国淵は字が子尼であり、正史三国志にも記載されている人物です。
正史三国志には、国淵伝があり、当時の戦いで敵を打ち破った場合は、功績が十倍増しで報告されていた話が掲載されています。
功績の10倍盛りなどの話は三国志の時代における重要な資料と言えるでしょう。
ただし、国淵は功績を盛らずに、曹操に報告しています。
国淵は知名度は、かなり低いですが、清廉潔白な人物であり、非常に有能な人物だと言えるでしょう。
尚、国淵は正史三国志の袁張涼田王邴管伝に収録されています。
下記が袁張涼田王邴管伝に収録されている人物の一覧となります。
鄭玄の弟子となる
国淵は楽安国蓋県の人であり、鄭玄の弟子になった話があります。
鄭玄は後漢末期で最高の学者として評価される事もあり、非常に有能な人物です。
鄭玄は当時無名だった、国淵の事を高く評価し、次の様に述べた事が魏書に書かれています。
「国子尼(国淵)は、優れた才能を持った人物である。儂は国淵が国にとって役立つ人物になると観た。」
この様に鄭玄は、国淵を褒めているわけです。
鄭玄は国淵の能力だけではなく、人間性も立派な人だと感じたのでしょう。
尚、鄭玄の弟子と言えば、劉備の配下となる孫乾もいますが、国淵と孫乾が面識があったのか?は記録がなく分かっていません。
岩の上に勉学に励む
国淵は鄭玄の弟子をしていましたが、中原の地は混乱をきたし、邴原・管寧らと遼東に行った話があります。
当時の遼東は、董卓配下の徐栄が推薦した公孫度が遼東太守としていたと思われ、国淵は公孫度を頼って遼東に移動したのかも知れません。
遼東に行っても国淵は熱心に学問の勉強をして古学に励み、いつも山中の岩の上で勉強をしていた話があります。
山中の岩の上で勉強したのは、静かで集中できる場所が欲しかったからなのかも知れません。
見方によっては山中の岩の上で勉学に励む、国淵は奇行とも取れますが、士人の中で国淵の事を敬慕する者が多かった話があります。
国淵が勉強熱心で博学であった為に、人望を集めた様にも感じました。
曹操に仕える
正史三国志によれば、国淵は旧地に帰り、曹操の招きに応じ司空の掾属(属官)とした話があります。
後漢王朝では、司空は三公に数えられる高位であり、曹操が国淵を如何に高く評価していたのかが分かります。
国淵は朝廷に臨み議論をする時は、私情を持ち込まず厳正な態度で接し、直言も多くした話があります。
しかし、朝議から出れば個人的な感情は残さなかった話があるわけです。
これを考えると、人間的には厳しい面がありながらも、思いやりなどを持った人物だと言う事が分かります。
蜀の法正、劉巴などは、優秀な人ではありましたが、性格的な問題もあったようで、それらの人物に比べると国淵は安心して付き合う事が出来た様にも感じました。
行政で実績を挙げる
正史三国志によれば大祖(曹操)は、幅広く屯田を行いたいと考え、国淵に事務をやらせた話があります。
この時の国淵は、たびたび事業を行う上での損得を述べ、土地の良し悪しを見分け、民を住まわせ、人口を計算し、官吏を配置したとあります。
さらに、屯田による業績評価を明確にし、規則をはっきりとさせます。
国淵が責任者になってから、5年で倉庫は満ち溢れ、屯田開発を行う者は争って努力し、仕事を楽しむ様になったとあるわけです。
この記述を見る限りでは、国淵は行政においても、優れた能力を持っていた事は明らかでしょう。
千人の命を救う
曹操は西暦211年に、関中の馬超や韓遂の討伐に行く事になります。
この時に曹操は、曹丕、程昱、国淵、常林らに留守を任せる事になります。
曹丕に留守を守らせ、程昱に軍事を参与させ、国淵を居府長史に任命して、留守を任せたわけです。
曹操がいない隙をついて、田銀と蘇伯らが河間で反乱を起こす事になります。
官軍は田銀と蘇伯を打ち破りますが、残党が残っていました。
反乱軍の残党は、法律によれば全員が死罪だったわけですが、国淵が次の様に述べた話があります。
国淵「田銀や蘇伯の残党たちは、首謀者ではないから、許してやって欲しい。」
曹操は国淵の言葉に従い、千人以上の命が救われた話が、正史三国志の国淵伝にあります。
