
ゼノビアはパルミラ帝国の女傑と呼ぶべき人物です。
才色兼備の魅力的な女性でもあったのでしょう。
オデナトゥスの妻となり、オデナトゥスが亡くなると実権を握りました。
パルミラ帝国の君主はゼノビアの子のウァバッラトゥスでしたが、年若く母親のゼノビアが実権を握る事になります。
エジプトやアナトリアの中部までを制圧しローマ帝国から独立すると、ゼノビアが自ら女王として君臨しています。
しかし、エメサの戦いでローマ皇帝・アウレリアヌスに敗れると、パルミラで籠城戦を展開する事になります。
アウレリアヌスの降伏勧告も撥ねつけますが、最終的に捕虜となりました。
その後は平和に暮らしたなどの説もありますが、はっきりとしない部分が多いです。
ゼノビアは悪女として描かれる事も多いですが、シリアでは英雄であり、500ポンド紙幣にはゼノビアの顔が印刷されています。
尚、3世紀の女傑と言えば、邪馬台国の卑弥呼を思い浮かべる方もいるかと思いますが、卑弥呼が魏に使者を派遣したのは、紀元前239年頃であり、ゼノビアよりも少し前となります。
ゼノビアの出自
ゼノビアはギリシア語やラテン語の文献に見られる名であり、パルミラ語の碑文ではバト=ザッバイと記録されています。
名前の意味は「ザッバイの娘」となります。
ゼノビアに関する資料はパルミラから出土した僅かな碑文や貨幣、後代に書かれた「ローマ皇帝紀」「ローマ末期史」位であり、不明な点もかなり多いです。
父親はアンティオコスであり、アラブ系ではないかとみられていますが、アラム人だったとする説もあります。
セウェルス家と関係のある人物ともいわれています。
西暦240年か241年頃に生まれたともされていますが、はっきりとした部分は不明です。
パルミラの碑文ではバト=ザッバイになっているのに、なぜゼノビアと呼ばれる様になったのかもよく分かっていません。
ゼノビアの美しき姿
当時のパルミラ帝国の貨幣にゼノビアの姿が描かれており、小柄で華奢な体と口元に引き締まった顔立ちとなっています。
肌の色は浅黒く、瞳は輝き、真珠の様な輝く歯を持ち、澄んだ男性のような声だったと言います。
宮廷では豪華な生活を行い財宝を多く持ち、狩猟を好んだと言います。
ゼノビアは西アジアで最も気品が高く、最も美しい女性であったと伝わっています。
教養高き女性
パルミラ王国では公用語としてパルミラ語を喋っていましたが、ギリシア語も多く使われていました。
パルミラは隊商都市でもあり、複数の言語が使われていたのでしょう。
ゼノビアはラテン語とエジプト語、アラビア語、シリア語なども喋る事ができ、複数の言語を操れた事が分かっています。
こうした事情からクレオパトラの再来と呼ぶ声もあります。
親プラトン派のロンギノスをもちい、ギリシア語でローマ史を読み、自らも「東方諸国史」を著したと言います。
これを見る限りでは、ゼノビアは明らかに才女と呼べる存在だったはずです。
パルミラの本拠地はシリアであり、ゼノビアはシリアの文化も尊重しつつ、ペルシアやギリシア、ローマなどの文化も吸収しました。
ゼノビアの文化的な貢献も大きかったのでしょう。
ユダヤ教やキリスト教に対しても、理解を示したと言います。
オデナトゥスとの結婚
ゼノビアはパルミラ最高責任者であるオデナトゥスの妻となりました。
これが西暦258年だと伝わっています。
オデナトゥスはササン朝ペルシアの最盛期の王であるシャープール1世を急襲し、破ったパルミラの英雄的な人物でもあります。
ガリエヌス帝はオデナトゥスを高く評価し、ローマ軍の東方最高司令官に任命しました。
ゼノビアがオデナトゥスの妻になった経緯に関してはよく分かっていません。
しかし、美貌で教養も高いゼノビアは魅力的な人物であり、オデナトゥスも高く評価したのではないでしょうか。
オデナトゥスとゼノビアの間に誕生したのが、後にパルミラ王となるウァバッラトゥスです。
ゼノビアはクレオパトラならびに、プトレマイオス朝の末裔と誇示していたと言います。
それでいて、臣下たちにはペルシア式の平伏礼をもとめ、パルミラの将軍や政府高官、ペルシア人やアルメニア人の有力者を招き、ペルシア式の大宴会を催しました。
