
| 名前 | アラム人 |
| コメント | アラム語やアラム文字で有名 |
アラム人は古代オリエントで活躍した民族です。
紀元前1200年のカタストロフの後に勢力を伸ばしました。
同時期にフェニキア人が海洋交易で勢力を拡大しましたが、アラム人は内陸部の商業で勢力を拡大しました。
アラム人は多くの都市を建設しますが、ダマスクスが最強であり、アラム王国と言えばアラム・ダマスクスを指すのが普通です。
アッシリアが勢力を縮小すればアラム人が勢力を伸ばし、アッシリアが勢力を拡大すれば、アラム人は勢力を縮小しました。
アラム王国はハザエルの時代に全盛期を迎えますが、最後までアラム人の統一国家は誕生しませんでした。
最終的には強大になったアッシリアに滅ぼされています。
しかし、アラム人は商業の為に各地におり、使い勝手の良さからアラム語やアラム文字が普及しており、古代オリエントの国際共通語となりました。
尚、アラム人はフェニキア人やヘブライ人と共にセム語系三民族の一つに数えられています。
アラム人とは
アラム人はアラム語を話す遊牧民及び半遊牧民を指します。
紀元前2千年紀の終わり頃に、肥沃な三日月地帯に侵入しました。
アラム人の源郷はシリア・アラビア砂漠とする説やエラム近辺とする説があります。
アラム人はセム語系の遊牧民であり、何世紀も掛けてシリア北東部のビシュリ山地を超えてやってきたと考えられています。
アラム語やアラム文字が有名ですが、アルファベットに関してはフェニキア人から学び改良したと伝わっています。
紀元前1200年のカタストロフにより過去の超大国であるヒッタイトやカッシートが滅亡する中で、アラム人はフェニキア人と共に勢力を拡大する事になります。
尚、新バビロニア帝国を築いたカルデア人は、元はアラム人だったとする説もあります。
ただし、大部族のカルデア人に対し、アラム人は40ほどの部族に分散されており、バビロニアでは王朝を樹立する事が出来ませんでした。
アラム人やカルデア人の侵攻によりバビロニアは混乱したと伝わっています。
実際に海の国第二王朝、イシン第二王朝、バズ王朝などはアラム人が脅威となっていた記録が残っています。
紀元前1200年のカタストロフで東地中海の沿岸で海の民が脅威になっていた話がありますが、内陸部ではアラム人が脅威になっていたとみる事も出来るはずです。
紀元前9世紀から紀元前8世紀頃に成立した「エラ神話」は、アラム人などの異民族の侵攻にバビロンが崩壊し、バビロニアが衰退する様子を描いたとされています。
中バビロニアの時代から紀元前12世紀末頃までに、アッシリアやバビロニアに侵攻したアフラム人の名前が確認されていますが、アフラム人もアラム人だったのではないかとする説もあります。
他にも、アムル人の一派と考えられるストゥ人も紀元前14世紀末以降は、アラム人と同化していったと考えられている状態です。
アラム人の勢力拡大
民族移動と言えば難民となり、都市を襲うなどのイメージがあるのかも知れませんが、実際には世界的な混乱により無人となった耕作放棄地を手に入れるなどの場合が多かったようです。
アラム人は古い都市国家の文化や制度を吸収し、シリア北部で発展していく事になります。
アラム人に対する最初の確実な言及は、アッシリアのティグラト・ピレセル1世であり敵として「アフラメ・アルマヤ」がおり、これがアラム人だと考えられています。
アラム人の浸透地域はシリアだけに留まらず、ユーフラテス川やチグリス川など広範囲に及んでおり、カルデア人と共にバビロニアにまで到達した者までいた事が分かっています。
紀元前1050年から紀元前930年頃に、アラム人はアッシリアに暗黒時代をもたらしました。
ただし、アッシリア人も元の土地を取り戻そうと考え、アラム人の領土となった地に攻め寄せてきますが、アラム人は一旦は撤退し、アッシリア軍が去ると戻ってくる事も多かったようです。
アラム人とダマスクス
ダマスクスに到達
ティグラト・ピレセル1世の治世にアッシリアは勢力を回復させましたが、治世の後半には大飢饉により勢力を大きく後退させました。
アッシリアはシリアの領地を保つ事が出来ず、この時期にアラム人の独立国家がシリアで勃興する事になります。
紀元前11世紀末になると、アラム・ゾバの勢力は現在のダマスクスにまで到達しました。
アラム・ゾバはアラム人のベカー高原の北端にいる勢力であり、アラム族の連合体でした。
既にアラム・ゾバには都市国家も存在したともされている状態です。
