エジプト新王国 古代エジプト

トトメス3世はエジプトの征服王

2026年4月18日

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宮下悠史

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名前トトメス3世
時代エジプト文明
王朝エジプト第18王朝
一族父:トトメス2世 母:イシス 
配偶者:サトイアフ、ネフェルラー
メリトラー・ハトシェプスト、ネブトゥなど
子:アメンホテプ2世、アメンエムハト
コメントエジプトのナポレオンと呼ばれている。

トトメス3世はエジプト新王国時代の人物であり、エジプト第18王朝のファラオでもあります。

トトメス3世は若くして即位しており、治世の前半は義母のハトシェプストが共同統治者となり、実権を握りました。

ハトシェプストが亡くなると、トトメス3世は直ぐにレバント地方への遠征を行い、メギドの戦いで勝利し戦果を挙げています。

トトメス3世は戦には滅法強く「エジプトのナポレオン」の異名も持っています。

トトメス1世がエジプトの征服王とされる事もありますが、一般的にはトトメス3世こそがエジプトの征服王とする見解が強いです。

トトメス3世の時代にエジプト新王国の領土は、最大版図となりました。

尚、トトメス3世の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できるようになっています。

幼年即位とハトシェプストの摂政統治

トトメス3世はわずか6歳でファラオとなりましたが、幼すぎて政治を担うことはできず、義母であるハトシェプストが摂政として共同統治を行いました。

その後、ハトシェプストは自らファラオを名乗り、実質的な統治者として権力を掌握していきます。

ハトシェプストが存命中、トトメス3世が政治の表舞台に立つことはほとんどありませんでした。

ハトシェプストが穏健な“ハト派”であったのに対し、トトメス3世は軍事的強硬派である“タカ派”の受け皿となっていったと考えられています。

トトメス3世は体格にも恵まれていたとされ、軍事派閥からの期待が自然と集まったのでしょう。

しかし、ハトシェプストが権力を握っている限り、遠征は思うように行えなかったとされています。

その間にも、北方ではミタンニ王国が勢力を拡大し、反エジプト同盟を結成してレバント地方の大部分を支配下に置くなど、
エジプトにとって深刻な脅威が迫っていました。

トトメス3世の治世22年頃、ハトシェプストが亡くなったと考えられています。

6歳で即位したトトメス3世は、この時すでに20代後半に達していました。

ハトシェプストは肥満体質で糖尿病を患っていた可能性があり、晩年には健康状態が悪化していたと推測されています。

その一方で、若く体格も優れたトトメス3世に求心力が集まりつつあったことも、権力交代の背景にあったのかもしれません。

単独統治の開始とタカ派の台頭

トトメス3世は単独統治を開始した翌年に、西アジアへの遠征を開始しています。

ここから、ハトシェプスト時代の穏便さはなりを潜め、エジプトは尚武の国に変貌して行きます。

トトメス3世はレバント地方へ初めての遠征を行いました。

ハトシェプストが亡くなった後すぐにレバント地方への遠征が可能な所を見ると、エジプト国内でも、タカ派がかなり強くなってきていたという可能性が考えられます。

メギドの戦い

トトメス3世はメギドの奪還に動きメギドの戦いが勃発する事になります。

カデシュ王は反エジプト勢力を集結させただけではなく、ミタンニの援助も受けており、強力な敵でもありました。

しかし、トトメス3世が危険な山越えを成功させるなどし、メギドの戦いはエジプト第18王朝の軍が勝利しました。

ミタンニとの長期抗争

メギドの戦いに勝利したとはいえ、レバント地方の反エジプト勢力の背後にはミタンニ王国が存在していました。

そのため、トトメス3世はその後も遠征を続け、最終的には17回もの遠征を行うことになります。

治世33年目に行われた第8回遠征は最大規模の戦いとされ、エジプト軍はシリアのアレッポやカルケミシュ近郊で勝利を収めました。

この遠征でトトメス3世率いるエジプト軍はミタンニ王国軍を撃退し、撤退へと追い込むことに成功しています。

トトメス3世の軍はついにユーフラテス川の東岸にまで到達しました。

ユーフラテス川周辺ではすでにメソポタミア文明が栄えていたため、エジプト新王国の勢力がオリエントの東方にまで伸びたようにも見える瞬間でした。

トトメス3世はこの地に境界碑を建立し、バビロニア、アッシリア、ヒッタイトの王たちは、シリア地域におけるエジプトの支配権を承認したとされています。

これは、エジプトがオリエント世界の大国として正式に認められたことを意味します。

帝国の確立と行政制度の整備

それでも、レバントやシリアでは反エジプト勢力との戦いが続きました。

最終的に、17回目の遠征でカデシュを占拠し、これによってエジプト第18王朝のレバント・シリア遠征は一段落したと考えられています。

トトメス3世は17回の遠征で350を超える都市を征服し、シリアやパレスチナの都市を植民地化したと伝えられています。

