
| 名前 | パルティア |
| 別名 | アルサケス朝パルティア、安息、アルシャク朝など |
| 建国から滅亡 | 紀元前247年ー224年 |
| コメント | 大帝国は築くが王権は弱かった。 |
パルティアは紀元前247年にパルニ族のアルサケス1世により、建国されました。
アルサケス朝パルティアと呼ばれる事も多いです。
セレウコス朝シリアから独立したアンドラゴラスを破り、パルティアを領有する事になります。
後に勢力を拡大させていき、中央アジアからメソポタミア地方に掛けて大帝国を築き、ローマ帝国と争うまでになりました。
しかし、帝国内には力を持った貴族が複数人おり、王権は弱かったと考えられています。
パルティアは内乱に悩まされ、最終的にササン朝ペルシアにより滅亡しました。
中国の歴史書には「安息」の名前で登場しますが、パルティアは遊牧民出身のパルニ族がベースになっており、自分達の歴史を文字で残すケースが少なく分からない部分が多いです。
尚、パルティアは中華王朝の前漢が誕生する少し前に建国され、後漢が滅亡する少しあとに滅んでおり、漢王朝の時代に中央アジアやメソポタミアに君臨したと言えるでしょう。
西のローマ、東の漢王朝の間で活躍したのが、パルティアです。
アルサケス朝パルティアの成立
アレクサンドロス大王は大帝国を築きますが、死後にセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアに分裂しました。
紀元前245年頃に属州のパルティアのアンドラゴラスが、セレウコス朝シリアから自立しています。
アンドラゴラスはセレウコス朝シリアから自立はしましたが、これがアルサケス朝パルティアの成立ではありません。
セレウコス朝シリアでは紀元前239年に、バクトリア総督のディオドラスも自立しました。
これがグレコ・バクトリア王国の成立です。
セレウコス朝シリアの東方では、相次いで独立があり危機的な状況になってしまったと言えるでしょう。
こうした中で紀元前238年にアルサケス1世が、イラン系アーリア人のパルニ族を率いてパルティアに侵入し、アンドラゴラスが最期を迎えました。
後述しますが、アルサケス朝パルティアは紀元前247年に建国された事になっており、この時点で既に誕生していた事になります。

紀元前227年頃までには、アルサケス朝パルティアの勢力が、カスピ海南岸のヒュルカニアも降し勢力を拡大させています。
アルサケス1世は最初は現代のトルクメニスタンに位置するニサーを首都としていましたが、ギリシア文化に惹かれ後にヘカトンピュロスに遷都しました。
アケメネス朝ペルシアとアルシャク朝パルティア
ここではアルサケス(ギリシア語)としましたが、パルティア語ではアルシャクとなります。
アケメネス朝ペルシアのアケメネスもハカーマニシュとなります。
アケメネス朝ペルシアの王の即位名がアルタクシャサであり、同じ造語法を採用している事から、アルサケス1世がアケメネス朝ペルシアの後継国を強く意識していたのではないかとする説もあります。
アケメネス家の皇帝即位名の一つを名乗るのは、政治的な意味があったのではないかと考える事も可能でしょう。
ただし、アルサケス1世は「ギリシア文化の愛好者」を名乗るほどに、ギリシア文化を好いており、何処までアケメネス朝ペルシアへの想いがあったのかは不明です。
アンティオコス3世の遠征
紀元前209年頃にセレウコス朝シリアのアンティオコス3世は、アルサケス朝パルティアとバクトリアの征伐を行う事になります。
この時にパルティアではアルサケス2世の時代になっていました。
最終的にアンティオコス3世は、パルティアとバクトリアの両国と和議を結び大君主として認めさせました。
形の上ではパルティアもバクトリアも、セレウコス朝シリアに宗主権を認め屈した事になっていますが、実質的に両国ともに独立が認められた事になります。
