
| 名前 | アッシュル・ナツィルパル2世 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前859年 |
| 在位 | 紀元前883年ー紀元前859年 |
| 国 | アッシリア |
| コメント | アッシリア「怖い」のイメージを作った君主 |
アッシュル・ナツィルパル2世は新アッシリア時代のアッシリア王です。
アッシリアと言えば「恐怖政治を行った」などのイメージも強いのではないでしょうか。
実際にアッシュル・ナツィルパル2世は残虐性をアピールする様な行為を行っており、アッシュル・ナツィルパル2世のイメージが定着した部分もあるのでしょう。
ただし、性格的に問題があったと言うよりも、相手に恐怖心を植え付ける事で反乱を防ぐ狙いが強かったと考えられています。
アッシュル・ナツィルパル2世は6万人もの人々を集めて、大宴会を開いた記録もあり、怖いだけの君主ではなかったはずです。
首都をカルフに移すなど精力的に動いており、アッシリアの勢力を拡大させた君主である事は間違いないでしょう。
ビート・アディニとの激突と西進政策
アッシュル・ナツィルパル2世は多数の王碑文を残しています。
そこには、彼がほぼ毎年のように軍事遠征を起こし、時には1年のうちに2度も遠征を強行するほど積極的に領域拡大を行ったと記されています。
この時代、アッシリアの西方の国境線上には、新興の「アラム人」が築いた諸国家が多数割拠していました。
なかでも、ユーフラテス川が大きく湾曲する両岸の要衝を完全に支配していたアラム人国家「ビート・アディニ(Bīt-Adini)」は、アッシリアが西(地中海方面)へと軍事行動を展開する上で、進路を大きく制限する最大の地政学的障壁となっていました。
アッシュル・ナツィルパル2世はこのビート・アディニに対して激しい攻勢をかけ、その領土の一部を奪い取る(征服する)ことには成功したものの、国家そのものを完全に滅ぼして併合するまでには至りませんでした。
しかし、この遠征によってアッシリアの勢力圏はついに地中海沿岸にまで到達し、豊かなフェニキア人の諸都市(ティルスやシドンなど)を
屈服させて朝貢させるという、壮大な西進の足掛かりを確立したのです。
なお、アッシュル・ナツィルパル2世の時代には、南方のもう一つの大国であるバビロニアを征服するまでには至っていません。
父王の悲願であったこの西方防衛線の完全な掌握は、その跡を継いで即位した息子の「シャルマネセル3世」へと引き継がれることになります。
シャルマネセル3世は即位後すぐにビート・アディニへの大遠征を継続し、このアラム人の強国を完全に滅ぼして直轄の属州とすることに成功しました。
このように、父子二代にわたる執拗な軍事基盤の競合と、矛盾のない戦略の実行によって、新アッシリア帝国は周辺国を圧倒するオリエントの絶対君主としての地位を盤石なものへと強化することになります。
アッシュル・ナツィルパル2世の「計算された恐怖」
新アッシリア帝国の初期に領域を急拡大させたアッシュル・ナツィルパル2世の治世を語る上で、避けて通れないのが「残虐な行為」に関する記録です。
① 残虐表現と「王碑文」の真意
王が残した多数の浮彫図像(レリーフ)や王碑文には、反乱者に対する串刺し刑や、身体の一部を損壊・剥奪するといった凄惨な処罰内容が、
一見すると露悪趣味とも捉えられかねないほど克明かつ強調して記録されています。
しかし、これらの凄惨な描写をそのまま王個人の異常な残虐性や趣味嗜好として解釈するのは、歴史の本質を見誤ることになります。
歴史研究においてこれらは、国家の最高機密として高度に構築された、戦略的な「情報戦」の一環であったと考えられているからです。
② 地政学リスクを抑止する「計算された恐怖」
アッシリアがこれほどまでに自らの残虐性を公に誇示した背景には、広大な領域を統治するためのコストの最適化という政治的意図が存在していました。
