名前 | 貂勃(ちょうぼつ) |
国 | 田斉(戦国) |
生没年 | 不明 |
コメント | 田単を救った人物。「盗蹠の犬」や「跖狗吠堯」などの諺とも関係している。 |
貂勃は田単を救った人物でもあります。
田単は滅亡寸前の斉を復興させた救国の英雄ですが、讒言され窮地に陥った事があります。
こうした中で、貂勃は斉の襄王に堂々と意見を述べ、田単を救った人物です。
しかし、貂勃も最初から田単に心を寄せていたわけではなく、最初は田単の事を悪く言っていた人でもあります。
貂勃と田単の話は「盗蹠の犬」や「跖狗吠堯」の諺にもなっています。
尚、貂勃は知者ではありますが、戦国策に記述があるのは1回だけです。
貂勃の話で不思議な部分もあると感じたので、最後に記載しておきます。
今回は戦国策の斉策に、登場する貂勃を解説です。
田単を誹謗中傷
紀元前284年に燕の楽毅が斉に大攻勢を行い、即墨と莒以外の斉の城を全て落としてしまいます。
斉は滅亡の危機にあったのですが、燕の昭王が亡くなり、燕の恵王が即位すると、楽毅は趙の恵文王の元に亡命しました。
楽毅が燕を去ると、即墨を守っていた田単は攻勢に転じ、様々な奇策を用いて、燕に奪われた土地を全て奪い返す事に成功します。
田単は臨淄に斉の襄王を迎え入れ、滅亡寸前の斉を復興させたわけです。
田単は安平君に任命され斉の宰相となり、救国の英雄となりますが、貂勃は田単の事を「安平君(田単)は小人である」と誹謗中傷しました。
貂勃の言葉は、田単の耳にも入り、真相を知りたくなった田単は、酒宴の席を開き貂勃を招いたわけです。
犬が吠えるのは主君の為
田単は酒宴の席で貂勃に会うと、次の様に述べた話があります。
田単「私は先生(貂勃)に対し、如何なる事があり、朝廷でお褒めくださるのか。」
田単は誹謗中傷を繰り返す貂勃に対し「お褒め」という言葉を使う辺りは、田単なりのユーモアとも皮肉とも取れます。
田単の言葉からは、田単が大らかな性格だったかのようにも感じます。
すると、貂勃は次の様に答えました。
貂勃「盗跖の犬は堯帝であっても吠えますが、盗跖の犬は盗蹠を尊び、堯帝を卑しんでいるわけではございません。
犬は自分の主人ではない堯帝に、吠えただけの事でございます。
例えるならば、賢人の公孫子と愚者の徐子がいたとします。
この場合であっても、公孫子と徐子が争えば、徐子の犬は賢者の公孫子に噛みつくはずです。」
この話に出て来る盗跖(盗蹠)は古代の伝説の大泥棒であり、殺戮を繰り返したとされる人物です。
それに対し、堯帝は三皇五帝に入れられる程の伝説上の名君となります。
つまり、貂勃は自分の主君の為に、田単の事を悪く言ったと述べた事になります。
貂勃が述べた話は「盗蹠の犬」や「跖狗吠堯」の話の元にもなっています。
さらに、貂勃は次の様に述べました。
貂勃「愚者に仕えていた犬が、賢者の犬になれたとしたら、相手を噛みつくぐらいでは済みません。」
貂勃は自分が賢者に仕える事が出来たならば、多いに役立つと述べた事になります。
田単は貂勃を賢人だと理解し、貂勃を斉の襄王に推挙しました。
これにより貂勃は仕官する事が出来たわけです。
貂勃は田単の犬になる事が出来たとも言えるでしょう。
田単を救う
貂勃が楚への使者となる
斉の襄王には9人の寵臣がおり、目の上のこぶである田単を嫌っていました。
9人の寵臣は田単を陥れようと画策し、斉の襄王に次の様に述べます。
寵臣「燕が斉を討った時に、楚の頃襄王は淖歯を斉に派遣し助けてくれました。
今の斉国は安定し、社稷も安泰です。
楚王に使者を立てて、お礼を述べるべきではありませぬか。」
斉の襄王が「誰が使者として適任か?」と問うと、9人の寵臣らは貂勃を推挙したわけです。
これにより、貂勃は使者として楚に向かう事となります。
田単の危機
貂勃は楚に到着しますが、戦国策によれば楚王は貂勃を引き留めて、帰そうとしませんでした。
貂勃が楚に引き留められた事を知ると、9人の寵臣たちは斉の襄王に次の様に述べます。
寵臣「貂勃は一介の家臣に過ぎないのに、楚王に引き留められています。
貂勃が楚で重んじられるのは、背後に安平君(田単)がいるからではないでしょうか。
