
太子の劉盈(恵帝)は「仁弱」と評されたりもしており、性格が劉邦に似ていませんでしたが、劉如意は利発な子だったのか「自分に似ている」と劉邦も大きな期待を寄せていました。
戚夫人の願いもあり一時は太子を代えようともしますが、結局は太子になる事はなく、呂后の恨みを買う事になります。
劉邦が崩御すると、呂后の時代となりますが、長安に呼び出される事になります。
恵帝は劉如意に対し好意的でしたが、結局は暗殺されました。
尚、劉如意の立太子案には権力闘争が混ざっていたのではないかとする説があり、合わせて紹介します。
皇太子候補となる
劉如意は劉邦と戚夫人の子として誕生しています。
漢書には劉如意が高祖の9年(紀元前198年)に王となったと記録されており、趙王となった事が分かっています。
正室の呂雉が生んだ劉盈は心優しき性格ではありましたが、覇気に欠ける部分があり、劉邦は後継者として危ぶんでいました。
三男の劉如意の方は幼くも活発な子で、性格的にも劉邦に似ていたのか、可愛がられたと言います。
戚夫人の願いもあり劉邦自身も、劉如意を後継者にしようと考えたわけです。
しかし、重臣らの反対や呂雉が張良に相談し、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公らを招きました。
東園公らは劉邦も尊敬する程の者達であり、恵帝を支持し、叔孫通の諫めもあり、劉邦の後継者は劉盈に決まったと言えるでしょう。
劉如意は後継者候補から完全に外れました。
尚、劉邦は劉如意の身を心配し、趙堯の献策もあり、信頼している周昌を趙の丞相として守らせようとしています。
劉如意の立太子案の背景
劉如意の立太子案には、劉邦と呂后の間に権力闘争のせめぎ合いがあったとする説があります。
呂后は楚漢戦争では項羽の捕虜になってしまった事もありましたが、前漢に戻って来ると政治の中枢におり、権力を固めていく事になります。
楚漢戦争の大功臣である韓信や彭越の最期などは、呂后と強く関わっている状態です。
呂氏が勢力を伸ばす半面で、劉邦としても自分に近しい人物である盧綰を燕王にするなど、勢力を拡大しようとしました。
劉邦自身も自らが亡くなれば、劉盈が即位し呂后が権力を振りかざし、劉氏の者達が隅に追いやられて、最終的には滅んでしまうと危惧したとする説です。
劉如意が皇帝になった場合ですが、劉如意は戚夫人の子であり、呂氏の者ではありません。
さらに、劉如意が皇帝になった場合は、呂后も強権を振るう事は出来なかったはずです。
呂后が前漢で権力を握っていたのは、皇帝である恵帝の母親だったからでしょう。
これらを考えると、劉邦が劉如意を皇太子にしようとしたのは、呂氏の権力拡大を防ぐ狙いがあったのではないかとも考えられるわけです。
劉如意の危うい立場
紀元前195年に父親の劉邦が崩御しました。
恵帝が前漢の皇帝として即位しますが、呂后が実権を握る事になります。
呂后は実権を握るや劉如意の母親である戚夫人を逮捕し、幽閉しました。
戚夫人は趙王の劉如意に助けを求めたともされていますが、劉如意の耳に情報が入っていたのかは不明です。
呂后は劉如意を呼び寄せ始末しようとしますが、趙の丞相の周昌が「病気」だと述べて断りを入れています。
劉如意は劉邦が自らの後継者にと考えていた事もあり、呂后からしてみれば危険人物であり、放置すれば恵帝の皇位が揺らぐ可能性もあり、放置する事は出来なかったと言えるでしょう。
劉邦が崩御した事で、劉如意の身は一気に危険に晒される事になりました。
劉如意の最期
呂后は周昌がいては、劉如意を長安に呼び寄せる事は出来ないと考えました。
そこで、周昌を都に呼び寄せた上で、劉如意を長安に招く事にしたわけです。
劉如意は長安に向かいますが、この時に恵帝は身を案じ覇上まで迎えに行き、寝食を共にし片時も離れなかったわけです。
恵帝は呂后が弟の劉如意を害さないか心配であり、常に一緒にいました。
この時点で、劉如意の命は風前の灯火であり、恵帝の仁愛だけが頼りだったと言えるでしょう。
ある日、恵帝は狩りに出ますが、劉如意が起きなかった事で、寝かせたまま狩りに出かけてしまいました。
呂后はこの隙に、劉如意に鴆毒を呑ませて暗殺してしまったわけです。
恵帝が劉如意を狩りに連れて行かなかった事を、後悔した事は言うまでもないでしょう。
この後に、呂后は母親の戚夫人を殺害し、人彘事件が起きています。
劉如意は隠王と諡されました。
尚、漢書の高五王伝には劉如意が毒殺されると、子がなく家が絶えたとあります。