後にダマスクスはイスラム国家のウマイヤ朝の首都となりますが、この時点では未開の地であり、ダマスクスの北に位置するアラム・ゾバの前線基地に過ぎませんでした。
ダマスクスの発展
ダマスクスは一集落に過ぎなかったわけですが、ここから大発展する事になります。
紀元前1200年頃にラクダが家畜化されました。
今までは砂漠は迂回せねばなりませんでしたが、ラクダが家畜化された事で、砂漠を直接通過する事が可能となったわけです。
ダマスクスはメソポタミアとアラビアの砂漠横断ルートの通過点となり、大量のラクダが揃えられ交易品が多く運ばれる事になります。
砂漠の端に位置するダマスクスは商品の集散地として優れており、アラム人は独自の産業も発展させています。
アラム人の金属加工や羊毛、織物なども作られ、高い評価を得る事になります。
砂漠を超えるとロバで移動し、フェニキア人のティルスやシドンに運ばれる事になりました。
当然ながら、ダマスクスを支配するアラム人は絶大なる恩恵を受けました。
ラクダの家畜化が無ければ、ダマスクスの経済発展はなく、アラム人の発展も無かったのかも知れません。
後にダマスクスはアラム人の最大都市となります。
尚、アラム人は商業で生計を立てる場合が多く、アラム語やアラム文字は古代オリエントの世界で爆発的に普及する事になります。
エズロンの王位簒奪
アラム・ゾバでは支配者の一族の間で、争いが起きる様になります。
ヘブライ王国のソロモンの時代である紀元前965年頃に、アラム・ゾバの争いに敗れたエズロンの一族がダマスクスにやってきました。
この時にダマスクスには部族長がいたと考えられていますが、エズロンは王位を簒奪し独立する事になります。
アラム・ダマスクスは勢力を拡大させ、ヘブライ王国やイスラエル王国への防波堤の役目も果たしました。
紀元前931年以降にヘブライ王国がイスラエル王国とユダ王国に分裂したのも、アラム・ダマスクスには勢力拡大の追い風となっています。
アラム人諸都市の誕生
紀元前10世紀に入った頃には、アラム人はダマスクスだけではなく、ビート・アグシ、ハマテ、アラム・ツォバ、サマル、ビート・バヒアニ(グザナ)などの都市国家をシリアに建設しました。
メソポタミアではビート・アディニなどユーフラテス川の近辺でアラム人の都市が勃興しています。
アイン・ダラ遺跡なども発掘されていますが、アラム人の都市だったと考えられています。
アラム人の勢力拡大は、アッシリアにとっては脅威であり、国家的な危機意識がもたらされました。
ただし、アラムの都市はイスラエルなどと戦うだけではなく、アラム人の都市同士でも戦っており、繰り返しますが最後までアラム人の統一国家は誕生しなかったわけです。
カルカルの戦い
アラム人が纏まりを見せぬ中で、アッシリアのアダド・ニラリ2世は西征を行いました。
アッシュル・ナツィルパル2世も攻勢を強め、新ヒッタイトの諸国はアッシリアの宗主権を認める事になります。
こうした中であっても、アラム人のダマスクスは屈することはせず、ハマトと同盟を結びアッシリアに対抗しました。
新アッシリアはシャルマネセル3世の時代になると、大規模な西征が起こりました。
シャルマネセル3世に対し、シリア諸都市は同盟を結んで対抗しますが、この時に盟主になったのがアラム・ダマスクスのアダド・イドリ(ハダデゼル)となります。
この時にアダド・イドリは連合軍の中でも最大兵力を持っており、聖書によれば3900の戦車、1200の騎兵、30000の歩兵でカルカルの戦いに挑んだとあります。
アッシリア側の記録ではアッシリアが勝利した事になっていますが、実際にはカルカルの戦いでアッシリアの敗北もあり得ると考えられています。
アダド・イドリの采配が優れていたのか、その後も活動を継続しており、少なくとも大敗は無かったのではないかとされています。
カルカルの戦いは紀元前853年に行われましたが、この頃の反アッシリアの中心になったのが、アラム人だった事になるでしょう。
ただし、アッシリアの侵攻が継続されたのも事実であり、ダマスクスはアッシリアの支配を逃れた唯一の国にもなりますが、それと同時に孤立しました。
アダド・イドリが亡くなると、ハザエルが後継者になりました。
旧約聖書によると病気になっていたアダド・イラリをハザエルが暗殺した事になっています。
暗殺と言えば、イメージは悪いですが、このハザエルの時代にアラム人は全盛期を迎える事になります。
