芮玄は字が文表であり、丹陽の出身だと記録があります。
芮玄は正史三国志の注釈・呉書に名前が登場する人物です。
父の芮祉は孫堅に仕え、芮良は孫策の江東平定戦に参加した記録があります。
これらの記述から芮玄の家では代々に渡り、孫家に仕えていたのでしょう。
芮玄は芮家を継ぎますが、娘が孫権の後継者に指名されていた孫登に嫁いだ話があります。
芮玄の記述は少ないですが、孫権に死を惜しまれており、人間的にも優秀な人だったのでしょう。
芮玄は226年に亡くなった記述があります。
孫家に仕える
芮玄の父親である芮祉は孫堅の配下として各地を転戦し九江太守や呉郡太守に任命された話もあります。
孫堅死後に旧孫堅軍は孫賁が率いるなどもありましたが、袁術により吸収されています。
芮玄の兄の芮良は孫策に仕えて江東平定戦に参加し、会稽郡東部都尉に任じられました。
孫策の江東平定戦には芮玄も兄の芮良と共に、参加していた可能性は十分にあるでしょう。
何年の事なのかは不明ですが、芮良が亡くなると弟の芮玄が後継者になりました。
芮玄は孫策に仕えたのか、孫権に仕えたのかは不明ですが、孫家に仕える事になったわけです。
芮玄が後継者になる時の、記述は下記のものがあります。
「芮良が亡くなると、芮玄が芮良指揮下の兵を引き継いだ。
芮玄は奮武中郎将に任命された」
これらの記述から、芮玄は正当な後継者だと認められ兵士を引き継ぎ、奮武中郎将の位を与えられたのでしょう。
さらに、芮玄は手柄を立てて溧陽侯に封じられたとあります。
ただし、芮玄がどこで手柄を立てたのかは不明です。
それでも、芮玄は夷陵の戦い後も生きており、赤壁の戦いや夷陵の戦い、夏口の戦いなどで功績があったのかも知れません。
娘が孫登の妃となる
孫権は生母の身分は低かったのですが、長男の孫登を可愛がり、自らの後継者にしようと考えていました。
孫権は孫登に妻を迎えさせたいと考えており、次の記述が存在します。
「孫権は息子の孫登の為に、人柄のよい女性を妻に迎えさせたいと考えていた」
この時に、群臣の多くが次の様に述べた話があります。
群臣「芮玄は父親の芮祉、兄の芮良と共に徳義と文武を兼ね備えております。
その徳義と文武は三代に渡って名声があり、称賛に値します」
呉の臣下達が芮玄だけではなく芮祉、芮良までも称賛した事で、芮玄の娘が孫登の後継者になったわけです。
孫登は残念ながら、孫権よりも先に亡くなってしまいましたが、孫登が生きていれば、孫権の後継者になっていたのでしょう。
そうなれば芮玄の娘が皇后になった可能性もある様に思います。
芮玄の最後
正史三国志の注釈の呉書に、芮玄の最後に関する記述が存在します。
「黄武五年(226年)に芮玄が死去した時には、孫権は芮玄の死をひどく哀惜した」
上記の記述から芮玄が西暦226年に亡くなった事が分かります。
病死なのか事故死なのかは不明です。
226年は呉では劉備と陸遜の夷陵の戦いは終わっていましたが、魏が三方面から呉に侵攻して来るなどの苦難の時代でもありました。
魏は夷陵の戦い後に弱体化した蜀ではなく、三方面作戦を展開させるなど呉を積極的に攻めています。
こうした中で呉側も諸葛瑾を大将とし、司馬懿と戦いますが撤退した記録があります。
これが226年の出来事であり、こうした中で芮玄はこの世を惜しまれながら去ったのでしょう。
孫権は229年に孫権は皇帝に即位していますから、芮玄は皇帝となった孫権の姿を見る事無く、この世を去った事になります。
尚、潘濬伝に記述に芮玄が亡くなると、芮玄の兵士は、関羽討伐で呉の臣下となった潘濬の指揮下となり夏口に駐屯した話があります。
これを考えると芮玄に後継者はいなかったのかも知れません。