春秋戦国時代

長平の戦いを徹底解説

2021年2月24日

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宮下悠史

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キングダムという漫画は、中国の春秋戦国時代を舞台にした漫画ですが、非常に人気があります。

そこで、「長平の戦い」という言葉が度々出てきますが、長平の戦いとはどのような戦いだったのでしょうか?

私が分かっている情報を全て書いてみたいと思います。尚、ウィキペディアよりも詳しくお話します。

尚、キングダムのお話は、長平の戦いよりも後の時代の話しです。

ちなみに、長平の戦いは紀元前260年ですが、秦王政が生まれた年は翌年の紀元前259年となります。

キングダム27巻の信(李信)の言葉で「俺は長平みてえなことは絶対にやらねえし絶対やらせねえ」は名言だと感じています。

信が激昂するほどの酷い戦いだったと言う事です。

今回は戦国時代最大の激戦と呼ばれる長平の戦いを徹底解説します。

戦国七雄と呼ばれたの戦いとなります。

長平の戦いの動画

ゆっくり解説ですが、長平の戦いの動画となっています。

視覚的に分かりやすくなっています。

范雎の韓を分断する戦略

下記の図は長平の戦い前のの国土ですが、南北に長い事が分かります。

韓の南部には首都の新鄭があり、上部には広域である上党郡がありました。

形はいびつではありますが、長平の戦い前の韓の領土はひょうたんの様な形をしていたわけです。

ここで当時の秦の宰相である范雎(はんしょ)が、秦王(昭王)に野王の城を落とす様に進言します。

つまり、韓の野王の地を落とせば、韓は南北で交通が遮断されてしまい、韓の上部にある上党の地も手に入るという算段です。

もちろん、韓の方も野王が落ちれば、国として国力はかなり落ちますし、必死に抵抗したわけですが、結局は野王の地は秦の手に落ちました。

これにより韓の領土は、南北に分断されてしまい人の行き来も出来なくなってしまったんです。

尚、野王を攻略した将軍はキングダムで言う6大将軍筆頭である白起と言われています。

韓の対応策

の方では、野王を秦から奪い返す事は出来ないと判断し、上部の上党の地を秦に入れる事にしました。

そこで、韓は秦に陽城君を入れ、上党郡を秦に割譲すると秦の宰相である范雎に約束します。

普通で考えれば、これにより上党の地は秦の領土になる予定でした。

韓の桓恵王は、公子の韓陽を上党に派遣し、上党郡の太守に秦に領土を差し出す様に命令します。

しかし、上党郡の太守である靳黈(きんとう)は、「水を汲むしか能のない男でも器(コップ)は無くさない」といい韓陽の指示を受けませんでした。

靳黈は「自分は上党郡の太守としては有能な人ではないかも知れないが、何もせずに領土を失ったりはしない」と意地を見せたわけです。

韓は、と共に、春秋時代の強国であるから分裂した国ですが、初期の昭公の代に宰相である申不害が活躍した時期を除けば戦争では連戦連敗みたいな感じの国です。

その国でも、意地を見せる人物がいた事になります。

しかし、靳黈の行動に困ってしまったのは韓の桓恵王です。范雎に約束してしまった手前、上党郡を秦に渡さなければ欺いた事になってしまいます。

そこで、上党郡の太守であった靳黈を罷免し、 馮亭を上党郡の太守に任命しました。

馮亭は上党郡に到着するわけですが、この 馮亭なる人物も秦に土地を割譲する事には反対でした。

そこで、馮亭は策を立てます。

馮亭の策は、上党の地を秦ではなく、趙に入れるという策です。

趙に入れる事が出来れば、秦は怒って趙を攻めると考えました。

つまり、韓は土地は減ってしまいますが、災いを趙に移すことが出来る策です。

馮亭の狙いとしては、上党が単独で秦と戦う事は出来ないが、趙と連合する事が出来れば、秦にも対抗できると考えたのかも知れません。

馮亭は使者を密かに趙に入れ、確認する事になります。

趙の宮廷で揉める

この時の、趙王は孝成王です。父親の恵文王が亡くなり即位してから日が浅い王様です。

さらに、趙の恵文王の時代に活躍した廉頗は年老い、藺相如は重病、閼与の戦いで秦の胡傷を破った趙奢は既に亡く、から亡命してきた楽毅も亡くなっていたのでしょう。

趙の孝成王の時代の最初期にの名将田単が、の宰相になった記述がありますが、この時には斉に帰ったか亡くなっていたのかも知れません。

趙の孝成王の先代である恵文王の時代の名臣がいなくなり、李牧龐煖(ほうけん)は、まだ将軍にもなっていなかったのでしょう。

趙にとって人材の谷間の時期が、長平の戦いが起きた時代とも考えられます。

趙の宮廷内では議論がでました。

戦国四君の一つに数えられる平原君は、「何もせずに広域である上党郡が手に入るんだから受けた方がいい」と言います。

それに対して、趙の重臣である平陽君は「怒って秦が攻めて来る事は明白なので受けない方がいい」と進言しました。

ここで、趙の孝成王は平原君の意見を入れて、上党を趙の領土にしました。

尚、この時に孝成王は不思議な夢を見たと記録が残っています。

飛竜に乗った孝成王が天に昇りますが、途中で落ちて墜落してしまう夢です。

普通に考えれば不吉な夢です。

後にこれが、長平の戦いがどのようになるかの正夢となります。

長平の戦いが始まる

は平原君を使者にして、上党の地を趙の領土にしました。

馮亭は、太守に任命されますが、「自分は韓を裏切った者で手柄はない」と涙を流したとされています。

の方では、仕方がないので使者を秦に入れて、状況を説明しました。

もちろん、秦王(昭王)は怒り、上党に軍を派遣します。

これに対して、趙は廉頗を将軍として、上党に派遣しました。

これにより、戦国時代最大の戦いと呼ばれている長平の戦いが始まったわけです。

廉頗が将軍として出てきたと言う事は、廉頗は平原君の上党の地を受け取る案に賛成だったのかも知れません。

尚、この時は既に趙の名将であり閼与の戦いで、見事に秦軍に大勝した趙奢は既に亡くなっているので、趙軍に秦に対抗できる将軍は廉頗しかいないと判断して派遣された可能性もあります。