彼はこれらの地域をカナン州・ウビ州・アムル州に分割し、エジプト本土から「北の異国の監督官」を派遣して統治させました。

とはいえ、植民地といっても一定の自治は認められていたようです。

トトメス3世といえばレバント・シリア方面の遠征が有名ですが、ヌビアにも軍を派遣しており、その支配は第4カタラクトにまで及びました。

彼は第4カタラクトのナバタを制圧し、ヌビアを上ヌビアと下ヌビアに分割しています。

さらに、それぞれの地域に「クシュの王子」の称号を持つ副総督を置き、ヌビア総督を補佐させました。

これらの政策から、トトメス3世がヌビア支配と同時に中央集権体制の強化を進めていたことが分かります。

トトメス3世のヌビア支配が確立した事で、毎年300キログラムの黄金がエジプトにもたらされたとされています。

トトメス3世の活躍により、エジプト第18王朝はエジプト新王国の中でも、最大領域に達したと言われています。

ただし、最後までミタンニ王国を滅ぼす事は出来ませんでした。

むしろ後年になると、エジプトは一転してミタンニ王国を援助する立場に回ることになります。

トトメス3世は征服王でもありましたが、征服した小国の王子たちを人質としてエジプトに連れ帰り、エジプトの素晴らしさを教えた上で、本国に帰したと言われています。

また、エジプトの王を指す「ファラオ」という呼称が一般化したのも、トトメス3世の時代だとされています。

この語は「大きな家」を意味し、もともとは王宮を指す言葉でしたが、やがて王そのものを表す称号として使われるようになりました。

日本の帝が御門で「門」であり、ファラオが「家」と言うのは興味深い部分でもあります。

建築王としてのトトメス3世

偉大な軍事的業績を数多く残したトトメス3世でしたが、「広報の女王」と称されたハトシェプストと比べると、自身の存在感が薄いのではないかという悩みを抱えていたとも言われています。

そのため、彼は建築事業にも力を注ぎ、自らの威光を視覚的に示そうとしました。

トトメス3世の建築事業の中でも特に豪壮なのがカルナク神殿です。

彼はアメンホテプ1世の礼拝堂を移築し、その周囲に自らの祝祭殿を建設しました。

この祝祭殿には、シリア遠征で持ち帰った鳥や植物が描かれており、さらに征服したシリアやヌビアの都市名が刻まれることもありました。

また、1904年にはカルナク・アメン大神殿の第七塔門からトトメス3世像が発見されています。

さらにテーベ西岸では、メディネト・ハブのアメン小神殿を完成させるなど、宗教建築にも積極的に関わりました。

他にも、父トトメス2世の葬祭殿や、自身の葬祭殿の造営にも取り組んでいたことが分かっています。

こうした事績を踏まえると、トトメス3世は征服王であると同時に、“建築王”でもあったと言えるでしょう。

晩年の政治判断

トトメス3世は治世42年目になると、彼はハトシェプストの彫刻や記録を抹消するよう命じています。

晩年には息子アメンホテプ2世を共同統治王に指名しました。

これは、アメンホテプ2世が無事にファラオとして即位するためには、女性ファラオという前例を残さない方がよいと判断したためだと考えられています。

このことから、トトメス3世がハトシェプストを個人的に恨んでいたわけではなかったことが分かります。

トトメス3世は、ハトシェプストが建設した巨大なオベリスクを人目に触れないよう壁で覆ってしまいました。

しかし皮肉なことに、これによってオベリスクは風化を免れ、結果的に保存状態が非常に良くなりました。

ある意味では、トトメス3世はハトシェプストの遺産を守ったことにもなります。

では、なぜ存在を抹消しようとしたのに、ハトシェプストの存在が現代に伝わっているのでしょうか。

それは、ハトシェプストの姿を削り取った痕跡そのものが残っているからです。

つまり、トトメス3世が彼女の記録を抹消しようとした「その行為の記録」が、逆に彼女の存在を後世に伝える証拠となったのです。

皮肉にも、ハトシェプストは抹消されようとした記録によって歴史に名を残したと言えるでしょう。

トトメス3世の最後

トトメス3世は治世54年目に亡くなりました。

彼のミイラは意外にも小柄であり、ナポレオンも小柄であったことから、体格と軍事的実績の両面で「エジプトのナポレオン」と呼ばれるようになりました。

しかし後の調査で、発見されたトトメス3世のミイラは足の部分が損傷しており、
そのために小柄に見えていたということが判明しています。

トトメス3世の死後も第18王朝は続きますが、彼が亡くなった直後、シリア方面では反乱が勃発しました。

これは、彼の強力な軍事的威光が消えた瞬間に、従属国が一斉に独立の機会をうかがったためと考えられています。

後継者となったアメンホテプ2世は、この反乱を鎮圧するために遠征へ向かうことになりました。

トトメス3世の動画

トトメス3世のゆっくり解説動画となっています。

参考文献などはYouTubeの方に記録してあるので、読んでみてください。

先代:トトメス2世トトメス3世アメンホテプ2世

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