因みに、アンティオコス3世はマウリヤ朝にも遠征を行っており、ソバガセノス王に朝貢を約束させています。
アンティオコス3世は大遠征を行ったと言えるでしょう。
アルサケス朝パルティア初期の銀貨
パルティアの初期の銀貨が見つかっており、アルサケス1世の顔が描かれていました。
貨幣に描かれたアルサケス1世は独特な帽子をかぶり、髭を生やしてはいなかったわけです。
現在の中東の人々は髭を生やした人が多いのですが、ローマ皇帝のコインやアレクサンドロスの彫像も髭を生やしておらず、共通点が見られます。
これに対し、パルティアで最初に自立したアンドラゴラスの硬貨を見ると髭を生やしており、文化の違いを感じる所となっています。
貨幣に描かれたアルサケス1世の顔は、髭がなく西洋風に描かれていると言えるでしょう。
因みに、パルティアやバクトリアに遠征したセレウコス朝シリアのアンティオコス3世も髭がなく西洋風で描かれています。
発見された貨幣からは、アラム文字やギリシア文字も描かれており、弓も描かれている所は遊牧民風となっています。
アルシャク家の威信
アルサケス朝パルティアは建国されましたが、100年程はパルティア地方の遊牧民であり、大して勢力拡大は行っていませんでした。
パルティアの東にはセレウコス朝シリアがあり、まだまだ強大な勢力を持っていたわけです。
それでも、パルティアの根本に位置するパルニ族は強固な父系制社会であり、アルサケス1世の後裔を中心とした王朝の団結力は強かったと言えるでしょう。
パルティアの歴代王はいずれも「アルシャク(アルサケス)」の称号を名乗っており、アルシャク家への強い求心力があった事が分かるはずです。
パルティアは軍事強国
パルティアは辺境の遊牧帝国に過ぎませんでしたが、ここからセレウコス朝シリアの領地を次々に奪い取って行く事になります。
ミフルダート1世の時代までに、サカ人が得意とする軽装備の機動騎兵による騎射戦法に加え、サルマタイ人の重装備の装甲騎兵による突撃戦法も習得していました。
これがパルティアの圧倒的な戦力となり、セレウコス朝シリアを圧倒する要因になったとも考えられています。
パルティアのメディア征服
紀元前160年頃にバクトリアでは、エウクラティデス1世が王位を簒奪するなど国内は混乱状態となりました。
ミフルダート1世はこれを好機とし、バクトリアの領土の一部を奪っています。
パルティアはミフルダート1世の時代に勢力を拡大させていきますが、紀元前148年の段階では現在のイラン北西部のケルマーンシャー州のベヒストゥン碑文の辺りまでは征服は完了していなかった様です。
ただし、この直後にパルティアはメディアの大半を征服したと考えられています。
ピリッポス史ではパルティアが、バカシスを総督に任命した話があります。
バカシスは楔形文字に登場するミフルダート(ミトリダテス)の子の、バガヤシャの事ではないかとも考えられている状態です。
バビロンを領有
紀元前147年頃にエラムでエリュマイス朝が勃興しました。
この頃に後の宿敵となるローマ帝国はポエニ戦争を終わらせ、カルタゴを滅ぼしています。
紀元前145年頃になると、エリュマイス王国の軍はセレウコス朝シリアのバビロニアに向けて進軍する事になります。
セレウコス朝ではアルダヤが迎撃に出ますが、エリュマイス王のカムナスキレスに敗れました。
しかし、セレウコス朝シリアだけではなく、エリュマイス王国の損害も大きかったとも考えられています。
これを好機とみたのがパルティアのミフルダート1世であり、141年頃にパルティアがバビロニアを占拠しました。
セレウコス朝シリアとエリュマイス王国の両方が消耗戦を行った事で、ミフルダート1世のパルティアがバビロニアを取る事が出来たともされています。
パルティアのアンティオコスは軍を率いて、エリュマイス王国に戦いを挑むも、寝返った話も残っています。
それでも、セレウキアやバビロンの人々はパルティアを支持し、パルティアの領有するところとなりました。