廉頗が苦戦する

長平の戦いが始まったわけですが、趙軍は名将として名高い廉頗が将軍です。

ただし、廉頗は既に高齢になっていたと思われます。

それに対して、秦軍は王齕(おうこつ)を将軍として派遣しました。

キングダムでいう所の「戦争の自由」を与えられた秦軍の6大将軍です。

廉頗は名将として名高いのですが、この時は苦戦してしまいます。

局地戦が行われましたが、そのたびに趙軍は負けてしまい都尉を一人失ったとされています。

都尉というのは、の中でもある程度の位にある人物だと思えばよいでしょう。

そこで、廉頗は城に籠り出撃しなくなりました。自分の部下に対しても一切、出撃を許さなかったそうです。

廉頗は持久戦に持ち込みました。

なぜ持久戦に持ち込んだかは、様々な説があり、秦軍の疲れを待った説や外交により打開策を期待したなどの説が有力です。

この時の廉頗は守りばかり重ねているようにも思えますが、見え方によっては秦軍が攻めあぐねている状態です。

秦軍も局地戦では勝ったが、決定的な勝利をおさめる事は出来ていません。

虞卿の意見を退ける

の宮廷の方ではと和議を結ぼうという話も出てきます。

秦に使者を入れて上党郡を趙と秦で分けて治めるという方法です。

しかし、ここで意見が割れます。

平陽君や桜昌は趙の貴人である鄭朱を秦に入れて和平の交渉を進めようと進言します。

それに対して、虞卿は講和に関しては反対しませんが、別の意見を進言します。

使者をに入れるようにしてから、秦と和平交渉するように進言したのです。

魏と楚に使者を入れれば、秦側としては趙・魏・楚で合従の同盟を結んだかのように見せかける事が出来ます。

もちろん、本当に合従の同盟をしても構わないでしょう。

魏と楚に使者を入れる事で、秦を恐れさせて有利な条件で講和が成り立つ策です。

しかし、孝成王は虞卿の策を退けて、平陽君や桜昌の策を採用します。

趙の貴人である鄭朱を秦に和平の使者として入れたのです。

秦の昭王と范雎は、鄭朱を厚くもてなしました。

これを聞いた魏と楚は秦と趙が和議が結ばれると思い干渉を一切しなかったそうです。

これにより趙は他国の援軍を呼ぶ事も出来なくなりました。

ちなみに、鄭朱は厚くもてなされましたが、昭王と范雎は和議を許しませんでした。

廉頗が解任されて、趙括が将軍となる

長平の戦いですが、趙軍は40万いたとも言われていて、秦軍よりは兵士の数は上回っていたようです。

秦軍の兵士の数は、資料によって違っていてイマイチ分かりません。

長平の戦いの戦場に戻りますが、廉頗は防御を固めて戦場を守り切っていました。

しかし、40万の大軍を擁しながら、守りを固めてばかりで戦おうとしない事に趙の孝成王はいら立ちを見せ始めます。

さらに、范雎はに噂を流します。

噂の内容は「廉頗は年老いた!昔のような活躍は出来ない。秦軍が恐れているのは趙括が将軍となることだ!」

このような噂を流したのです。

趙の孝成王は廉頗に対して苛立っていた所に、悪い噂が入って来た事で廉頗を解任して趙括を将軍に任命しようとしました。

趙奢の予言

趙括の話をしますが、趙括はの名将である趙奢の息子です。

趙括は、兵法を好み弁も立ち時には兵法論で趙奢を言い負かしたりしたそうです。

これにより、趙括は当時としては名高い人物で趙奢の後を継ぎ立派な将軍になると期待されていました。

しかし、趙奢はこれを良しとせずに、趙括を将軍にしてはいけないと宣言していたようです。