安平君は斉王様に対し、君臣の礼もなく上下の別すらもありません。
安平君は民を養い民心をまとめ、貧しき者に恩を売り、外では夷狄や天下の賢人らと交わりを結んでいます。
これは田単に異心があるからではないでしょうか。
王様はご明察くださいますように。」
9人の寵臣たちは、田単を讒言したわけです。
斉の襄王も田単に対し、よくは思っていなかったのか、田単を召し寄せました。
田単は斉の襄王の様子がおかしい事を察したのか、冠を外し素足となり、肌脱ぎになって死を賜わりたいと願います。
斉の襄王は田単に対し、次の様に述べた話があります。
斉の襄王「お前は儂に対して、罪は犯してはおらぬ。
お前は臣下としての礼を行う様にせよ。
儂は王としての礼を行う事とする」
斉の襄王は田単に対して、恫喝とも呼べる態度を取ったわけです。
貂勃が田単を救う
貂勃が楚から戻ってくると、斉の襄王は功績を労う為に酒宴を開きました。
貂勃は斉の襄王から杯を賜わり、宴たけなわとなるや「田単を呼べ」と言い放つ事になります。
斉の襄王の言葉に貂勃は、直ぐに反応し平伏すると次の様に述べます。
貂勃「斉王様は亡国の言葉を言っております。
斉王様は周の文王と比べて、どちらが賢いと思っているのでしょうか?」
周の文王は周王朝の基礎を作った人物とされており、名君の代表格です。
勿論、斉の襄王が周の文王に及ぶはずもなく、斉の襄王は「周の文王には及ばない」と答えます。
すると、貂勃は次の様に述べます。
貂勃「私も斉王様が周の文王に及ばない事を知っております。
それでは、斉王様は斉の桓公と比べると、どの様に思うのでしょうか。」
斉の桓公は管仲を宰相とし、春秋五覇の筆頭に数えられる人です。
斉の襄王は「斉の桓公には及ばない」と答えます。
貂勃は次の様に答えます。
貂勃「その通りでございます。私も王様が斉の桓公にも及ばない事を知っております。
周の文王は呂尚を太公望と尊び、斉の桓公は管仲の事を仲父と呼び敬ったと聞いております。
今の斉王様には安平君(田単)がおられながら、「単」と呼び捨てにしているのは何故でしょうか。
天地が開き民が生じてから、安平君よりも功績を立てた者がいるとは思えません。
それにも関わらず、斉の襄王様は安平君の事を「単」と呼び捨てにしております。
これは国を亡ぼす言葉です。
燕の楽毅が斉を占拠した時に、斉王様は城陽の山中にお隠れになりましたが、安平君は弱き斉の軍を率い、強き燕を打ち破ったのです。
この時に安平君が斉王になったとしても、誰も文句は言わなかったのでしょう。
しかし、安平君は義を尊び、王様と皇后様を城陽から迎え入れました。
既に斉の国は安定しましたが、斉王様は安平君の事を「単」と呼んでおられます。
子供であっての、この様な言葉は言わないでしょう。
斉王様は安平君を讒言した9人の者を処刑し、安平君には謝罪すべきです。
これを実行せねば国は危うくなります。」
斉の襄王は貂勃の言葉に納得し、9人の寵臣を殺害し田単に夜邑の1万戸を加増し謝罪しました。
貂勃は田単を見事に救ったと言えるでしょう。
貂勃も主君の為の犬となり、見事に吠えたと言えます。
ただし、田単は後年に趙の宰相になった記述があり、斉から趙に移ったとする話もあります。
この時は、貂勃の言葉で上手く治まりましたが、斉の襄王は小役人出身の田単を軽く見ていた部分もある様に感じます。
貂勃と斉の襄王の話の不思議な所
斉の襄王と貂勃の話で、不思議な部分があったので記載しておきます。
斉の襄王の9人の寵臣は、楚が援軍として淖歯を派遣してくれた事に感謝し、お礼の使者を送る様に述べています。
しかし、楚の頃襄王が派遣した淖歯は悪心を起こし、斉の湣王を殺害しているわけです。
斉の湣王は斉の襄王の父親でもあり、自分の父親が楚王が派遣した淖歯に殺害されたのに、お礼の使者を送るのか?という問題が出てきます。
当時の価値観は分かりませんし、斉の襄王が楚王にお礼を述べるとしても、外交で楚と友好を深めたかったなどもあるのかも知れません。
貂勃の活躍は見事だとは思いますが、話の辻褄が合わないのでは?と感じた部分もあります。
参考文献:戦国策2 平凡社