尚、バビロニアを占拠した頃に、パルティアでは紀元前247年を、元年とするアルシャク紀元が使われる様になります。
因みに、ミフルダート1世はパルティアの6代目の王にはなりますが、世界帝国の建国者は彼だとする評価もあります。
基盤が脆弱な王朝
パルティア帝国とも呼べる程の勢力とはなりましたが、ここでパルニ族の国だった頃とは状況が違ってきます。
パルニ族であれば「アルサケス家の者」で正統性を保つ事が出来ましたが、イラン高原やメソポタミア地方では通用しなかったともされています。
ミフルダート1世はアケメネス朝ペルシアが用いていた「バシレオス・メガロス(大王)」の称号を名乗り、様々な民族の上に君臨する事になりました。
ただし、パルティアは定住民の上に乗った形での覇業であった事で、ギリシア系都市市民を心服させる事が出来ず、地方王朝も残存しており、直轄領の少ない王朝となってしまい、脆弱な部分もあったわけです。
パルティアの権勢は遊牧民としての軍事力やアルサケス家に対する求心力、征服者としての権利で成り立っていたと言えるでしょう。
パルティアの苦難
パルティアはバビロンやセレウキアと有力都市は手に入れましたが、苦難の時代が訪れる事になります。
エリュマイス王国やセレウコス朝シリアとの戦いは継続される事になります。
セレウコス朝シリアのデメトリオス2世は東方遠征を行っており、パルティアと矛を交えました。
パルティア軍はデメトリオス2世を捕虜としますが、丁重に扱っています。
セレウコス朝シリアのアンティオコス7世が再び攻めてきますが、パルティアとの戦いで戦死しました。
パルティアの捕虜となっていたデメトリオス2世は逃亡し、セレウコス朝シリアの王として返り咲いています。
さらに、アラブの遊牧民が紀元前126年から20年ほど、パルティアに侵攻し破壊や略奪を行っています。
アスパシネー王がメセネ王国を建て、ペルシア湾岸地方を支配し、一時的にではありますが、パルティアはバビロンを奪われました。
東方では中央アジアの遊牧民であるスキタイ人やトハラ人の侵入に悩まされました。
パルティアの王子アルタバナが殺害されるまでになっています。
ただし、後にミフルダート2世が敵討ちに成功しました。
サカ人問題を解決
ミフルダート2世の時代に、首都を西のクテシフォンに遷しました。
パルティアの本拠地は発祥の地である中央アジアから、メソポタミア平原に遷都する事になります。
パルニ族も文化的になり中央アジアのステップ地域を放棄し、帝国の重心を西に移行させたと言えるでしょう。
ただし、西のクテシフォンへの遷都は、パルティアの東部が疎かになります。
大月氏に追われたサカ人が南下し、パルティアの東部に押し寄せてくる事になります。
サカ人との戦いは激闘であり、ミフルダート2世の前任であるフラーテス2世とアルダバーン1世は命を落としています。
パルニ族の人々は文化的な生活を送る様にはなりましたが、軍隊が弱体化しておりサカ人に敵わなかったようです。
戦えば苦戦するのは確実な状況の中で、ミフルダート2世はわざとサカ人に領土を与え、自らに仕える封建領主としました。
さらに、サカ人らがインドに突き抜けて行く可能性も秘めており、サカ人問題を解決できるとも考えられたわけです。
サカ人がパルティアの首都であるクテシフォンに向かってきた場合は、帝国はボロボロになるとも考えられ危険な策ではありましたが、サカ人は狙い通りにインド方面に突き抜けていきました。
諸王の王を名乗る
ミフルダート2世は紀元前111年を名乗る事になります。
さらに、紀元前100年代までには、様々な戦いで勝利し、イランやメソポタミアを統一しました。
尚、ミフルダート2世の時代にパルティアの中興の祖とも言われている人物です。
ミフルダート2世の貨幣も見つかっており「諸王の王アルサケス、正義なる、仁慈なる、そしてギリシア愛好者たる者」と書かれていました。
パルティアの軍はサカ人が相手には通用しなくなっていきましたが、ローマ帝国のファランクスが相手であれば、まだまだ通用したと考えられています。