これは「アッシュル・ナツィルパル2世の計算された恐怖(恐怖政治)」と呼ばれています。
連年のように遠征を行い、常に複数の反乱リスクを抱えていたアッシリアにとって、「裏切り者には逃げ場のない破滅と凄惨な処罰が待っている」という強烈なメッセージを周辺国や属国に植え付けることは、心理的に「反乱を未然に抑止する」ための最も効率的かつ合理的な施策だったのです。
すなわち、過激なレリーフや碑文は、見る者を畏怖させて戦わずして従わせるための「視覚的な抑止力」として機能していました。
アッシュル・ナツィルパル2世が特別残虐な人物だったとは、一概には言えません。
さらに言えば、戦場では何処の国であっても普通に残虐行為は行っている事実もあります。
新首都「カルフ」への大遷都
紀元前880年頃、アッシュル・ナツィルパル2世は、長年の王都であった「アッシュル」を放棄し、新たな首都として「カルフ(現在のニムルド)」へと都を移す大規模な遷都を断行しました。
この一大国家事業は一代では完成せず、次代のシャルマネセル3世の治世に至ってようやく完成を迎えることになります。
アッシュル・ナツィルパル2世が遷都を強行した背景には、明確な地政学的・経済的理由が存在していました。
古くからの旧都アッシュルは土地が狭隘(きょうあい)であり、かつアッシリアの全勢力圏から見ると地理的に「南端の辺境」に偏って位置していました。
そのため、帝国の版図が西や北へ急拡大するにつれて、交通・軍事・経済活動における命令伝達のタイムラグ・不便さが大きなリスクとなっていきます。
当時のアッシリア領内では、後に「アッシュル・バニパル王の図書館(人類最古の体系的図書館)」が建設されることで世界的に名を知られるようになる大都市「ニネヴェ」も急速に発展を遂げていました。
アッシュル・ナツィルパル2世は、この旧都アッシュルと新興都市ニネヴェのちょうど「中間地点」に位置し、チグリス川と上ザブ川の合流点という水運の要衝であった小さな町「カルフ」に着目し、ここを帝国の中央集権化のための巨大な拠点として再開発したのです。
6万人の大宴会碑文が示す「朝貢・統治」の実態
紀元前879年、新首都カルフの中核である「北西宮殿」が完成した際、アッシュル・ナツィルパル2世は、当時の古代オリエント世界において前例のない規模の「大宴会」を10日間にわたって主催しました。
王が残した公式の碑文(カルフの宴会碑文)に記録されている参加者の内訳は、極めて具体的な数値として現代に伝えられています。
アッシリア全土の各地区から集められた男女が4万7074人、新首都カルフの住民が1万6000人、宮殿の建設に携わったザリクゥ職人が1500人です。
特筆すべきは、西方のシリア地方や地中海沿岸の諸都市(ハッティ、ティルス、シドンなど)や、北方の山岳地帯(ムサシルなど)といった、
アッシリアに服属・臣従していた周辺諸国の「高官や使節」が合計5000人も招かれていた点です。
碑文には、王が彼らに「酒を振る舞い、湯や油を注いで平安のうちに帰還させた」という融和的な態度が記されています。
これは一見、王の個人的な「残虐性」とは矛盾する二面性のように見えますが、実際はこれも計算された統治の一部でした。
この大宴会は、ただの娯楽や振る舞い酒ではありません。
服属した諸国の使節たちの目前で、新首都の圧倒的な建築技術と、6万人以上を10日間養うだけの「莫大な富・食糧備蓄(兵站能力)」を
視覚的に誇示する「軍事・経済的能力を誇示する儀礼」だったのです。
アッシリアに刃向かう反乱者には徹底的な処罰で臨む一方、恭順して朝貢を続ける味方には圧倒的な富で報いる。
この明確な国家としての報酬の提示こそが、広大な帝国を維持するための能力の本質でした。
尚、アッシュル・ナツィルパル2世が紀元前859年に亡くなると、息子のシャルマネセル3世が即位しています。