ただし、程昱伝を見ると程昱も曹操に賊軍を許す様に進言した話があり、田銀や蘇伯の残党を許す様に進言したのは、国淵だけではなかったのでしょう。
尚、程昱伝の方が、事の成り行きが詳しく書かれており、程昱が中心となり助命を願った様にも感じました。
因みに、田銀と蘇伯の乱に関しては、常林伝にも記述があります。
敵を討ち取った記録は10倍増しが普通だった
国淵伝に当時の事が書かれており、「賊軍を打ち破った場合は、1を10として記録する」のが普通だった記述があります。
田銀や蘇伯を破った時に、国淵は10倍増しをせずに報告したわけです。
曹操は不思議に思い、国淵に確認すると、次の様に述べています。
国淵「討ち取った首の数を10倍にして報告するのは、戦果を大きく見せて民衆に誇示するのが狙いです。
河間は、我が領域の中にあり、田銀らは反逆しました。
勝利を得て敵を大いに打ち破ったとしても、私は心ひそかに恥だと感じております。」
国淵の言葉を見ると、10倍増しで報告する意味も理解していますし、国淵の誠実な人柄が分かるような気がします。
曹操は国淵の言葉に大いに喜び、国淵を魏郡の太守に任命しました。
功績を10倍にする事に関しての考察
国淵伝の討ち取った敵の数を10倍にする話ですが、興味深いと感じています。
何故なら、司馬遷が書いた史記を見ると白起が長平の戦いで趙軍を破り10万の首を斬ったとか、桓齮が平陽の戦いで扈輒を破り10万を斬首したなどの記録が普通にあるわけです。
特に白起などは、戦いに勝ち斬首した首の数を合計すると、100万にも達するのではないか?と感じます。
しかし、功績を10倍にする事が普通であれば、戦国時代の人口と考えても、辻褄が合うとした考え方もあります。
それを考えると、中国史は討ち取った敵の人数を記録の通りだとするのは、間違いだとも感じました。
時と場合によると思いますが、10分の1の数字が正しいのかも知れません。
尚、夷陵の戦いで劉備軍が75万もの大軍だった話もありますが、その数字も間違いであり本来は4万程度だったのではないか?と考えられています。
犯人を見つけ出す
投書して政治に対する悪口を述べる者がおり、曹操は憎悪していたわけです。
曹操は何としても、書いた人物を見つけ出したいと考えていました。
曹操は国淵に犯人を見つける様に命令します。
投書には「二京の賦」が数多く引用されている特徴があったわけです。
国淵は功曹に命じて、次の様に述べています。
国淵「この郡は大きくなり、現在では天子のみくるまが止まっておられる。
しかし、学問がある者は少なく、理解力がある若者を選んで、先生に師事させたいのであるが。」
功曹は3人の若者を選出すると、国淵は3人の若者を呼び出し、次の様に述べています。
国淵「今まで勉強した中には入っていないと思うが、「二京の賦」は非常に優れたものだと思っている。
二京の賦を扱っている先生は、殆どいないから、読める先生を探し出し、師事を受けなさい。」
その様に述べた上で、密かに国淵は理由を説明しておいたわけです。
十日ほどすると、二京の賦を読める先生が見つかり、若者は講義を受ける事になります。
役人は二京の賦が読める先生に頼んで文書を書いて貰い、国淵らは筆跡鑑定を行います。
そこで筆跡が同じだった事もあり、先生を逮捕し事実関係が判明したわけです。
この後に先生は、どうなったのかは記載がなく分かっていません。
しかし、国淵の機転を利かせた犯人探しが光る内容となっています。
国淵の最後
国淵は、最終的に太僕となり大臣になった話があります。
太僕となり豊かになっても、清貧を貫き、俸禄などは親族や旧友に振る舞った話があります。
正史三国志には、国淵の最後は次の様な記述があります。
「謙虚と節倹を貫き、在職中に亡くなった。」
正史三国志の文字通りの人物が国淵だった様に思います。
尚、国淵の最後は在職中に亡くなったとある事から、突然倒れて亡くなってしまった可能性もあるでしょう。
さらに、魏書には曹操が国淵の子である国泰を郎に任命した記述がある事から、曹操よりも前に亡くなった事が分かります。
国淵の最後は、曹操が亡くなった紀元前220年よりも前という事になるのでしょう。
正史三国志には記載がありませんが、曹操は国淵の死を惜しんだはずです。