ミフルダート2世は帝国の完成者というべき人物として称えられています。
ただし、ミフルダート2世が亡くなるとゴータルズ1世が即位しますが、この頃からパルティアの情勢が30年程分からなくなり、パルティアの暗黒時代とも呼ばれています。
紀元前90年頃から30年程は正確な情報がイマイチ掴めない状態となっており、パルティア国内は後継者争いなどで揺れていたのでしょう。
中華王朝とパルティア(安息)

司馬遷の史記の大宛伝にパルティアについての記述があります。
中国ではパルティアは安息と呼ばれていました。
安息はアルシャク家(アルサケス家)の家名を訛音をもって「安息」とのみ記載したのでしょう。
中華王朝は他の王朝は波斯(ペルシア)など、地名で表記される事が多いのですが、パルティアは珍しく家名で安息と記載されています
大月氏は匈奴に追われ西に逃亡していましたが、漢の武帝は協力して共に匈奴を挟み撃ちにしようと考えたわけです。
大月氏国は後にクシャーナ朝へと代わって行く事になります。
前漢は張騫を西域に派遣し、紀元前125年に帰還しており、情報を伝えました。
史記では大月氏は遊牧民として描かれているのに対し、安息は定住・農耕民として描かれています。
尚、パルティアは前漢だけではなく後漢とも国交があったようで、101年にパルティア(安息国)の使者がやってきたと後漢書に記録されています。
少し戻りますが、西暦97年に西域都護の班超が部下の甘英を大秦(ローマ帝国)に派遣しており、パルティア国内を通過したとも考えられています。
他にも148年と181年に仏教の僧が後漢に来訪した話がありますが、パルティアの東部ではクシャーナ朝から仏教が流入していたのでしょう。
パルティアの分裂
パルティアは首都を西のクテシフォンに遷したわけですが、この頃からパルニ族の間で分裂が起きる事になります。
ギリシア都市民やイラン系アーリア人の定住民及び定住する様になったパルニ族は、交易で富を得て平和を享受したいと考える様になります。
それに対し、遊牧生活を続けたパルニ族を中心に、征服活動を行い略奪により富を得たいと考える者もいたわけです。
片方は平和を望み片方は戦争を望んでいる事から、相容れる事は難しく関係が悪化していく事になります。
パルティアの王はバビロンの天文日誌によると、騎馬に乗り移動を繰り返していた様であり、遊牧民の移動式の天幕生活を続けていたとあります。
首都のクテシフォンがあるにも関わらず、遊牧民として残った者達に気を遣ったのか、天幕で暮らした事になるのでしょう。
パルティアの国内は分裂し支配基盤も脆弱であり、ここに西のローマ帝国が介入してくる事になります。
ローマ帝国は都市住民側を支援しパルティアに内政干渉を行うなどしました。
ローマの名将を破る
紀元前96年に共和制ローマとパルティアが接点を持つ様になります。
セレウコス朝シリアはシリアを領有する程度になっており、西では共和制ローマが勢力を拡大していました。
共和制ローマのキリキア総督のスッラが、パルティアの使節と接触する事になります。
紀元前53年にパルティアはウルード2世の時代となっていましたが、この時に共和制ローマとの間でカルラエの戦いが勃発しています。
カルラエの戦いでパルティア軍を指揮したのは、スレナスであり、共和制ローマの第1回三頭政治の一角をなすクラッススの軍を破りました。
この戦いでパルティア軍のパルティアンショットが大活躍したのでは、ないかとも考えられています。
尚、カルラエの戦いは三頭政治で、ポンペイウスやカエサルに軍功で明らかに劣るクラッススが、功績を求めた事で起きたともされています。
しかし、結果は大敗北に終わりました。
ただし、戦いに勝利したパルティアのスレナスも、パルティア王のオロデス2世に警戒され処刑されています。
後にカエサルがパルティア遠征を企画しますが、直前に暗殺されて計画は頓挫しました。
