
劉恢は最初は梁王となりましたが、劉友が亡くなると趙王となりました。
呂産の娘を妻としますが、周りは呂氏の意を汲む人間ばかりであり、息苦しさを感じる様になります。
こうした中で呂産の娘は劉恢の愛妾に手を出し、愛妾は世を去る事になりました。
劉恢のショックは大きく、最終的に自害するにまで至りました。
尚、劉恢の死も呂后が悪女とされる理由の一つになっています。
劉恢が趙王となる
劉恢は劉邦の五男だとされています。
母親の名前は記録に残っていません。
紀元前196年に彭越が処刑され梁王の座が空位となりました。
劉邦は異姓の諸侯王を排除し劉氏を王として立てたいと考えており、自らの子である劉恢を新たに梁王としています。
劉恢が梁王となった翌年に劉邦が崩御し、前漢王朝は恵帝が即位しますが、政治を執り行ったのは呂后でした。
呂后は政治の実権を握るや劉恢の兄の劉如意と戚夫人を殺害しました。
劉如意は趙王であり、空位となった趙王を呂后は劉友としています。
呂后は呂氏の娘を妻としますが、劉友は呂氏の娘を愛さず妾を寵愛した事で、後に讒言され長安で餓死しました。
劉友は紀元前181年に亡くなり、呂后は劉恢を趙王としたわけです。
劉恢は趙王となりましたが、漢書によると「心は楽しまなかった」とあります。
趙王になったにも関わらず劉恢が喜ばなかったのは、兄弟で趙王となった劉如意や劉友の死を聞いており、趙王になれば自分にも禍がやってくると考えたのでしょう。
重圧の中で生活
呂后は劉恢に呂産の娘を嫁がせました。
劉友にも呂氏の娘を嫁がせましたが、呂氏の娘に讒言され劉友は命を落としており、劉恢も危険を感じていたとみる事が出来ます。
呂后が劉恢に呂産の娘を嫁がせたのは、監視とする説もあれば、自らの政権を安定させる為に、劉恢を取り込みたいと考えたとみる事が出来るはずです。
呂后としては劉恢を仲間に取り込みたかったとしても、劉恢は皇族の一人でもあり、注意するべき人物の一人でもあった事でしょう。
漢書には、王后(呂産の娘)の従官は全て呂氏の一族で固め、内に権力を欲しいままとし、劉恢を監視したとあります。
周りは全て呂氏の人間であり、劉恢は自由に振る舞う事も出来ませんでした。
こうなると劉恢は寵愛する妾に依存する様になって行くわけですが、王后はこの妾を鴆毒で毒殺したとあります。
前趙王の劉友と同じようなパターンで、劉恢も追い詰められていった事になります。
愛妾が亡くなると劉恢は、歌詩四章をつくり、楽人にこれを歌わせたとあります。
劉恢の最期
寵愛する妾を失った劉恢の悲しみは深く、六か月後に自殺しました。
漢書によると劉恢は世を去りましたが、呂后は「夫人の事で自殺するのは、宗廟の礼を奉祀する意思がないもの」とし酷評しています。
劉恢の後嗣は廃されました。
呂后としては、劉恢に対し監視も必要だが、政権内に取り込みたい意思もあり、一族の女性を嫁がせたともされていますが、結果として最悪の方向に行ってしまったと言えるでしょう。
劉恢の後の趙王には呂氏の一族である呂禄がなりました。
この頃の呂后の政権は末期症状でもあり、強引な手法が目立ち、政権は行き詰まっていたとみる事が出来ます。
尚、劉恢は紀元前181年に世を去りましたが、翌年には呂后が亡くなっています。
もう一年ほど劉恢が我慢して生き延びていたら、別の展開が待っていた可能性もあるはずです。
劉恢が亡くなった時点で、劉邦の子で生き残っていたのは劉恒と劉長だけとなっています。