
エジプト第一中間期はエジプト王朝で初の混乱の時代です。
ナイル川の水位が低下した事で食糧不足となり、混乱が拡がったとも考えられています。
他にも、古王国時代の末期に州侯・地方豪族の力が強くなっており、混乱に繋がったとする見解もあります。
エジプト第一中間期では第7王朝、第8王朝、第9王朝までは記録も少なく分かっている事が少ない状態です。
最終的に下エジプトの第10王朝と上エジプトの第11王朝の戦いとなり、第11王朝が勝利し第一中間期は終わりました。
尚、第二中間期や第三中間期では異民族のヒクソスやヌビアの勢力も入って来ての混乱でしたが、第一中間期はエジプト人同士の争いであり、まだマシだったとする見解もあります。
エジプト第一中間期の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
エジプト第一中間期とは何か
古代エジプトではナイル川沿いにノモスと呼ばれる都市国家が形成され、上エジプトに22、下エジプトに20のノモスが存在しました。
上エジプトのナルメル王がこれらを統一し、エジプト第一王朝が誕生します。
第一王朝から第二王朝へと王朝交代が続きますが、その理由は明確ではありません。
男系が途切れた時点で王朝が変わったという説もありますが、確証はありません。
第二王朝末期の王は強力であったにもかかわらず王朝が交代しており、制度の不透明さがうかがえます。
第三〜第六王朝は「古王国時代」と呼ばれ、ギザの三大ピラミッドやスフィンクスなどが建造されました。
ペピ二世は6歳で即位し、長期統治の間に中央集権は崩壊し、ヌビアや紅海沿岸で反乱が発生しました。
ファラオは遠征軍を派遣せざるを得ず、国家の統制力は低下していきます。
ペピ二世の死後、王権は名ばかりとなり、地方の州侯(ノモス長)が力を持つようになりました。
これによりエジプトはファラオのよる統一を維持できなくなり、分裂状態に陥ります。
この混乱期こそが「第一中間期」と呼ばれる時代です。
第一中間期の始まり
エジプト第7王朝から始まる時代を「第一中間期」と呼びます。
一般的には、紀元前2118年から紀元前1940年頃を指す場合が多く、エジプト史上初めて本格的な混乱が訪れた時代とされています。
第一中間期は、古王国時代の安定が崩れ去り、人々が将来に強い不安を抱くようになった時代でした。
特に前半は著しい無政府状態に陥ったと伝えられています。
メソポタミアでは古くから民族移動が激しく、都市国家同士の戦争が頻発していましたが、エジプトは古王国時代までは比較的安定していました。
メソポタミアやシリアでは、地形の影響で敵が急速に勢力を拡大し、一気に都市国家が滅びることが珍しくなかったようです。
エジプトが古王国時代に長く安定していた理由は、しばしば「ピラミッドを見れば分かる」と説明されます。
ピラミッドのような巨大建造物を築くためには、膨大な労働力だけでなく、その労働者たちに安定して食料を供給する体制が不可欠です。
もし食料の配給が滞れば、労働者は現場から逃げ出し、自らの生活を守るために食料確保へ走ってしまうでしょう。
つまり、ピラミッド建設が可能だったという事実そのものが、当時のエジプト社会が高い食料自給力を持ち、安定していた証拠と考えられています。
エジプト第7王朝
70日間で70人の王
エジプト第一中間期は、第7王朝から第11王朝が再統一を果たすまでを指す場合が多く、古王国の崩壊後に訪れた最初の大混乱の時代でした。
この時代は、王都を中心とした中央集権社会から、地方勢力が主導する分権的な社会へと移行した時代でもあります。
地方豪族が各地で独自の支配を行い、細かく分断された統治が行われていたと考えられています。
エジプト史を記したプトレマイオス朝時代の歴史家マネトによれば、第7王朝では「70人の王が70日間統治した」とされています。
しかし、この記録の信憑性は低いとされています。
マネトはアレキサンダー大王より後の時代の人物であり、第7王朝からは1500年以上も後の時代を生きていました。
そのため、彼の記述は伝承や象徴的表現を含む可能性が高く、数字の「70」は単に「非常に多い」「混乱していた」という意味を象徴的に表したものだと考えられています。
