三国志 魏(三国志)

吉穆(きつぼく)は謀反に加担するも失敗

2022年4月30日

スポンサーリンク

名前吉穆(きつぼく) 字:思然
生没年生年不明ー218年
時代三国志、後漢末期
勢力曹操
年表218年 許都襲撃計画に参加するも失敗

吉穆は父親の吉本や兄の吉邈らと、金禕の許都襲撃計画に参画した人物です。

吉穆の名は正史三国志の注釈・三輔決録に名前が登場します。

許都襲撃計画は218年に興った事件ですが、失敗に終わりました。

尚、吉穆に関しては記録が少なく分かっている事は少ないと言えます。

しかし、吉穆の字が思然だった事など、分かっている事もあり解説致します。

正史三国志の吉邈の記述

正史三国志の注釈・三輔決録に吉穆に対しての記述が存在します。

「金禕は漢から魏に移って行く事を嘆き、心を奮い立たせ耿紀、韋晃、吉本、吉本の子・吉邈、吉邈の弟・吉穆らと乱を起こそうと画策した」

上記の記述を見ると、金禕の考えに吉穆も賛同し耿紀韋晃、吉本、吉邈らと謀反を起こす為に動いた事が分かるはずです。

吉穆も後漢王朝の献帝を支持する立場に身を置いた事になるのでしょう。

さらに、次の記述が存在します。

「吉邈は字を文然、吉穆は字を思然という」

上記の記述から兄の吉邈の字が文然であり、吉穆の字が思然だと言う事が分かるはずです。

三輔決録には吉穆の名は、これしか登場せず金禕に謀反に加担した事位しか分かっていません。

金禕らは謀反を起こし王必の命を狙いますが、吉邈がどの様な役割を担ったのかは不明です。

ただし、兄の吉邈に関しては、次の記述が存在します。

「文然たちは雑人や子飼いの奴僕を千余人率いて、夜中に門を焼き討ちし王必を攻撃した」

文然は吉邈の事であり、吉穆の兄となります。

「文然ら・・」という記載があり、名前が省略されていますが、吉穆も一緒におり王必を攻撃した様に思いました。

金禕、耿紀、韋晃、吉本らが首謀者となり、実行部隊を率いたのは年齢が若く体力があった吉邈や吉穆だと感じたわけです。

ただし、王必を討ち取る事が出来ず、金禕の謀反は失敗に終わり、謀反に加担した者達は処刑される事となりました。

三國志演義の吉穆

三國志演義の吉穆は、正史三国志に無い様な設定が盛り込まれています。

正史三国志だと父親の名前が吉本ですが、三国志演義だと吉太となっており、医者という設定になっています。

吉太は董承の曹操暗殺計画に加担し、命を落とし吉邈と吉穆は都を離れ逃亡した事になっています。

曹操が王必に許昌を任せ、張魯討伐に向かった所で金禕、耿紀、韋晃が動き出します。

金禕、耿紀、韋晃らは、吉太の子である吉邈と吉穆が都に帰ってきている事を耳にしました。

金禕が密使を送り吉邈と吉穆に謀反の謀を伝えると、吉邈と吉穆は涙を流し、曹操を殺害しようと誓いを立てています。

耿紀、韋晃、吉邈、吉穆は王必を襲撃しますが、この時に吉邈と吉穆は城外より斬り込みを掛けた話があります。

しかし、王必には逃げられてしまい、金禕の妻が謀反を起こしたのは金禕だと間違えて伝えた事で、王必は曹休の元に逃げ延びました。

曹休が動くと夏侯惇も3万の兵を動員し、鎮圧に取り掛かった事で、耿紀、韋晃、吉邈、吉穆らは圧倒的不利な状況となっています。

こうした中で吉邈、吉穆の兄弟は討ち取られてしまい乱は収束に向かいました。

三國志演義には耿紀韋晃が悔しがり亡くなるシーンは史実同様にありますが、吉邈、吉穆らは討ち取られた事だけが記述されています。

これが三国志演義の吉穆の登場シーンとなります。

尚、この話は三国志演義69回「漢の賊を討ちて五臣節に死す」というタイトルであり、節義に死んだとする五臣の中に吉穆も入ります。

吉穆らは献帝の為に動いたわけであり、名誉の死とも言えそうです。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

スポンサーリンク