始め数多くの遠征と勝利で知られています。
しかし、一部の考古学者の間では、真の“征服王”はトトメス1世であるとする見解も存在します。
トトメス1世こそが最強のファラオであったとする「トトメス最強説」を唱える研究者もいるようです。
レヴァント政策
トトメス1世は地中海東岸のレヴァント地方に遠征に出かける事があっても、レヴァント地方を直接支配しようとは考えなかったとされています。
直接支配するつもりがなかったにも関わらず、エジプト第18王朝の初期の王たちが西アジアに遠征した理由としては、主に次の二点が挙げられます。
1.遠征によって人的・物的資源を獲得するため。
2.西アジアの大国に対する牽制を行うため。
レヴァント地方は地形的に複雑であり、小国が入り乱れていました。
こうした地形では大国が成立しにくく、エジプト新王国の軍事力があれば、これらの小国を服従させることはさほど難しくなかったようです。
エジプト新王国はレヴァント地方から食料品や芸術品、技術者、動物、武器など多様な資源を戦利品として持ち帰っていたそうです。
ミタンニ技術の導入・多民族化するエジプト
近年の研究では、トトメス1世はシリアへ軍事遠征を行ったものの、ミタンニ王国軍の高度な軍事能力を目の当たりにし、実際には大規模な戦闘を避けたのではないかという説もあります。
しかし、ミタンニ軍の戦力を観察したトトメス1世は、その技術的優位性を強く意識したと考えられています。
その結果、エジプト軍はミタンニの最新技術を積極的に取り入れたと推測されています。
ミタンニ王国の軍事能力の高さの秘訣は馬が引く戦車にありました。
そのため、積極的に戦車を導入しようと、トトメス1世は馬の飼育に長けた者や戦車を作る職人をエジプトに連れてきたとされています。
エジプトでは馬や戦車に関する技術者は重宝されたようです。
エジプト第ニ中間期のヒクソスも強力な戦車軍団を持っており、エジプト新王国側にも伝わっていましたが、それよりもさらに高度な戦車技術をミタンニから取得しようとしていました。
エジプト新王国の特徴の一つとして、西アジアのセム語系の民族の割合が増えたことが挙げられます。
エジプト新王国の時代には、セム語系の名前の記録が増えているため、多くのセム語系の民族が西アジアからやってきたと考えられています。
エジプト新王国にはフルリ人、ヌビア人など、多様な外国人が訪れていた事も分かっています。
エジプト軍がレヴァント地方を攻撃すると、そこに点在していた小国はエジプトに支配されてしまいました。
しかし、エジプト軍が本国へ帰還すると、これらの小国はすぐにミタンニ王国へ寝返ったり、ミタンニから圧力を受ければあっさりとそちらに靡いたりしています。
レヴァントの離反問題と攻撃的防御政策
レヴァント遠征とは、レヴァントの小国の態度をみてエジプトが攻撃的防禦を行ったものであったとされています。
レヴァント地方をエジプト軍が何度も通る事で、エジプト軍の強さを見せつけ、レヴァントの国々の離反を防ぐ事が狙いだったというものです。
エジプトのファラオは、レヴァント地方を通過する際、現地の小国に対して食料や兵站の提供を義務づけ、さらに朝貢を行わせていました。
とはいえ、それ以外の内政にはあまり干渉せず、比較的自由に統治させていたようです。
しかし、そんなエジプトの寛大な態度が後には裏目に出てしまいます。
エジプト軍が毎年のように西アジアへ遠征を続けている間は、レヴァントの諸国もエジプトの軍事力を恐れて従順であり続けました。
しかし、遠征が途絶えると、これらの小国はすぐに離反することも珍しくありませんでした。
とはいえ、トトメス1世の時代には遠征が頻繁に行われていたため、レヴァントの諸国もエジプトへの服従を維持していたとされています。
トトメス1世の建設事業
トトメス1世も、先代アメンホテプ1世と同様に積極的な建設活動を行いました。
現在のカルナクにあるアメン大神殿は、基本的な構造がトトメス1世の時代に形づくられたとされるほどです。
また、トトメス1世はアメンホテプ1世が着手していた聖堂を完成させており、これによって王位継承者としての正統性を強くアピールしたと考えられています。
これは、トトメス1世がアメンホテプ1世の実子ではなかったことが背景にあると思われます。
トトメス1世も精力的に動いた君主でした。
トトメス1世の二つの墓
トトメス1世が亡くなると、墓は岩山の崖で秘密裏に造営されたとされています。
トトメス1世はエジプトの王墓が盗掘される現状を目の当たりにしていたため、自分の墓を誰にも知られない場所に造営させたそうです。
社会が安定し、ファラオの権力がエジプト全土に行き渡っている時代であれば、王墓を守る兵士を配置する余裕もありました。
しかし、中間期のような混乱の時代になると、そうした体制を維持できず、ファラオの墓は盗掘されやすくなってしまいます。
こうした状況を踏まえ、イネニが建造地として選んだのが「王家の谷」でした。
王家の谷は地形的に隠蔽性が高いため、王墓を守るには最適な場所と考えられたのです。
ただし、王墓にはファラオの権威を見せつけるという意味合いもあるため、トトメス1世は墓を隠すにあたっての葛藤もあったのではないかとされています。
トトメス1世の陵墓には、実は二つの候補地が存在します。
そのうち一つを発見したのが、エジプト考古局長官を務めたヴィクトール・ロレという人物でした。
ロレは発掘の功績こそ大きいものの、同時代の人々からは「一人で嫌な奴二十人分に匹敵する」と評されるほど癖の強い人物だったと伝えられています。
もう一つのトトメス1世の墓は、後にハワード・カーターによって発見されました。
トトメス1世の墓が二つ存在する理由については、後代のハトシェプストやトトメス3世の意向が関わっていると考えられています。
当初、トトメス1世は「A」とされる墓に埋葬されたが、その後、新たに「B」の墓が造営され、遺体が移されたとする説が有力です。
しかし、トトメス1世の遺体は二度移動したとする説もあり、いまだに明確な結論には至っていません。
トトメス1世の後継者になったのが、トトメス2世です。
トトメス2世はトトメス1世とアメンホテプ1世の娘であるムウトネフェルト王妃の子です。
トトメス2世の王妃となったのが、ハトシェプスト女王でした。
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