地方豪族が次々に王を名乗ったことを表しているという説もありますが、上エジプトと下エジプトを合わせてもノモスは42しかなく、その全てが王を名乗ったと考えるのは無理があります。
そのため、この説も決定的とは言えません。
それでも、第7王朝が極めて混迷した時代であったことだけは確かであったと考えられます。
第7王朝の混乱とネフェルカラー
エジプト第7王朝は、第6王朝に続いてメンフィスを首都としたとされています。
しかし、この政権は実質的には臨時政府のような性格だったと考える研究者もいます。
第6王朝から第7王朝への移行過程は史料が乏しく、王朝交代の具体的な理由はよく分かっていません。
第7王朝は、第6王朝最後の王ペピ2世の後を受けて成立したとされ、20〜30年ほど続いたとする説がある一方、わずか6年しか続かなかったとする説も存在します。
また、第7王朝に属するファラオの人数についても、9人説・11人説など複数の説があり、どれが正しいのかは不明です。
異説はあるものの、第7王朝の初代ファラオはネフェルカラー(Neferkare)という人物であったと考えられています。
史料によれば、当時のエジプトは財政難に陥っており、ネフェルカラーは太后の葬儀に際してピラミッドを建てることができず、代わりにイプウトのピラミッド葬祭殿の倉庫に棺を埋葬したと伝えられています。
これは、古王国末期の国家財政の逼迫を象徴するエピソードです。
この話からも分かるように、エジプト第7王朝は極めて混乱した時代であり、食料や物資が深刻に不足していたと考えられています。
現代で言えば、物価が急騰し、物資の価値が貨幣を上回るようなインフレ状態に近い状況でした。
インフレが進むと、たとえお金があっても買える物資がなくなり、人々は生活必需品の確保に苦しむことになります。
こうした状況下で、もしネフェルカラーが母のために巨大な墓を建造していたら、そのための資源は民から徴収され、民衆の生活はさらに苦しくなったはずです。
そのため、ネフェルカラーがピラミッド建設を断念し、太后の棺を既存の葬祭殿の倉庫に埋葬したという判断は、当時の社会状況を踏まえればむしろ英断だったと捉えることができます。
エジプト第一中間期は治安が極端に悪化し、墓泥棒が横行していたと伝えられています。
当時のファラオの統治力は著しく低下し、墓の保護すらできないほどでした。
特に第一中間期の前半は混乱が激しく、治安は最悪の状態に達していたと考えられます。
ナイル水位低下と気候変動の影響
エジプトが大混乱に陥った最大の原因は、ナイル川の水位低下にあったとされています。
「ナイルの賜物」と呼ばれるエジプトですが、ナイルが氾濫しなければ農地は潤わず、その結果、深刻な飢饉が発生します。
古代世界では気候変動が民族移動や王朝の興亡を左右することが多く、エジプトも例外ではありませんでした。
ナイル川の氾濫は、夏季のモンスーンがエチオピア高原に大量の雨を降らせ、その水が青ナイルに流れ込むことで起こります。
しかし第一中間期には、エルニーニョ現象によってアフリカからインド洋へ吹く季節風が弱まり、エチオピア高原が旱魃に見舞われたと考えられています。
その結果、青ナイルの水量が減少し、ナイル川は十分な氾濫を起こさなくなりました。
この水量低下によって飢饉が多発し、社会は急速に荒廃していきました。
また、第一中間期に関する史料を見ても、ナイルデルタ(下エジプト)については「不明な領域」とされることが多く、当時の状況ははっきりしていません。
上流域の記録が多い一方で、デルタ地帯の情報が極端に少ないのです。
個人的には、ナイル川の水量が減ったことでデルタまで水が届かず、デルタ地帯が農耕に適さない地域へと変貌してしまった可能性を感じます。
後述のように、第10王朝が遊牧民を撃退したという記録があることから、デルタは草原化し、農耕民ではなく遊牧民が入り込むような環境になっていたのかもしれません。
宗教意識の変化とイブエルの訓戒
エジプト第7王朝の時代になると、太陽信仰が急速に盛んになったと考えられています。