ゼノビアの時代が始まる
267年にオデナトゥスとヘロデスが暗殺され、ウァバッラトゥスが後継者になりました。
ただし、ウァバッラトゥスは子供であり、実権を握ったのはゼノビアとなります。
ゼノビアは自分の子であるウァバッラトゥスに、東方最高司令官の座を継承させました。
オデナトゥスの死で実権を握ったのがゼノビアであり、彼女が暗殺したとする説もありますが、はっきりとしない部分となっています。
ゼノビアが悪女にされてしまう最大の理由は、オデナトゥスを暗殺したのではないかと考えられているからですが、実際のところゼノビアがオデナトゥスを暗殺した証拠はありません。
オデナトゥスが没すると、ローマ帝国のガリエヌス帝はヘラクリアヌスを使って攻撃を仕掛けてきますが、ゼノビアは反撃し撃退しています。
ゼノビアは女性ではありますが、夫のオデナトゥスの遠征軍に加わっていた話もあり、軍事の素人ではなかったのでしょう。
宴会を通じて、将軍たちともコミュニケーションは取れていたとみるべきなのかも知れません。
ゼノビア自身も外出する時は馬車よりも乗馬を好み、歩兵と共に行軍した記録もあり、男勝りな性格でもあったはずです。
オデナトゥスの死後に大衆に姿を見せた時は、男装をして現れたと伝わっています。
他にも、ローマ帝国の多くの軍人皇帝よりも、ゼノビアの方が優秀だったとする評価もあります。
ゼノビアが女王として君臨
269年頃にローマ帝国はゲルマン民族に悩まされ、クラウディヌス帝が世を去り、アウレリアヌス帝が即位しました。
ローマ帝国は混乱し、このタイミングでゼノビアは一気に攻勢に出て、エジプトやアナトリア中部まで支配力を及ぼす事になります。
当時のエジプトはローマで使う小麦の、三分の一を生産したとされており、ここをパルミラ帝国に占拠されるのは死活問題でした。
さらに、大都市のシリアのアンティオキアとエジプトのアレクサンドリアも支配し、この時点ではパルミラ帝国にかなりの勢いがあったと言えるでしょう。
270年頃にローマ帝国と協定が結ばれますが、直ぐに破棄され敵対関係となります。
この時点でローマ帝国はパルミラ帝国、ガリア帝国と三分されていた事になるでしょう。
アンティオキアやアレクサンドリアでは、ゼノビアの胸像が描かれた貨幣も製造されており、ゼノビアも女王として前に出て行く事になります。
西暦271年8月の碑文には、セプティミア=バド=ザッバイは最も傑出した女王として描かれており、パルミラ軍の総司令官ザブダー(ザブダス)やザッパイ(ザッパイオス)が女主君(ゼノビア)の為に建てたとあります。
この碑文ではゼノビアは女王となっており、軍の総司令官よりも上の存在であり、女王として君臨している事が分かるはずです。
降伏勧告
272年になるとローマ帝国のアウレリアヌス帝は自らパルミラ帝国の討伐に赴きました。
ゼノビアは自ら陣頭に立ったなどの話もあり意気込んで、ローマ帝国とイマエの戦いを行うも敗れています。
パルミラ帝国はエメサの戦いでも敗れ、ゼノビアは本拠地のパルミラを包囲される事になります。
ローマ帝国の軍はイマエとエメサの戦いで勝利し楽勝ムードが漂いますが、総司令官のアウレリアヌスは「お前たちはゼノビアの本当の力を知らない」と述べた話があります。
アウレリアヌスには慢心はなかったと言えるでしょう。
ゼノビアの栄光の日々は短く、この時点で窮地に立たされていました。
こうした中で、アウレリアヌスはパルミラ帝国に揺さぶりを掛ける書状を送る事になります。
アウレリアヌスはゼノビアと、それに味方した人々が降伏すれば、生命の安全を保障するとしました。
ただし、ゼノビアに対しては子供たちと共に、ローマの元老院の意思に従い指定された場所に移住する様にと告げたわけです。
ゼノビアは降伏すればパルミラを没収される事は確実でした。
さらに、ゼノビアが所持する金、銀、絹、馬、駱駝、宝物を全てローマに引き渡す様に命令しています。
アウレリアヌスは条件を呑めば、パルミラの人々の権利を保持するとしました。
これに対し、ゼノビアは次の様に返信しました。
ゼノビア「この様な要求を今まで見た事がない。
