吉邈は正史三国志の武帝紀の注釈である三輔決録に名前が登場する人物です。
劉備が漢中の地を取り、漢中王に即位すると劉備に追い風が吹きます。
関羽が北上を始め、魏の国内は大きく動揺しました。
この時に金禕が魏から権力を漢に戻そうと画策し、仲間を集めました。
金禕が集めた仲間の中に、吉邈もいたわけです。
吉邈は金禕らと許昌の襲撃を企て動き出しますが、実行部隊を率いたのは吉邈でした。
今回は218年に魏に謀反を起こし、王必の命を狙った吉邈を解説します。
金禕に加担
金禕は魏の曹操が実権を握り、後漢王朝の皇帝である献帝が御飾りになっている状況に憤慨していました。
こうした中で金禕は自分に賛同してくれる者を集めます。
金禕と意見を同じにしてくれた者として耿紀、韋晃、吉本、吉邈、吉穆らがいます。
吉本の子が吉邈、吉穆であり、吉邈は父親に従い金禕の計画に賛同する事になったのでしょう。
金禕は謀反を起こす期間を伺っていましたが、218年にやってくる事となります。
曹操は張魯を破り漢中を取りますが、劉備が北上してくると夏侯淵が定軍山の戦いで破れ、漢中の地を喪失しました。
さらに、関羽が北上を始めるなど、金禕や吉邈らにとっては絶好の機会が訪れたわけです。
吉邈が兵を指揮
金禕は許昌を任されている王必を討ち取り、献帝を奪取し魏に反旗を翻そうと考えます。
さらに、金禕は劉備と手を結び、内外から魏を崩壊させようと画策しました。
金禕は王必や耿紀、韋晃などは王必を襲撃を計画しますが、実行部隊を指揮したのが吉邈となります。
記載はありませんが、吉邈の弟である吉穆辺りも一緒に兵を率いた様に思います。
ただし、吉邈が兵を率いたと言っても、雑人と呼ばれる雑役を行う賦民や子飼いの奴隷たちであり、決して強い兵ではありませんでした。
形だけは千人ほどの軍隊ですが、兵の質は劣悪と言ってもよいでしょう。
吉邈は夜中に門に火を放ち、王必を攻撃する事となります。
この時に金禕が人をやって内応させ、王必の肩を射る事に成功しました。
王必は吉邈の軍勢から逃げ、友人の金禕を頼ろうとしますが、王必の部下は次の様に述べています。
「今日の事件は誰の元に逃げるのが一番安全だと言えるのでしょうか」
王必は部下の言葉で目が覚めたのか、金禕の屋敷に逃げるのは危険だと判断し、許昌の南城に向かいました。
吉邈は王必の殺害に失敗し、朝になってしまいます。
朝になると吉邈の兵士は質が悪かった事もあり、皆が逃亡してしまったわけです。
吉邈の軍は王必と厳匡により完全に壊滅する事になります。
金禕、耿紀、韋晃、吉本、吉邈、吉穆らの許都襲撃は失敗に終わり、処刑されてしまいました。
尚、肩に傷を受けながらも生き延びた王必も14日後に矢傷が元で亡くなった話があります。
見方を変えれば吉邈らは、王必も道連れにしたとも言えそうです。