人々は困窮すると新たな神に救いを求める傾向があり、こうした宗教意識の変化は、結果としてファラオの求心力を弱める要因にもなった可能性があります。
この時代の社会の荒廃を示す資料として有名なのが、「イブエルの訓戒」と呼ばれる文書です。
これは第一中間期の混乱を象徴するテキストで、社会秩序の崩壊、治安の悪化、飢饉、暴力、貧富の逆転などが生々しく描かれています。
以下は、内容の要点をまとめたものです。
- 掠奪者が至るところに現れ、召使いでさえ盗みを働く。
- 農民は土地を耕さず、人々は「国がどうなろうと知ったことではない」と言う。
- 貧者が富を持ち、かつて何も作れなかった者が財産を所有している。
- 人々の心は荒れ、疫病と暴力が国中に満ちている。
- 多くの死者が川に投げ込まれ、ナイルは血で染まったかのようである。
- 老人も若者も「死にたい」と嘆き、子どもでさえ「生まれなければよかった」と言う。
- ついに王が民衆によって廃され、ピラミッドの宝物庫は空になった。
これらの内容は、第一中間期の社会がいかに深刻な混乱に陥っていたかを象徴的に伝えています。
エジプト第8王朝
エジプト第7王朝が終焉すると、エジプト第8王朝の時代に突入します。
エジプト第8王朝もメンフィスを首都にしたと言われていますが、エジプト第7王朝との繋がりは不明です。
エジプト第8王朝も第一中間期に属し、依然として混迷の真っただ中にあり、王が頻繁に入れ替わった時代だったと考えられています。
第7王朝から第8王朝の終わりまでを合わせても、わずか20年ほどしかなかったとする説すら存在します。
そのような不安定な時代にもかかわらず、第8王朝のファラオ カカラー・イビは、南サッカラに小規模ながらピラミッドを造営したとされています。
ただし、彼の在位はわずか2年ほどであったと考えられており、このピラミッド建設は第6王朝の伝統を形式的に踏襲したものだと見られています。
第8王朝は、弱体化した王権を補うために、上エジプトの有力者と結びつくことで権力基盤を強化しようとしたとも言われています。
その象徴的な例が、ファラオがコプトスの有力者であるシェマイという人物を上エジプトの長官に任命し、上エジプト22ノモスすべてを統括させたという記録です。
これは、シェマイに極めて大きな権限を与えたことを意味します。
シェマイは強力な地方豪族であり、政略結婚などを通じて王家との関係を強め、外戚として実質的な権力を握ったと考えられています。
これらの事から、第一中間期前半の王は権力を持たない飾りに過ぎず、実際は地方の有力者が支配する時代であったと考えられています。
マネトが残した記録によると、メンフィスはエジプトの伝説の初代ファラオ・メネスが定めた都でした。
しかし、エジプト第8王朝でメンフィスを中心とした時代は終わりを告げる事になります。
第9・10王朝の成立
次いでエジプト第9王朝が始まるのですが、第9王朝と第10王朝は連続した王朝であったと考えられています。
マネトは第9王朝と第10王朝を区別していますが、トリノ王名表では区切られていないため、第9王朝と第10王朝は繋がっているという説が唱えられるようになりました。
エジプト第9王朝はファイユームの少し南に位置する、ヘラクレオポリスという地を首都にしました。
そのため、エジプト第9王朝は別名「ヘラクレオポリス王朝」とも呼ばれています。
第9王朝の初代ファラオはケティという人物であったとされていますが、その出生については不明な点が多いです。
州侯からファラオになったのか、また第8王朝との繋がりがあったのかという点についても明確ではありません。
ただ、一部の研究者は「エジプト第9王朝がケティから始まった事は、ほぼ確実である」と主張しています。
それでも、未だ混迷の時代からは抜け出せておらず、ケティの王権は弱かったと言われています。
第11王朝の台頭と南北対立の激化
先ほど述べたように、エジプト第9王朝と第10王朝は連続した政権であった可能性が高く、ここではそれとは別系統の王朝である第11王朝について紹介したいと思います。
第11王朝がいつ勃興したのかについては諸説があります。
代表的な説は次の二つです。