戦争というものは勇気を持って行い完遂する必要がある。
あなた(アウレリアヌス)は降伏を促しているが、クレオパトラが高い地位で生きながらえるよりも、死を選んだ事を知らないのか。
我々にはペルシア(ササン朝)からの援軍があるし、それを待っている状態だ。
それに、アラビア人もアルメニア人もいる。
アウレリアヌスよ。貴方の軍はシリアの盗賊にも敗れている。
これ以上は何もいう必要がない。
これから来る各地からの援軍が到着すれば、降伏を迫るなどの尊大な態度は出来なくなるであろう」
ゼノビアはアウレリアヌスの降伏勧告を拒絶したと言えるでしょう。
ただし、この時点で最大勢力の援軍として期待していたササン朝ペルシアのシャーブール1世は死の直前であり、パルミラ帝国に援軍を送れるような状態ではなかったと考えられています。
パルミラ帝国の滅亡
ゼノビアはアウレリアヌスの降伏勧告は拒否しましたが、ササン朝の援軍もなく劣勢を覆すのは難しい状態でした。
こうした中でゼノビアは夜陰に紛れ駱駝に乗り、パルミラからの脱出を試みています。
ゼノビアはササン朝ペルシアを目指し、シャープール1世に自ら援軍要請をするつもりだったとも考えられています。
しかし、ゼノビアはユーフラテス川の付近で捕まり、パルミラ帝国も降伏しました。
パルミラの有力者は全て処刑され、息子のウァバッラトゥスも世を去りました。
パルミラ帝国はゼノビアの時代に一気に拡大しましたが、滅亡するのも早かったと言えるでしょう。
ゼノビアとアウレリアヌス
ゼノビアはアウレリアヌスに討伐され、降伏勧告も拒絶し敗れました。
捕虜となったゼノビアですが、ローマ側の記録では「命乞いをし将兵に騙されてやっただけ」と述べた話もありますが、真実は不明です。
しかし、意外にもアウレリアヌスがゼノビアに対し、好意的だったとする話があります。
アウレリアヌスはゼノビアを捕虜にすると、自ら話し合いの場を持ち接したとも伝わっています。
ゼノビアを厚遇し、非難する者が出れば「オデナトゥスの功績を忘れてはならない」と述べたと言います。
ゼノビアの最期がイマイチよく分からない事から、ローマ市民を集めて派手に処刑したなどの事はないのでしょう。
尚、アウレリアヌスにしてもゼノビアが処刑される事で、ゼノビアが反ローマの英雄として扱われ、ローマに対して反乱を起こす者が多数出ると考え処刑出来なかった説もあります。
その後のゼノビア
捕虜となったゼノビアですが、ローマ帝国紀にその後の様子が描かれています。
パルミラ帝国を滅ぼしたアウレリアヌスは274年に凱旋式を行いました。
ゼノビアは捕虜として黄金の鎖に繋がれ引かれたとあります。
捕虜となり見世物にされたのでしょう。
屈辱は味わいましたが、ゼノビアはティブルに領地を与えられ、その土地で結婚しローマの貴婦人として子供たちと余生を送ったとも記録されています。
勝者のアウレリアヌスは紀元前275年に部下に殺害されており、ゼノビアの方が、長生きしたとする説もあります。
別説もありゼノビアの娘二人がローマの元老院議員の妻となり、ゼノビアもローマから年金を支給され、穏やかに暮らしたと言います。
ただし、バッドエンドな記録もありローマ末期史にはローマに連行される途中で、病気または断食により世を去ったと言います。
それでも、ゼノビアの最期はよく分からず、その後に政界復帰したなどの事はないのでしょう。
伝説ではゼノビアの血筋は途絶えずに続き、ユスティニアヌス帝の妻のテオドラまで行き着くとされていますが、真相は不明です。
ゼノビアの評価
イギリスの歴史家のギボンがゼノビアの事について述べています。
※ローマ帝国衰亡史(中野好夫訳)より
かの古代女王セミラミスの功罪を別にすれば、おそらくゼノビアこそは、アジアの風土風習が女の性(サガ)として与える隷従怠惰の悪癖を見事に打破してのけた。
ほとんど唯一の女傑だったのではないだろうか。
パルミラ帝国は短期間で崩壊しましたが、マルチな能力を発揮したゼノビアは女傑と呼ぶにふさわしい人物だと考えたのでしょう。
現在のシリアではゼノビアは、ローマ帝国に立ち向かった女性として人気があります。