春秋戦国時代

平陽の戦い(紀元前234年・趙が10万を失う大敗北を喫する)

2021年4月22日

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宮下悠史

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紀元前234年に行われた平陽の戦いを解説します。

軍を率いる桓齮が趙軍を率いる扈輒を大破した戦いでもあります。

平陽の戦いで桓齮は趙兵10万を斬る大戦果を挙げた事実もあり、に大打撃を与えた戦いでもあります。

10万を超える兵士を斬った記録は、秦の昭王の時代に白起長平の戦いで勝利して以来ではないでしょうか。

平陽の戦いは司馬遷が書いた史記の始皇本紀に記述があり、架空の戦いではなく実際に起きた戦いです。

史記は簡略な記述しかなく、想像に任せる部分が大半なのですが、なぜ桓齮と扈輒が戦う事になったのかも考察してみました。

尚、戦国七雄の戦いを描いた漫画キングダムでは、秦の六大将軍の桓騎と趙の邯鄲の守護者扈輒の戦いとなっています。

龐煖の失脚

平陽の戦いで趙軍は10万の兵を失うわけであり、一大決戦があったはずですが、なぜ扈輒が兵を率いる事になったのか考えてみました。

平陽の戦いは桓齮と扈輒が激突する事になったわけですが、史書に扈輒の名前が登場するのは初めての事です。

平陽の戦いの2年前に秦は鄴攻めを行い鄴を陥落させる事に成功しています。

韓非子によれば、鄴を攻める前にの主力を率いた龐煖は、と戦い暴れ回った記録があります。

秦軍は趙が北方の燕に遠征している隙をつき鄴を攻撃する事になります。

燕を荒らしまわっていた龐煖ですが、趙の最南端にある鄴が秦軍に攻めらている事を知ると、急いで南下を始めました。

しかし、龐煖の救援が到達する前に、鄴が陥落してしまった話があります。

鄴の救援に間に合わなかった事が史書における龐煖の最後の記述で、その後はどうなったのか分かりません。

鄴が陥落した紀元前236年は、趙の悼襄王が崩御した年でもあります。

ここで龐煖が失脚したと言う事はないでしょうか?

趙の悼襄王の時代に趙の主力を率いていたのは、龐煖であり燕の劇辛を討ち取るなどの実績もあります。

しかし、紀元前241年にの奥地に攻め込み蕞を攻撃しますが、蕞を抜く事が出来ずに撤退しています。

龐煖は蕞の戦いで敗れ、紀元前236年の鄴の戦いでも救援に間に合わなかった事から、将軍を解任された様にも思います。

龐煖が失脚した事で、新たに任命された将軍が扈輒だという可能性はないでしょうか?

尚、龐煖は趙の武霊王の時代から名前がある将軍であり、紀元前236年の段階では老人だった説も存在し老齢の龐煖が寿命で亡くなった可能性もあるでしょう。

他にも、趙の悼襄王には気に入られていたが、龐煖は後継者の幽穆王には気に入られなかった様にも思います。

あくまで想像になりますが、龐煖の失脚により将軍になったのが扈輒だと感じます。。

扈輒が大軍を率いる事になる

鄴の戦いで注目したいのが、龐煖は救援に間に合わなかったと韓非子に記述がある事です。

救援に間に合わなかったと言う事は、龐煖の率いていた趙軍の兵士は減っていない事になります。

鄴の戦いで、龐煖が王翦、桓齮、楊端和に大敗して鄴を奪われたのであれば、兵数は激減するはずです。

しかし、龐煖は救援に間に合わなかった事で、の主力は温存されたとも見る事が出来ます。

龐煖が鄴に向かった時の趙の主力軍を引き継いだのが扈輒の様に思いました。

龐煖の軍を引き継いだ扈輒が平陽の戦いで桓齮と戦った様に感じます。

桓齮が秦軍を率いる事になる

桓齮が秦軍を率いる事になった原因を考えてみました。

鄴攻めでは、王翦、楊端和、桓齮の三将で鄴を攻撃した記録があります。

しかし、史記などを記録を見る限りだと、鄴を陥落させたのは桓齮だとする記述があるのです。

それを考えると、鄴攻めで最も功績があったの将軍は桓齮だった様にも感じます。

秦王政(嬴政)は桓齮の功績を認め桓齮を秦軍の主力を率いる総大将に任じ、をさらに攻めさせたのではないでしょうか?

尚、平陽の戦いで、桓齮は10万を超える趙兵を斬っており秦軍もそれを上回る大軍だった可能性もあります。

平陽の戦いでの秦軍と趙軍の兵士の数は明らかになっていません。

ただし、国としての国力では秦が趙を圧倒している事もあり、秦の方が兵数は多かった可能性が十分にあります。

平陽の戦いが起きる

史記の始皇本紀を読むと次の記述があります。

始皇帝13年、桓齮が趙の平陽を攻め趙将扈輒を殺し首を斬ること10万であった。

史記だと簡略な記述ではありますが、平陽の戦いが史実として存在した事が分かるはずです。

ただし、別の場所では違った記述があります。

秦が武城を攻めた。扈輒が軍を率いて救援に行ったが破られて戦死した。

上記は趙世家の記述ですが、これを見ると扈輒が武城に救援に行ったが敗れて戦死した事が書かれています。

これを考えると扈輒は武城に向かったが、桓齮が平陽で待ち構えていて、後詰決戦を行い桓齮が大勝した可能性も十分にあるでしょう。

趙の趙奢と秦の胡傷が戦った閼与の戦いなどは戦いの詳細が書かれている為、概要は分かりますが、扈輒と桓齮が戦った平陽の戦いは簡単な記述しかなく戦いの詳細は不明です。

ただし、桓齮が扈輒を完膚なきまでに破った事だけは事実なのでしょう。

扈輒が桓齮に敗れ10万の趙兵が斬られた事で、は大打撃を受ける事になります。

李牧が大将軍となる

平陽の戦いで扈輒が桓齮に敗れた事で、は一度に10万の兵士を失う事になります。

一度に10万の兵士を失えば、趙の幽穆王は青くなってしまったはずです。

扈輒率いる10万の兵士が斬られた事で、趙は首都の邯鄲近辺の人口が激減してしまい、兵士を集めるのが困難な状況になってしまった可能性もあるでしょう。

この時に李牧は代の長官をやっていて、李牧に白羽の矢が立った様に感じます。

李牧は過去に匈奴を相手に大打撃を与えていた事から、北方は安定し趙の幽穆王は代の李牧を南下させ秦軍と戦わせようとした様に思います。

この当時の秦と趙の国力の差は10倍以上あったと思いますが、絶望的な状況の中で李牧が奮戦する事になります。

平陽の戦いで趙に大打撃を与えた事から、桓齮もあと一歩で趙を滅ぼす事が出来ると思っていたかも知れませんが、李牧が立ちふさがる事になります。

扈輒を平陽の戦いで破った桓齮は次に李牧と決戦を行う事になるわけです。

結果を先に行ってしまえば、李牧は桓齮を破る事になります。

秦は平陽の戦いで勝利し、趙を滅ぼす段階となりますが、李牧が趙の最後の壁になると言う事です。

秦の統一戦争は、平陽の戦いから肥下の戦い宜安の戦い番吾の戦いに向かっていきます。

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