オロデス2世の子のパコルスはアンティオキアに攻撃を仕掛けますが、共和制ローマの軍に敗れて命を落としています。
紀元前36年に共和制ローマのアントニウスがパルティアを攻撃しますが、失敗に終わりました。
後にアントニウスは再びパルティアを攻撃しますが、ここでもアントニウスは敗れています。
トログスの『ピリッポス史』では「彼ら(パルティア)はローマ人によって3度の戦争で最盛期の最高の将軍たちが挑むも・・」とあり、パルティアがローマの名将?クラッススとアントニウスを破ったと説明しています。
女奴隷のムーサ
紀元前20年にローマ帝国のアウグストゥスが外交でパルティアのフラーテス4世から、クラッススやアントニウスを破れた時に失ったローマ軍旗を取り戻しています。
パルティアからローマ軍旗を取り戻したのは名誉な事であり、プリマポルタのアウグストゥス像の衣服には、ローマ軍旗を引き渡すシーンが描かれています。
アウグストゥスはイタリア人の女奴隷のムーサをフラーテス4世に贈っており、後にムーサはフラーテス5世を生んでいます。
フラーテス4世はムーサを寵愛しており、一つの説としてローマはフラーテス4世を篭絡させる為に、ムーサを送り込んだとも考えられています。
ムーサはローマ帝国の為の行動する事を期待された女性でもあったのでしょう。
後にフラーテス4世はローマ帝国に王子たちを人質に出しました。
ムーサが進言したともされており、自分の子以外を国外に出し、後継者にする為の策でもあったのでしょう。
パルティアの混乱
紀元前2年にフラーテス5世はムーサと共にフラーテス4世を暗殺しパルティアの君主となりました。
フラーテス5世とムーサは共同統治を行う事になります。
尚、フラーテス5世が表面、ムーサが裏面の貨幣も発行されていた事が分かっています。
フラーテス5世の時代にアルメニアの宗主権を巡ってローマ帝国と対立しました。
アウグストゥスは養子のガイウスを派遣しています。
ガイウスはフラーテス5世と会談を行っており、パルティアはアルメニアに対する要求を取り下げる事になりました。
この弱気な姿勢が反乱を招いたともされており、フラーテス5世は西暦4年に殺害されています。
フラーテス5世はパルティア貴族たちの支持を得ておらず、当然の結果だとする意見もあります。
オロデス3世が即位するも、性格に問題があり、直ぐに廃されました。
パルティアは混乱が続く事になります。
パルティアの内戦
パルティアはオロデス3世が廃位された後に、ヴォノネス1世と続く事になりました。
ヴォノネス1世はローマ帝国に強く影響され、ギリシアと市民及び定住民の利益を優先する事になります。
当然ながら、パルニ族の遊牧貴族からは不満が噴出しました。
定住民と遊牧民の間での対立は深まり、イラン高原東部を基盤とする遊牧貴族らは、母系でアルサケス家に連なるアトロバテネ王アルタバノス2世を擁立したわけです。
西暦8年に軍事衝突に発展し、パルティアは内乱状態となりました。
最初のうちはヴォノネス1世が有利でしたが、中央アジアの遊牧民の援軍を得たアルタバノス2世が巻き返し勝利する事になります。
ヴォノネス1世は西暦12年に追放されました。
アルタバノス2世は遊牧民を支持母体にしており、ギリシア系の都市国家とは決別に向かい、遊牧帝国へと回帰していく事になります。
アルタバノス2世は母系で繋がるアルサケス家であり、この時点で王朝交替があったとも見られています。
新王朝を開設せず
アルタバノス2世は内戦で勝利すると、ギリシア系諸都市の自治権を否認するなど、遊牧民のパルニ族を優遇する政策を行いました。
アレクサンドロス大王が東方進出を行った事で、東西が混ざりヘレニズム時代となりましたが、アルタバノス2世の政策により終焉に向かう事になります。
先にも述べた様に、アルタバノス2世は母系でアルサケス家と繋がっており、肩身が狭い部分があったようです。