趙奢のいうには、「戦いとは生き死にの場であるのに、趙括は無造作に論じてばかりいる。将軍になったら趙軍を壊滅されるのは趙括だろう」と趙括の敗北を予言していたそうです。

さらに、自分の妻にも趙括を将軍に任命されそうになったら、拒否させるように伝えておいたとされています。

趙括の母親が廉頗解任に反対

趙括が将軍に任命されました。すると、趙括の母親が孝成王に面会を求めます。

孝成王は、母親が面会を求めた事に不思議がりますが、母親が意外な事を言います。

それは、「趙括を将軍にしてはならない」というのです。廉頗の解任に母親が反対したわけです。

趙括の母親は、の名将である趙奢の妻です。

母親の言うには、私は趙奢の妻として将軍とはどのような者で、なければいけないか分かっていると言います。

父親である趙奢は出陣命令が出れば家の事は一切、構わなくなり戦いに勝つ事ばかりを考えていた。

さらに、部下に対しては大変気を使い、王様から頂いた物も全て部下に配ってしまい自分は質素に暮らしていたと言います。

それに対して、息子の趙括は部下に対しては威張ってばかりいて、部下は顔を上げる者は一人もいない。

王様から頂いたものは、全て自分の物にして、土地の物色ばかりをしていると言ったそうです。

趙奢と趙括では、将軍としての心掛けが違い過ぎていて、あれでは大成できないと言うのです。

しかし、孝成王は母親の話を聞こうとしません。

そこで、母親は長平の戦いで趙括が失敗したとしても、一族に罪は問わないと約束させます。

尚、この約束は守られたようで、趙括が長平の戦いで敗れ去り趙軍40万が白起に生き埋めにされても、一族に罪を問わなかったようです。

ただし、異説として趙の孝成王は趙括の一族の罪は問いませんでしたが、民衆は趙括や母親の一族を許す事が出来ず、趙括の一族は名前を変えた話があります。

趙姓から変えたのが、馬服君から取った「馬姓」であり、三国志馬超に繋がって行く話も存在します。

藺相如が諫める

廉頗解任の噂を聞きつけた藺相如は、重病にも関わらず宮廷に行き孝成王を諫めます。

ちなみに、藺相如はキングダムでいう所の、超国・旧三大天の一人です。

尚、廉頗と藺相如は最初は仲が悪かったのですが、色々とあり仲良くなり刎頸の交わりを結んだ事で有名です。

その藺相如が孝成王に廉頗解任を反対しました。

しかし、孝成王から見れば廉頗と藺相如は仲がよいから、廉頗を庇っているだけに見えたのかも知れません。

藺相如というのは、圧倒的な力を持っていた、秦の昭王ですら怒鳴りつけるような豪胆な人です。

しかし、この時は重病ですし強く反対する事が出来なかった可能性も高いです。

元気な藺相如が宮廷にいれば、そもそも廉頗解任などの意見も出なかった可能性もありますし、孝成王もかなり気を使ったのではないかと思います。

尚、史記での藺相如の最後の登場が廉頗解任に反対したことなので、藺相如は長平の戦いの直後か、戦っている最中に亡くなったと思われます。

白起出陣

は将軍が廉頗から趙括に変わりました。

それに対して、秦軍の方も総大将を王齕から白起に変えます。

尚、王齕は白起将軍の副将になったとされています。

実績十分の白起なので、王齕も潔く譲ったのでしょう。

白起の方も廉頗が将軍であれば苦戦したり、膠着状態が続き攻めようにも攻めあぐねると考えて、趙括が将軍になったのを見透かして秦の昭王に出陣を願い出たのかも知れません。

