三国志

芮祉(ぜいち)は孫堅の下で各地を転戦した

2022年4月18日

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名前芮祉(ぜいち) 字:宣嗣
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力孫堅
一族子:芮良芮玄 孫:孫登の妃
コメント九江太守、呉郡太守となる

芮祉は孫堅の下で各地を転戦した人物です。

孫堅の配下と言えば程普、黄蓋、韓当、祖茂の孫堅四天王と呼ばれる人たちが有名だと感じます。

しかし、呉書潘濬伝の注釈・呉書を見ると孫堅の配下に芮祉がいる事が分かります。

芮祉に関しての記録は少なく、芮祉の子に芮良芮玄がおり、芮祉は孫堅の配下として各地を転戦した話があります。

今回は孫堅配下の部将として活躍した芮祉の解説をします。

芮祉はほぼ無名の人物ではありますが、ほぼ間違いなく実在した人物だと考えられます。

九江太守となる

正史三国志の注釈呉書に、次の記述があります。

芮祉は字を宣嗣と言い孫堅に従い各地を転戦し手柄を立てた。

孫堅は芮祉を推薦し九江太守に任じた。

正史三国志には芮祉がどの様な経緯で孫堅に仕えたのか?や、どの時点から孫堅と行動を共にしたのかは記述がなく不明です。

それでも孫堅の古参の臣下であれば、韓遂・辺章の乱あたりから孫堅の配下として、戦いに参加していたのかも知れません。

芮祉が孫堅から九江太守に任命されて信任されている事を考えれば、張角が引き起こした黄巾の乱や董卓の軍と戦った陽人の戦いの頃には、孫堅の配下になっていた様に思います。

芮祉が孫堅から九江太守に任命された時期ですが、正史三国志には記述がなく不明です。

しかし、孫堅は192年頃に袁術派として劉表と戦いますが、黄祖呂公により命を落としています。

それを考えると、芮祉が揚州の九江太守になったのは192年よりも前という事になります。

個人的には汝南袁氏の袁紹と袁術が争った頃に、芮祉は袁術派の孫堅配下として九江太守に任命された様に感じました。

呉郡太守となる

九江太守になった後の芮祉の記述ですが、正史三国志には、次の様に記載されています。

「後に芮祉は呉郡太守となった。芮祉は行く先々で評判がよかった」

この記述から芮祉が九江太守の後に、呉郡太守になった事が分かります。

ただし、ここでも芮祉が呉郡太守になった時期は不明であり、分からない状態です。

個人的には芮祉が呉郡太守になったのは、孫策の時代だったのではないか?とも感じました。

許貢が呉郡太守をしていた話があり、名目上は袁術の配下だった孫策が呉郡を支配する時に、許貢に対抗して芮祉を呉郡太守に任命したと考えたからです。

202年に孫権は正式に朱治を呉郡太守に任命しており、この頃までには芮祉は亡くなっていたのでしょう。

芮祉の子孫

芮祉の最後に関する記録はありません。

しかし、芮祉の子孫に関する記録が残っています。

芮祉の子には、芮良と芮玄がおり、芮良が後継者となりますが、芮良が亡くなると芮玄が後を継ぎました。

孫権が皇太子である孫登の妃を探させた時に、人々は芮祉、芮良、芮玄は三代に渡り名声があるとし、芮玄の娘が孫登の嫁いでいます。

この話から見ると芮祉は知名度は低いですが、子育ても上手く行き高い名声を持っていたのでしょう。

先の述べた様に芮祉は評判が良かった話もあります。

ただし、子の芮玄が亡くなると、芮玄の兵士は潘濬の下に置かれ夏口に駐屯した話があります。

芮玄には子がおらず、芮祉の子孫は絶えてしまったのかも知れません。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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