パルニ族の中でアルサケス家は圧倒的な権威があったようであり、アルタバノス2世は新王朝を開くとは言わず、母系のアルサケス家の一族としてパルティアの王位を継ぎました。
パルティアの外患内憂
アルタバノス2世はパルティアの弱点が王権の支持基盤の脆弱さにあると考えていたようであり、王権を強化しようとしたわけです。
しかし、王権の強化は貴族たちの勢力を弱める政策でもあり、内乱で支持して貰った遊牧貴族たちの不満が高まる事になります。
パルティアの内部は乱れ、イラン高原東南部にいたサカ人らは、西暦20年頃にパフラヴァ王国(インド・パルティア王国)を建国しました。

先の内乱で戦ったヴォノネス1世は親ローマであり、パルティアはローマ帝国とも敵対する事になります。
さらに、アラン人がコーカサスから南下し、イラン高原北部を荒しまわっています。
アルタバノス2世は外患内憂となり、決定的な解決策も見出せぬまま西暦38年に世を去りました。
その後は血縁不明の王が即位したり、東方諸侯が勝手に独立するなどあった様ではありますが、詳細はよく分かっていません。
アルメニアを巡る争い
パルティアはローマ帝国のネロの時代に争う事になりました。
パルティアのヴォロガセス1世が兄弟のティリダテスの、アルメニア王就任を求めた事が争いの始まりでした。
ローマ帝国ではゲルマニアで戦功を挙げた将軍のコルブロを派遣し、西暦59年までにはアルメニアを制圧しています。
西暦60年に親ローマのアルメニア王ティグラネス6世が立ち、コルブロはシリアに帰還しました。
しかし、直ぐに紛争がおこりカッパドキア総督のパエトゥスがアルメニアに進出し、パルティアのヴォロガセス1世と戦っています。
パエトゥスはランデイアで包囲され降伏しました。
コルブロが再びアルメニアに進軍する事になります。
最終的にパルティアのティリダテスがローマ皇帝のネロから、アルメニア王位を認められる事で和平が結ばれる事になります。
西暦66年にはティリダテスがローマを訪問し、実現しました。
アルメニア王はローマの承認が必要ではありますが、パルティアに近しい人物が王位継承を行う事になります。
ローマ帝国とパルティアの和平を記念し、ローマではヤヌス神殿の扉の閉鎖(平和の象徴)を描いた貨幣も発行されています。
パルティアの変化
ヴォロガセス1世の時代にパルティアは復調の兆しを見せますが、完全復活とはいきませんでした。
ただし、時代的にはヘレニズムの影響が薄れ、イラン系アーリア人の定住民の文化が強くなった時期でもあります。
これまでのパルティアの貨幣には、ギリシア語の文字も入っていましたが、アラム文字を使用したパルティア語の銘文に代わりました。
パルティアの貨幣は、遊牧民だったパルニ族の影響があり弓矢が描かれていましたが、拝火壇になります。
拝火壇はイラン系アーリア人の文化であり、パルティア内部の体質が変わっていたのが分かるはずです。
尚、ゾロアスター教の伝承によれば「アレクサンドロス大王の遠征で散逸したアヴェスターは、アルサケス朝パルティアのヴォロガセスによって集め直され、文字に書き示された」と言います。
ここで登場するヴォロガセスは何世なのかは不明ですが、ヴォロガセス1世の可能性が高いと考えられています。
因みに、ここから先のパルティアは国内は荒れ果て、西のローマ帝国と北のアラン人の侵攻もあり、東方諸国の独立など国としての体裁が失われていく事になります。
クテシフォンが落とされる
ローマ帝国はトラヤヌス帝の時代に、ナバテア王国が滅亡しました。
西暦114年になるとアルメニアに侵攻する事になります。
パルタマシリス王を殺害し、アルメニア全土を平定し属州と115年にはメソポタミアまで制圧しています。
その後にアンティオキアに戻りました。
116年にユーフラテス川に沿って南下し、セレウキアやパルティアの首都のクテシフォンを占拠し、オスロエス1世は逃亡する事になります。
クテシフォンが陥落する時に抵抗らしい抵抗もなく、無血開城に近い状態だったともされています。