尚、ハザエルはアラブ人の血も流れているとされています。
アッシリアを退ける
紀元前841年にアラム・ダマスクスのハザエルはイスラエルへの侵攻を画策しましたが、ダマスクスの西のザバダニ高原にアッシリア軍が現れた事で遠征は中止しました。
ここで、ハザエルはダマスクスで籠城戦を展開し守り切りますが、アッシリアは周辺のオアシスで略奪を行っています。
アッシリア軍はハウラーン平原を進み、レバノンのドッグ・リバーの崖の上で石碑を立てています。
その後もアッシリアのシャルマネセル3世はアラムへの遠征を続けますが、大きな戦果を挙げる事は出来ませんでした。
アラム王国の全盛期
アッシリアが北シリアに矛先を向けると、ハザエルはイスラエルに侵略しました。
紀元前835年から紀元前805年にかけて、ハザエルは攻勢を仕掛けヨルダン川の東の大部分を制圧する事になります。
ハザエルは優れた軍事能力を持っており、シリアやパレスチナの大部分を支配しました。
ハザエルの時代にアラム王国(アラム・ダマスクス)は帝国となり、政治・経済において地位を確立しました。
ハザエルの時代にアラム王国は全盛期を迎えたと言えるでしょう。
それと同時に、イスラエルはアラム王国に圧迫されたと言えます。
アラム王国の衰退
紀元前800年頃にハザエルが亡くなると、息子のバル・ハダド3世が後継者となりました。
ザクル碑文によれば、ザクルを攻撃するも失敗したとあります。
さらに、アダド・ネラリ3世の碑文ではアッシリアの前に屈服し、膨大な額の貢納をしたと記録されています。
バル・アダド3世の時代にアラム王国は、イスラエルの支配権も失っており、衰退しました。
バル・アダド3世は紀元前792年頃に亡くなっています。
アラム王国により窮地に陥ったイスラエル王国は、アッシリアに救援を求めました。
アッシリアのアダド・ネラリ3世は紀元前770年以降にアラム王国を圧迫し、領土の一部を占拠しアラム王国は弱体化に拍車を掛ける事になります。
しかし、アラム王国が滅びてしまっては、今度はイスラエルがアッシリアに危機に晒される事になり、両者は手を組む事になります。
アラム王国のレツィンは紀元前735年頃までにティルス、ペリシテ、イスラエルと共に反アッシリア同盟を結成しました。
この時の盟主がレツィンだったわけです。
アッシリアのティグラト・ピレセル3世は、シリア北部のアルパド王国やハマト王国を降すと、次のターゲットをダマスクスとしました。
アラム王国のレツィンは、アッシリアに対抗する為にユダ王国に同盟を持ちかける事になります。
しかし、ユダ王国のアハズは、アラム王国やイスラエル王国との同盟締結を拒否しました。
これにより関係は悪化し、アラム王国とイスラエル王国はユダ王国を攻撃したわけです。
ここで、あろうことかアハズはアッシリアのティグレト・ピレセル3世に救援を望む事になります。
アラム王国に対抗する為に、アハズは危険な賭けに出たと言えるでしょう。
アラム王国の滅亡
アハズの要請を受けたティグレト・ピレセル3世は紀元前733年にフェニキアの海岸部に軍を発し、アラム王国とイスラエル王国の連携を断ちました。
アラム王国は本拠地のダマスクスに籠城する事になります。
干し煉瓦の防御壁で囲まれたダマスクスで守備に徹しますが、翌年である紀元前732年にダマスクスは陥落しています。
アラム王のレツィン及び側近らは処刑され、アラム王国は滅亡しました。
アッシリア側の文章ではアラムの16公国と591の集落は「洪水後の廃墟の様に破壊された」と記録されています。
ここでアッシリアはアラム人たちの多くを強制連行しており、アラム人は各地に住みアラム語が拡がる一因になったとされています。
アッシリアではアラム語を公用語の一つとしており、僅か22文字を覚えれば仕えるアラム文字も重宝され、オリエントの国際公用語となりました。
アラム人の王国は滅亡してしまいましたが、アラム語はペルシア帝国でも採用されています。
アラム人の現在
アラム人の国家は滅亡してしまいましたが、書籍『失われた古代文明・歴史に消えた40の民族』によると、現在もアラム人は孤立する小集団を形成し、あちこちに存在していると書かれていました。
つまり、未だにアラム人を名乗る人々はいるという事なのでしょう。
書籍の方では「あくまでも生き残るこの民族の能力は驚異的」と評価しました。
古代オリエントのアラム人と何処まで繋がっているのかは不明ですが、アラム人は滅びてはいない事になります。