1.第9王朝の支配力が弱まった末期に、テーベのアンテフが自立して王を名乗った。
2.第8王朝が崩壊した際、第9王朝と第11王朝が同時期に勃興した。
また、第9王朝成立から約30年後にテーベで第11王朝が興ったという説もあります。
もし2の説が正しいとすれば、エジプト史上初めて南北に二つの王朝が並立する時代が訪れたことになります。
南北に王朝が存在する以上、最終的にどちらかがエジプト全土を統一するまで、両者の衝突は避けられなかったと考えられます。
実際、第9王朝が終わり第10王朝が始まると、北(ヘラクレオポリス)と南(テーベ)の戦いは頻繁に起こるようになりました。
ただし、エジプトは2大勢力の時代となっており、この頃になると第一中間期の終わりが見えてきたと言えるでしょう。
第11王朝初期の王であるアンテフ1世・アンテフ2世の時代、テーベ勢力は着実に勢力を拡大していきました。
特にアンテフ2世は、テーベのアメン神やアルマントのメンチュウ神への信仰を篤くし、宗教的権威を利用して王権の正当性を高めたとされています。
古代エジプトでは宗教と政治が密接に結びついていたため、アンテフ2世の宗教政策は求心力を大きく高め、第11王朝の勢力拡大に大きく貢献したと考えられます。
エジプト第11王朝は勢力を拡大し、中部エジプトの重要都市ティニスを併合しました。
アンテフ2世の支配領域はさらに北へ伸び、アシュート州の境界付近にまで達したとされています。
しかし、この地域の住民であるアシュートの人々は、北の第10王朝(ヘラクレオポリス政権)に味方しました。
そのため、南北の争いの中心はティニス周辺へと移ることになります。
ケティ3世の反撃
先にも述べたように、第9王朝と第10王朝は連続した政権と考えられており、第10王朝の首都も引き続きヘラクレオポリスでした。
この第10王朝の王 ケティ3世は、北上してきた第11王朝軍を撃破したと記録されています。
さらに勝利後にはアビドスを占領したとされ、それらの功績から「名君」であったと評価されることが多いです。
一方で、第11王朝側も反撃に成功し、第10王朝軍を破ったという記録が残っています。
しかし、両者の戦いは長期化し、最終的には休戦に至ったと考えられています。
エジプト第10王朝のケティ3世と、第11王朝のアンテフ2世は、互いに実力を備えた王として名勝負を繰り広げたのかもしれません。
しかし悲しいことに、その激しい争いの舞台となったティニスは、60年に及ぶ戦闘によって荒廃し尽くしたと伝えられています。
エジプト第10王朝のケティ3世は第11王朝と休戦になった事で、下エジプトに勢力を広げる事になります。
この時期にはレバント方面から侵入して来た遊牧民がいましたが、ケティ3世はこれを撃破し、新たな街を建設しました。
ケティ3世が軍事・政治の両方において優れていたと分かるエピソードです。
メリカラー王への教訓
エジプト第10王朝のケティ3世と言えば、「メリカラー王への教訓」の話が有名です。
これはケティ3世が自分の後継者であるメリカラーに、王としての心得を語ったものです。
内容は以下のようなものです。
※メリカラー王への教訓
私が成し遂げた事で平和は維持されている。
全ては下エジプトにある。
上エジプトに手を出してはいけない。
人の墓や記念碑を傷つけたり、それらを流用して自分の墓に使ったりしてはならない。
これらの言葉から、ケティ3世がこれ以上勢力拡大を望むべきではないと考えていたことが分かります。
ケティ3世が亡くなると、メリカラーがエジプト第10王朝のファラオになりました。
メリカラー王は自分の息子に墓泥棒をした事を自慢するなど、多少問題のある人物であったと伝わっています。
一方エジプト第11王朝では、アンテフ3世が即位します。
この時代のエジプト第11王朝は比較的平和であったと考えられています。
しかし、アンテフ3世の後継者であるメンチュヘテプ2世の時代に歴史が大きく動く事になります。
メンチュヘテプ2世の登場と統一への布石
メンチュヘテプの名には「メンチュ神は満足する」という意味があります。
