
| 名前 | 瓠公(ここう) |
| 生没年 | 不明 |
| 出自 | 倭人 |
| 国 | 新羅 |
| コメント | 始祖から四代の新羅王に仕えた |
瓠公は三国史記によると、倭人だったと伝わっています。
後に新羅王となる脱解が倭種だと記録されているのに対し、瓠公は倭人だったとはっきりと書かれています。
瓠公は赫居世の時代に馬韓に使者として赴きますが、剛毅な姿を見せるも馬韓王を怒らせました。
脱解には邸宅を奪われた話もありますが、後には大輔となり重用されています。
金閼智の入っていた小箱を探しに行ったのも瓠公であり、新羅の三王統を為す朴氏、昔氏、金氏の全てに関わっています。
尚、武内宿禰ほどではありませんが、瓠公は少なくとも四代の新羅王に仕えており、寿命が長すぎるのではないかとも考えられるはずです。
瓠公も伝説上の人物と言ってもよく、全員が同一人物なのかは不明としか言いようがありません。
瓠公は倭人
三国史記によると、瓠公はその出身の氏族名を明らかにしていないとあります。
しかし、瓠公は元々は倭人だった記述があり、瓠(ひさご)を腰にさげ、海を渡って新羅に来たと言います。
それ故に、瓠公と称したとあるわけです。
新羅の始祖である赫居世は卵から誕生した事になっていますが、大きな卵の形が瓢に似ており、ここから朴が姓になったと書かれています。
赫居世と瓠公は共に瓢と関係していますが、なぜこのような事になってしまったのかは不明です。
瓠公の剛毅さ
瓠公は新羅の赫居世に仕える事になります。
紀元前20年に赫居世は、瓠公を馬韓に派遣したとあります。
馬韓王は瓠公に次の様に述べています。
※三国史記より
馬韓王「辰韓と弁韓は我が属国である。
それにも関わらず、近年貢物を持ってこない。
大国に仕える礼儀として、これでよいのだろうか」
上記の記述から、馬韓王が貢物を持ってこない辰韓(新羅)をなじったといえます。
馬韓王に文句を言われた瓠公ですが、次の様に返しました。
瓠公「我が国では二聖(赫居世・閼英)が立ち社会は安定し天候もよく、穀物も多くあります。
人々は互いを敬い譲り合っています。
そのため、今の新羅を辰韓の遺民だけではなく弁韓、楽浪、倭人に至るまで恐れないものはありません。
それにも関わらず、新羅王は謙虚であり、私を馬韓に遣わし国交を開こうとしているのです。
礼儀に過ぎたことだというべきです」
瓠公は新羅の偉大さを述べたわけですが、馬韓王は激怒し、刀で脅しつけたと言います。
しかし、馬韓王の左右の者が諫めた事で、瓠公は許され帰国する事になります。
瓠公が剛毅な者だと分かる記述となっています。
三国史記には当時の情勢が記録されており、次の様に記載されています。
※三国史記より
これより前に中国で、秦の時代の争乱に苦しみ、東方に移住してくる者が多かった。
彼らの多くは馬韓の東におり、辰韓と雑居していた。
この時期になって、彼らは次第に盛んになり、馬韓王がこれを憎んで咎めたのである。
秦の時代の難民が弁韓の東に住み着き、辰韓の人口の底上げをし、結果として新羅の国力をあげたという事なのでしょう。
ただし、瓠公の訪問は馬韓王を怒らせており、失敗に終わったとみる事が出来ます。
尚、三国史記によると馬韓王は翌年の紀元前19年に世を去った話があります。
さらに、この翌年に温祚王により百済が建国された話があります。
瓠公が家を奪われる
何年の事なのかは不明なのですが、新羅に倭種の脱解なる者がいました。
昔氏の脱解は瓠公の家を吉兆の地と考えて、手に入れようと企てています。
どの様な方法を使ったのかは不明ですが、脱解は「瓠公を騙して手に入れた」とあります。
瓠公が住んでいた家が後の月城だと言います。
脱解は後に新羅王となりますが、何事もなかったかの様に瓠公を大輔として重用しました。
この辺りの経緯は不明です。
瓠公と金の箱
西暦65年に脱解は鶏の鳴き声を聞き、瓠公に調べに行かせました。
ここで金色の小箱を見つけ、瓠公は脱解に報告する事になります。
この小箱から出てきた子が金閼智であり、これが新羅の王統を為す金氏の祖となります。
瓠公は新羅の三つの王統である朴氏、昔氏、金氏と全ての系統に関係している事になります。
尚、瓠公の最期はよく分かっていませんが、初代から四人の新羅王に仕えており、かなり長寿だった事になります。