現在、キングダムでは最高峰の将軍とされる王翦は、白起にも劣らぬ将軍と廉頗に評価されています。

司馬遷が著した史記では、白起と王翦は白起王翦列伝でまとめて紹介されています。

趙軍が大敗する

趙括が将軍になると、廉頗の取り組み方を全て変えてしまいます。

そして、趙軍の方が兵力が多い事を理由に、打って出る事を決定します。

40万の大半を出撃させてしまい、秦軍に突っ込んで行きます。

それに対して、白起は兵を二つに分けて一つに軍は伏兵としました。一軍はわざと負けて趙軍を城から引き離す作戦です。

趙括はその作戦に見事に引っ掛かり、大軍をいいことに秦軍を追いかけ回します。

しかし、秦軍の伏兵に背後の城を取られてしまい、退路を断たれてしまいます。

ここにおいて、40万という大軍が孤立してしまったわけです。

もちろん、40万人を食べさせるのは大変ですし、食糧難に陥ってしまいます。

孤立した趙軍は40日間を生き延びたとされていますが、人間同士の共喰いも始まったとされています。

凄まじい光景だったのでしょう。

ここにきて、趙括は覚悟を決めて、秦軍に突撃しますが、兵士はへとへとですし、趙括自身も秦軍の矢の的になり討死しました。

ここにおいて、長平の戦いは、秦軍の勝利が決まったわけです。

尚、漢書・馮奉世伝や資治通鑑によると、上党郡太守であった馮亭は、この戦いで戦死したとあります。

馮亭の心情としては、韓の桓恵王の命令に背いて趙に降ったわけであり、自分のやった事は正しかったのか?と自問しながら亡くなったのかも知れません。

40万人を生き埋め

趙軍40万人が降伏しましたが、40万人を趙に返してしまったら、再び秦軍に襲い掛かってくる事になるかも知れません。

ここで白起は、40万人を生き埋めにしてしまいます。

つまり、40万人を虐殺してしまったわけです。

本当に大量虐殺はあったのか?という話ですが、現在でも長平の戦いの古戦場に行けば人骨が大量に出て来るそうです。

この大量の人骨が趙軍の兵士だったとされています。

尚、趙軍で趙に帰還出来たのは、少年兵である400人だけだったそうです。

※40万人を本当に殺したのかは不明で、中国の史書は誇大表現が多く実際には4万人だった説もある。

戦後処理

40万人の兵士を生き埋めにされてしまいとしては国家の存亡の危機になります。

ここで、趙は城を5つと交換で秦に和議を申し込みます。

蘇代(蘇秦の弟)という人物が、秦に行き范雎に和議を申し込みます。

「ここで白起が趙を滅ぼせば白起が最高位となり、范雎はその下になる」といったわけです。

この時に、范雎は白起に手柄を立てさせたくないと思ったのか、白起に進撃を中止させる命令を出しています。

白起は趙を滅ぼす気があっただけに、無念でここから先は、范雎と白起は関係が悪化したそうです。

尚、長平の戦いは白起の最後の戦いでもあります。

ここで白起に趙を攻めさせていたら趙は滅亡して、始皇帝(秦王政)を待たずして中国を統一していた可能性も高いでしょう。

しかし、歴史は范雎が白起に進軍をやめさせた事で趙は滅亡を免れました。

白起の方は、長平の虐殺が死ぬ間際まで頭に残っていたようで、死ぬときに「自分が死ぬのは当然だ!長平の戦いでは40万人の虐殺したのは死に値する!」と言ったそうです。

これが長平の戦いの全貌です。

尚、ここでの和議は長続きせずに、数か月後に秦は趙に攻め込み邯鄲籠城戦が繰り広げられました。

平原君、信陵君春申君李同、毛遂が活躍する戦いです。

そこは、別の機会で話をしたいと思います。

長平の戦いで趙が負けた理由

長平の戦いでが負けた理由ですが、よく言われているのは平原君が領土を受け取る進言をした事と廉頗を更迭して趙括を将軍にしてしまった事です。

しかし、今回の戦いを見ると多くの要因が重なり趙軍が敗退した事が分かったのではないでしょうか?

まとめてみますと、下記のようになります。

韓の上党郡を受け取ってしまった

趙の孝成王が若かった(経験不足)

廉頗と孝成王が意思疎通に掛けた

楚と魏に使者を送り合従の同盟を結ばなかった

廉頗を更迭してしまった

藺相如が重病だった

これを見ると、に付け込まれる隙がありありで、趙の孝成王と秦の昭王と范雎の経験値の差がかなりあるように思いました。

それと、この時の王様が孝成王の父親である恵文王であったならば、忍耐強く廉頗の勝利を待った可能性もあるでしょう。

さらに、恵文王の父親である武霊王であれば、英雄的資質がある王様なので、白起とも互角以上に渡り合った可能性もある事でしょう。

しかし、後の孝成王を見てみると、長平の戦いでは敗北したけど、後の邯鄲籠城戦などを通じて大きく成長したように思います。

尚、長平の戦いで解任されてしまった廉頗は、これから9年後にが攻めてくるまで活躍の場は訪れなかったようです。

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