エジプト第11王朝の一族はテーベから20キロほど離れたアルマントの出身であり、メンチュ神はそこで祀られている戦いの神です。
メンチュヘテプ2世は即位名を「二つの地に心を与える者」「上エジプトの主人」「二つの地の統一者」と3回も変更していました。
「二つの地の統一者」は第10王朝と第11王朝のことを指していたと考えられます。
メンチュヘテプ2世の治世14年にティニスで、反テーベ王朝の反乱が起きました。
この出来事をきっかけに、第10王朝と第11王朝の南北対立が激化していきます。
この時までにテーベの王朝は下ヌビアの資源や傭兵を手中に収めており、エジプト第10王朝のメリカラー王に対して軍事的・政治的に優位な立場でした。
第11王朝のメンチュヘテプ2世がティニスを狙っていると知ったエジプト第10王朝のメリカラーは、「上エジプトに手を出してはいけない」というケティ3世の教えを破り、第11王朝の軍を攻撃します。
しかし、第10王朝の軍は強力なエジプト第11王朝の軍に敗北してしまいます。
第11王朝の勝利と第一中間期の終焉
ティニスでの反乱をきっかけに、エジプト第11王朝はアシュートを攻撃し、さらにヘルモポリスなどの州侯を配下に加えました。
これによりエジプト第11王朝の支配領域は、エジプト中部まで拡大したと言われています。
一方、第10王朝は第11王朝に押され続け、メリカラーはこうした混乱の中で亡くなっています。
メリカラーが亡くなってからも第11王朝の攻勢は続き、ついにはエジプト第10王朝を滅ぼすに至ったとされています。
最終的にエジプト第11王朝がエジプトを統一し、第一中間期を終わらせる事になります。
メンチュヘテプ2世の統一をきっかけに、エジプトは中王国時代に突入しました。
メンチュヘテプ2世は統一を成し遂げ巡幸すると、各地の状況を把握するとともに、自分に反抗的な州侯を追放し、自分の影響下にあるものに入れ替えたと言われています。
エジプト第11王朝は統一後も首都をテーベとし、国内の整備や治安回復に取り掛かる事になります。
メンチュヘテプ2世は、統一後は地方の行政整備など、政権の安定に尽力したと言われています。
とはいえ、エジプト中王国は古王国時代や新王国時代に比べると、王権はやや弱かったようです。
メンチュヘテプ2世が亡くなると、テーベの西岸であるディール・アル・=バフリーに築かれた壮麗な葬祭複合体に埋葬されました。
この葬祭殿は断崖を巧みに利用した斬新なものだったとされ、後のエジプト第18王朝・ハトシェプスト女王の葬祭殿のモデルになったとも言われています。
敗れた第10王朝のメリカラーについても触れておくと、彼が必ずしも「暗君」であったとは限らないという指摘があります。
確かに、父ケティ3世の遺言である「上エジプトには手を出してはならない」という教えに反して第11王朝と戦ったことは批判の対象になり得ます。
しかし、実際にはメリカラー自身が積極的に戦争を望んだというよりも、防衛のために戦わざるを得なかったという側面が強かった、という見方もあります。
その為、メリカラーは必ずしも暗君だったとも言えないはずです。
第一中間期の総括
エジプト第一中間期は、まさに文字通りの大混乱の時代でした。
特に前半の第7王朝は建造物の記録すらほとんど残っておらず、その実態は謎に包まれています。
気候変動が社会を揺るがすと、民族の移動や勢力図の変化が起こることが多いとされています。
古代オリエントでは、セム系民族がアラビア半島から肥沃な三日月地帯へ移動、インド=ヨーロッパ語族がコーカサスを越えて進出といった動きが重なり、難民が大量発生してメソポタミアは大混乱に陥りました。
こうした例を見ると、気候変動は古代の人々に深刻な影響を与え続けてきたと言えるでしょう。
その点、エジプト第一中間期は、国内が混乱したにもかかわらず、大規模な異民族の侵入を受けなかったことは、ある意味で幸運だったのかもしれません。
ナイル川の水位低下による飢饉や治安悪化は深刻でしたが、外敵による破壊は免れています。
もっとも、エジプトも別の時代にはヒクソスなどの異民族の侵入に悩まされることになります。
エジプト第一中間期の動画
エジプト第一中間期を題材にしたゆっくり解説動画です。