トラヤヌス帝は追撃を行いペルシア湾口のスパシヌ、メセネ王国の首都のカラクスにまで到達しました。
ローマ帝国ではオスロエス1世の子のパルタマスパテスをパルティア王に任命しています。
117年にトラヤヌスが亡くなると、後継者のハドリアヌスが、ユーフラテスの東を放棄しました。
尚、西暦116年にローマ帝国がパルティアを破りペルシア湾の方まで勢力を拡大した時が、ローマ帝国の最大版図だったと言えるでしょう。
ただし、最大版図は1年しか持たず、放棄されたという事です。
メセネ王国はトラヤヌス帝の時の大遠征で、ローマに従属する姿勢を見せました。
トラヤヌスの遠征が終わると、パルティアのミフルダートがメセネ王となっています。
しかし、西暦151年にヴォロガセス4世がメセネを併合しました。
パルティアとローマ帝国の戦いは続く
西暦161年にパルティア軍がシリアに侵入しました。
162年にルキウス・ウェルスのアンティオキアに進出しています。
しかし、165年にルキウス配下のアウディウス・カッシウスにセレウキアや首都のクテシフォンを落されました。
166年にローマでは東方からの凱旋式を挙行しています。
この時に兵士達が疫病(アントニヌスの疫病)を持ち帰ってしまいローマ帝国では、多くの人々が苦しみました。
ローマ帝国では五賢帝の最期の一人であるマルクス・アウレリウスが没すると、コンモドゥスが皇帝となります。
コンモドゥスは西暦192年に暗殺され、セプティミウス・セウェルスが立つ事になります。
三度に渡りセレウキアやクテシフォンが落とされ、北メソポタミアはローマ帝国の手に落ちました。
西暦216年になると、カラカラ帝による東方遠征が行われる事になります。
217年にカラカラ帝は東方遠征の最中に暗殺されてしまいますが、マクリヌスが立つ事になります。
パルティアのアルタバノス4世はローマ帝国の軍と戦いますが、勝利を得ました。
パルティアが勝利し、ローマ帝国に賠償を課しました。
アルタバノス4世がイラン・メソポタミアを治めるアルサケス朝本流の最期の王都なります。
パルティアの滅亡

パルティアはローマ帝国やアラン人に悩まされ、周辺国は独立し国家は機能しなくなり首都も何度も落され、いつ滅亡してもおかしくない状態となっていましたが、国は何とか延命していました。
アルサケス家の権威が強かった事で生き残ったとする説や、パルティアに代わる後継国家が出来なかった事が原因ともされている状態です。
他にも、パルニ族の重装騎兵が強く反乱に及ぶものが比較的少なかったなどの説もあります。
こうした中で、ペルシアからササン朝が勃興する事になります。
ササン朝ペルシアは拝火儀礼の復活を唱えて挙兵しました。
拝火儀礼の復活はササン朝ペルシアの戦略であり、偶像神殿の財宝を没収して軍資金にしていたと考えられています。
ササン朝ペルシアのアルデシール1世は大量の金貨や銀貨も集める事に成功し、勢力は強大となりパルティアに対し優勢となります。
西暦224年にパルティアのアルタバノス4世とササン朝ペルシアのアルダシール1世の間でホルミズダガンの戦いが起きています。
ホルミズダガンの戦いでパルティアは敗れ、アルタバノス4世も亡くなり、224年にパルティアはササン朝により滅びた事になっています。
226年にはクテシフォンも陥落しました。
ただし、アルサケス朝パルティアの分家はアルメニアで生き残っており、西暦428年まで存続しました。
この分家はネロの時代の戦いの後に支配を確立させており、428年まで生き残ったという事です。
ただし、アルメニアの分家にはパルティアの様な「諸王の王」を名乗る程の力はありませんでした。
代わりにササン朝ペルシアが諸王の王を名乗って行くことになります。
尚、パルティアはササン朝ペルシアに滅ぼされはしましたが、ササン朝初期の諸王は中期ペルシア語、ギリシア語、パルティア後で碑文を作成しています。
パルティアは西アジアで大勢力を築いたのであり、パルティア語も重要な言語だったのでしょう。